Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

『切る』という行為。

2004-08-19 | 徒然雑記
 髪を切る。
 爪を切る。
それは自分で勝手に、痛くも痒くもなく手軽に行うことができるごくごく初歩的な肉体改造。それは確実に、性的な悦びを伴うことを誰が否定し得ようか?

 それは仮にも自らの身体の一部である部分を、美容師と名乗るアカの他人で、職人で、大概は男性であるところの者に委ねてしまうという、大層不埒な行為ではあるまいか。美容師との仲が恒常的である場合は余計に、その者に髪を委ねることに安心と悦びを感じ、更にその者の行為に手出しができないように予めケープで自らの身体を拘束されることすら甘んじて受け入れるという行為。
作業が終了し、鏡に映された「行為の後の」自分を見て、なんだか気恥ずかしく高揚した気分になること。
それらの一部始終が、性行為に似ていないと否定できる論拠はあろうか?
私は、髪を切る行為が好きだ。明るい場所の裏に流れるその心理的交錯が好きだから。

 爪を切るのは、風呂あがり。
地元では「夜に爪を切ると親の死に目にあえない」という言い伝えがあるが、冷静に考えても生まれてこのかた一度も日暮れたあとで爪を切ったことがないっていう人もまずいないことだろうので、気にしない。
ピアノをずっと習っていた際の癖もあり、どうも爪を伸ばすことができなくて、テーブルやキーボードに爪が当たってカチカチなる音が鬱陶しく、週に2度はきっちりと短く爪を切りそろえる。切った爪には、季節やその日の気分でおもちゃのような色をのせていく。小作りな手に、細い指に、とても小さな子供のような爪。その先を彩る、黄金色や茜や六章色や紫陽花色、桔梗色、夜露の色、とりどりの爪紅。

 人間の体内では生成し得ない色を身体の一部に纏う悦び。
やり直しや取替えのきかない刺青と違って、気分に合わせて色をくるくると変えることができる奔放さ。
人という生きものでありたいと願う自分の身体の最もすみっこである爪を、本能でないもの、人外のものを彷彿とさせるもので彩ることによって「自分はツクリモノである」という演技をすることができる。
今日もおもちゃの色を載せ、おもちゃの心のふりをして笑う。