Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

六波羅蜜寺(空也上人)

2004-08-25 | 仏欲万歳
 ながいきんさんの寺ばなしに触発されてひとつ。
誰しも見たことがあるはずだ。中学の教科書かなにかで、口から苦しそうに六体の仏を吐き出している彼を。欠食児童のように華奢な小学生程度の身長で、片足を踏み出してなんとか踏ん張っているように見える。そして顎をぐっと突き出し、渾身の力でウエッとばかりに六体の阿弥陀仏を吐き出しているのである。
そのインパクトたるや、並みのものではない。

 空也上人はあくまで修行僧であって仏さまではないにせよ、日本でいちばん有名な仏像(とそれに準ずるもの)のひとつと考えられる。大仏も有名だ!と仰る方々も多くおいでになるだろうが、奈良の大仏と鎌倉の大仏の写真を背景なしで並べてみて、果たして何%の正解率が弾き出されるであろうか?更に面倒なことを云えば、奈良の人(仏だけど)と鎌倉の人は、別人である。片やビルシャナ。片やアミダさまである。

 さて、空也上人のどこが凄いかというと、まずはその理想化を最小限に留めた際どいリアリズム。見たものに「美しい」というよりはむしろ「ちょっとキモチワルイかも」と思わせる表現の厳しさがそこにある。その厳しさは、畢竟、上人の修行の苦しさでもある。
もうひとつは、阿弥陀仏の御名を唱えるという形にならない「音」を伴う行為を独創的な表現方法によって実現したという点。仏像初心者の友人を連れて行ったら、「針金出てるよ、針金。痛そ~。」と云っていた。針金を口から引っ張り出し、そこに念仏の文字数と同じだけの仏を連ねてしまったという形は、はっきり云って無理矢理ではあるが、なにしろ伝えたいことはよく判るし、胸を突かれるような強さがそこにはある。
 
 あの像を見た者の表情は二通りある。仏を吐き出すという想像を超えた表現と、全身から滲み出る苦しさの表現。
前者が勝れば、人は驚き、うまい言葉が見つからないので、笑う。
後者が勝れば、人の顔は上人と同じ苦しみに歪む。想像して、無意識に真似てしまうのだ。
両方とも、修行の苦しみと、その修行を続けた上人の偉大さとを伝えるには充分。

 この小さな彼を彫った仏師は、ただひとつ伝えたい美しい信仰という美徳のために、美しさとはかけ離れた表現方法を用いて、それに到達したのである。