Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

円成寺(大日如来)

2004-08-09 | 仏欲万歳
大和の国の、柳生の里。
ようやく出遭えた、運慶20代頃制作の大日如来。彼には、以前に写真で見たときから恋をしていました。

 細めのなだらかな肩のラインに、智拳印を結ぶ控えめな肘の張りと、リアリティをかもし出す左右非対称な腕の高さ。若々しく理知的な顔は静かに、しかし厳しく思索をしているように薄い唇を引き結ぶ。
かつて身体を覆っていた金箔の殆どは剥落し、漆地が覗いている。そのまだらな感じが写真では一種無残な印象を与えていたが、実物からは悲惨な印象は別段受けず、まったく動きのない沈黙と静寂の思索の中にあって、体躯の薄皮一枚を隔てた中に混沌と有り余る若き知性とエネルギーが渦巻いているような、決して目を逸らすことを許されない強烈な個性を滲ませている。私にとって特別な光を放つ像であった。

 金堂には、阿弥陀如来坐像を囲んで、内陣柱の向かって右と左の手前から奥に向けて2本ずつ計4本の柱に、室町時代の聖衆来迎図が描かれていた。平安後期から図柄があったと云われているが火災のため、今ある柱絵は室町時代のもの。須弥壇の中央におわす阿弥陀如来と、それを囲む柱で三次元的に阿弥陀聖衆来迎図を立体表現するという大変珍しい表現方法に素直に驚嘆した。
 
 ゴージャスに舞台までついている金堂に入堂した往時の人々が、丈六の阿弥陀と、それを囲む極彩色の菩薩や天人が舞い飛ぶ柱を目にし、この山裾の寺で、庭園の池に咲いている睡蓮のほとりで、どんな夢をみたであろうか。
連れが一緒でなかったら、泣いてたかもしれない。