Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

不毛な時間。

2007-06-16 | 徒然雑記
「俺はアナコンダが怖いんだけど、お前にも怖いものなんてあるのか。」
「そうですねぇ。・・幸せになること、ですかね。」

 役員がみな帰ってしまったあとの役員室で、煙草の煙を吐き出しながら、上司に目を合わせずにわたしは応えた。
上司のぎょっとした顔を確認したわたしは、にっと笑って「冗談ですよ。」と嘯いた。返事を待たず、「で、先ほどの確認ですが・・」と懸案事項の確認へと話をずらした。

 少々いたずらが過ぎたかしら。八つ当たりも程々にしなくちゃね、と自嘲気味に笑いながら上司に背を向けて役員室を後にすると、書類の束をどさり、と机に置いて脇目も振らずに仕事に興じた。その日の上司は、通りがかりに遠くからちらと私の風情を確認すること数度にわたった。

その日の仕事を片付けにかかる頃、携帯メールをチェックする。削除すべきもの、一旦無視してよいもの、早急に返事をすべきものとを一瞬で分類する。いつもこれらの中では「一旦無視」のカテゴリに分類されるものが多く、失敗するとそれら留保のものどもが積み重なり、慌てて山ほどの返事を纏めてせねばならなくなる。この癖はなかなか治らない。

いつもであれば「削除」あるいは「一旦無視」のカテゴリに分類されるものに、返事を返したくなるときがある。それは通り雨のようなもので、気紛れにわたしの上をざっと通り過ぎて、またすぐに居なくなる。


「久しぶりだね。今はなにをしているの。」
慣れた街の花屋の前でわたしを待っていた男は訊いた。わたしは3年間にわたる様々な環境の変化や浮き沈みについてを1分足らずで話した。相手の近況についてわたしから問うことはまずない。

「話を聞くたびに全てが全く変わってしまっているからほんとうはもっと驚くべきなんだろうけど、さすがにもうそれにも慣れてしまったよ。『えっとね、ほんとは2年前に死んじゃってさぁ。』とか云われても驚かないんじゃないかと思うと、少し哀しいことなのかな、って思うね。」
「どうせなら、そのくらい突飛なほうがいいんじゃない?」
「聞くほうの身にもなってくれよ。」
「だったら聞きになんて来なけりゃいいのよ。」
「それもそうか。腹を括って来い、ってところだな。」
「そうね。」


 無駄に広く無駄に柔らかいベッドに仰向けになって寝煙草を吹かしながら、人材育成とメンタルヘルスの話題を振り向けた。わたしの環境が変わる毎にわたしの口をついて出る話題は変化する。美術の話やら遺跡の話やら、旅行の話やIT、経済などなど。それらにいちいち驚くことも口篭ることもなく、いつもそれなりの会話を展開してくれることは有難い。この男がなぜ広範囲に渡る知識を有しているのか、何をして食っているのかについては全く知らないが、わたしの時間に不満を差し挟まないことにかけては上手いと言わざるを得ない。
そろそろ話をするにも飽きてきたかな、と自覚するより少し前に、男はわたしの吸っていた煙草を指からひょいと取り上げて、唇を合わせてきた。こういうところが、やはり呆れてしまうくらいに上手い。
図らずも苦笑したせいで、わたしの唇は一瞬だけ、歪んだ。

 数年おきに繰り返されるこの不毛さを、わたしは嫌いじゃない。
与えられている幸せと過去に踏みにじってきた不幸せとを醒めた眼で俯瞰すること自体は、いまを客観視するために決して不毛な作業ではない。


「じゃね。次に逢うときまで、死ぬなよ~。」
「逢いたけりゃ地獄にメールすればいいでしょう。アドレスは一緒よ。」

笑って答えながらわたしは扉を閉めようとした。
そういえば、昨夜から今までの間に、歯を見せて笑ったのはこの一度きりだ。
わたしを愉しませないという点においても、やっぱりこの男は非常に上手なのだ、と思った。