Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

異国へゆく。

2004-08-27 | 異国憧憬
『観光』:国の光を見ること。また、国の光を示すこと。(易経)

 昨夜、知人の所属する合唱団が、ニュージーランドへ旅立った。
隔年で行っている、三週間の長きに渡るニュージーランドとオーストラリアでの演奏旅行のためである。

アテネオリンピックから戻ってくる選手団で到着ロビーは大賑わい。
はたまた、Tシャツにサンダルにサングラスのビーチスタイルの若者で出発ロビーも大賑わい。
そんな中、今回の訪豪の為に特注した揃いのTシャツを着てロビーの隅に数十人と固まっている老若男(※女、はいないのだ)は異様な存在感を示している。メロンパンにかぶりつく者、緊張でじっとしていることができずにうろうろしている者、手持ち無沙汰でウクレレを奏でだす者。そしてその周囲をなんとなく取り囲んで雑談に耽る者・者・者。

 見送りという立場は退屈だ。
思い思いに緊張している(無自覚であれ)ハレの日を迎えた彼らのそばで、干してきた洗濯物と雨模様の心配や、今夜作るご飯の心配などをしているケの日真っ盛りの自分。彼らとテンションが一致するはずもない。
揃いのTシャツを着てはしゃいでいるのも今のうち。向こうは真冬で今ごろ雪が降ってるんだもんね~・・などとかなり意地悪なことを考えてみたりもする。

 なぜ、わざわざ知人の見送りにきてまで、そんな意地悪を思うのか。
答えは簡単。「羨ましい」のだ。

 海外に仕事ではよく行っていた。しかしそれは仕事をするためだった。
 旅をするために国内を巡ることがある。しかしそれは旅をするためだった。

彼らには、向こうで彼らを待っているホストファミリーや、コンサートのスポンサーがいる。
彼らの娘息子の成長した写真を見せて貰うのを待っている人もいれば、晴れて結婚した者の奥さまの写真やお話を待っている人もいるだろう。それになにより、彼ら自身が待ち望まれている。
変わりなく彼らがその地を訪れることを。そして、音楽という形のない美しいものを通じて、自らと彼らとを結びつける海を越えた絆を再確認できるひとときを。空白の2年間を、空白でなく埋めることができるその声を、実感を、体温を。
彼らは旅をするために行くのではなく、何かを成すために行くのであり、それを望まれている。
そんな彼らに私が少しばかり嫉妬することは、醜いことなのだろうか。

そして思う。
ツーリストでもビジネスマンでもない形で異国へゆく彼らを指し示す言葉は、何なのだろう。
彼らは、何者なのだろう。
何者であることを、望まれているのだろう。