Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

Sadistic Snipe

2007-02-25 | 物質偏愛
 気に入りだった一眼レフを知人に貸して質入れされたのは、もう何年前のことだろうか。
 望遠レンズも付けて貸してしまったから、手元に残ったのは単眼の2本のみ。数年後、その状況を哀れんだ知人の知人が、手元にある沢山のカメラの中からわざわざ馴染みのPENTAXを拾い出して、その一機を私に提供してくれた。そこまでしてくれるのなら、と私はその場凌ぎの望遠レンズを購入した。

 そしてまた数年経った。窓際に置かれたあの機械が再び起動した。「遊ばせておくのは勿体ない」と、ご丁寧にリチウム電池とフィルムをその手に提げた親切な人は、数年に一人くらい現れるものなのかもしれない。
だから、寒空の中へ久々にカメラを携えて出掛けた。

 写真を撮ることは、人も動物も決して殺傷しないだけのスナイプ(狙撃)だ。
 視界を広く保って獲物を探して一方的に対象物を定め、遠くからひっそりと、あるいは双方合意のうえで狙撃する。対象物の選定にあたっては論理を必要とせず、それはいつも本能的な一瞬の判断で行われる。

 出来上がりの写真に求めるテーマや出来の良し悪しは兎も角として、そのスタイルは本当に多種多様だ。対象物を多く定める乱れ撃ち型もいれば、対象物決定から狙撃までの躊躇の時間の長短、至近距離からの狙撃あるいはその逆を好む人、対象物に対して真っ向勝負を挑む人など、一人の人間が複数の「型」を持つ。

 それはいずれのスタイルであっても、非常にサディスティックな遊戯であることに変わりはない。カメラを趣味とする人の多くが男性であることもその遊戯の性質を如実に表している。勿論、カメラと深く付き合うには機械を扱う愉しさという別の要素も含まれているが、そもそも機械の機能を熟知し、その性能を存分に手懐けたいという好奇心と欲望自体がサディスティックな側面を持つことは自明であろう。


 一方的な狙撃によって場面と時間を切り取り、手元に収める。

 一緒に楽しい時間を過ごしたときの、大好きなあの人の表情。
 一年後には跡形もなくなってしまう、大好きなあの建造物。
 その実物を所有することができない、憧れやまないなにか。
 次にいつ出逢うことができるか判らない、一瞬の色、場所、それらの表情。
  
 誰も止めることができない時間の流れ。次の一分、明日の同じ時間には決して二度と同じ表情を見せてはくれない対象物。抗えない大きなものに無力な抵抗を試み、その欠片を我が手に取り込もうとする行為は、美しいものを見た証拠として、記憶として、感動の断片として繰り返し行われる。シャッターを押すそばから老いてゆく我々と、新陳代謝を繰り返す風景。

手元に残るすべては、影。

繰り返される狙撃は、哀しいほどに逆説的な、マゾヒステイックな切望。