CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

今週の『エール』山崎育三郎VS古川雄大 歌手デビューめぐり火花散らす

2020年06月22日 16時46分31秒 | Gooニュース

今週のNHK朝ドラ「エール」は第13週「スター発掘オーディション!」です。

Gooニュースでは下のリンクのように今週のストーリーを紹介しています。

gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/crankin/entertainment/crankin-7769103

 

6月22日(月)放送の 61話ではこんな内容でした。


コロンブスレコードと契約して5年が過ぎ、裕一(窪田正孝)はご当地ソングや
「大阪タイガース」など球団歌を数多く手がけ、安定した作曲家生活を送っていた。
ある日、裕一は廿日市(古田新太)から「コロンブス専属新人歌手募集」の
オーディション合格者のデビュー曲の作曲を依頼される。
裕一は4年前に音楽学校を卒業以来、いまだオペラ歌手としてデビュー
できていない久志(山崎育三郎)に応募を勧める。

掛布元監督が特別出演

4歳になった華ちゃん(田中乃愛)が喫茶店でスイーツを食べており、

傍に音(二階堂ふみ)が色々と世話をしている場面から始まります。

華ちゃんを演じるのは、セントラル所属の子役・田中乃愛(のあ)ちゃん。

なつぞら では、奥原咲太郎・なつの妹、千遥の幼少期を演じていました。

また、大河ドラマ 「麒麟がくる」 では、大火事で両親を失った幼少期の

駒を演じていました。

 

実話では

古山裕一・音のモデルは古関祐而・金子夫妻

鉄男のモデルは野村 俊夫

久志のモデルは伊藤久男です。

古関祐而、野村俊夫伊藤久男の3人は福島の三羽烏と言われています。

 

今日のドラマは実話の昭和11年(1936)を設定

この年に大阪タイガースの歌(六甲おろし)を作曲しています。

 

上の写真はドラマ(6月22日放送)での福島三羽烏

 

伊藤久男についてWikipediaより引用紹介します。

 

伊藤 久男(いとう ひさお)は、日本の歌手

生年:1910年(明治43年)7月7日

没年: 1983年(昭和58年)4月25日

本名は伊藤 四三男(いとう しさお)。福島県本宮市出身。

本名の四三男は生年の明治43年に由来する。元妻は戦前にコロムビアレコード

等で活躍した元芸者歌手・赤坂百太郎(大西ふさ子)。 

 

伊藤は同郷の作曲家・古関裕而の作品を多くレコーディングしている。「露営の歌」「続露営の歌」
「暁に祈る」「海底万里」といった戦時歌謡から、「イヨマンテの夜」「君いとしき人よ」
といった歌謡曲、また、現在でも夏の高校野球全国大会で歌われている「栄冠は君に輝く」
までも伊藤の創唱によるものであった。 
NHK紅白歌合戦にも計11回出場している。古関裕而のクラシックの格調は、
美しいテナーの音色で歌う藤山一郎に代表されるが、古関メロディーのドラマティックな
抒情性は伊藤久男のリリックな歌唱によって声価を高めた。

エール 62話 6月23日(火)はつぎのような展開になるようです。

久志(山崎育三郎)がなぜ音楽の道に進むことになったのか、そのきっかけについての物語。
学校ではクールにふるまっている10歳の久志(山口太幹)だったが、
家では父の再婚で新しくやってきた母・玲子(黒川芽以)になじむことができず、葛藤をかかえていた。
担任の藤堂先生(森山直太朗)は、ある日クラスの皆で歌っている時に
久志の歌の才能に気づいて、学芸会でその歌声を披露することをすすめる。

最後に、伊藤久男の歌唱で曲:古関祐而、詞:野村俊夫の福島三羽烏により

昭和15年(1940)にレコード化された「暁に祈る」のyoutube動画を添付。

暁に祈る 伊藤久男

 

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兵庫県立考古博物館の特別展示「西宮山古墳出土の装飾付須恵器」 on 2020-3-1

2020年06月22日 05時25分56秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年3月1日、兵庫県立考古博物館の特別展示「西宮山古墳出土の装飾付須恵器

を見学しましたので写真紹介します。

この特別展示は京都国立博物館考古資料相互賃借活用促進事業で実施されました。

西宮山古墳出土の装飾付須恵器の展示

上の2枚の写真は京都国立博物館所蔵の「西宮山古墳出土の装飾付須恵器」の展示

正面より撮ったものです。

上の写真は「西宮山古墳出土の装飾付須恵器」の側面

 

西宮山古墳はたつの市日山にあった長35mの前方後円墳(古墳時代後期6c)で

昭和29年(1954)に龍野高等学校運動場の拡張に伴い発掘調査が行われ、古墳から

出土した遺物は京都国立博物館に収められています。展示物は須恵器台付壺で、

胴体の4か所に小さな壺が貼りついた珍しい形をしています。

小型の壺の間には人や動物を表現した小像が取り付いています。

古墳の入り口にこのような土器が2個置かれていたとのこと。

鼻の高い男が主人公でこの古墳に葬られた人物で、その人生を表現豊かに伝えています。

4か所の小像のうち1か所は小像をほとんど欠いていますが、残りの3か所は相撲、狩猟

荷運びの情景が表現されています。

上の写真は狩猟と荷運びの説明パネル

相撲については上に添付した側面からの写真の下方に説明パネルがありますが

改めてその内容を記述すると「相撲をとっている人物の他に横に行司と見物人

が描かれている」と推察されます。

野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)の解説 By Wikipedia

たつの市では 明治時代後半から 相撲の神様「野見宿禰」の墓探しが行われました。

『風土記』 に書かれた「立野」(龍野)の地名が 野見宿禰にちなむことから、

いくつかの候補地があがり、その後、西宮山古墳から出土した装飾付須恵器の

人形が 力士では? と注目されました。

上の写真はたつの市の野見宿祢神社に続く階段 撮影:2011-12-12又は13日

パワースポット野見宿祢神社に関連のサイトにリンク

西宮山古墳から出土した遺物の展示について紹介したサイトがありましたのでリンク

 https://blog.goo.ne.jp/1945ys4092/e/d0968dc832d8c3c08d814345e5e38064

勝手野6号墳出土 装飾付須恵器

上の写真は、兵庫県立考古博物館所蔵の勝手野6号墳出土 装飾付須恵器

(県指定重要文化財)です。西宮山古墳出土品と同じく、すもうや狩猟などの

様子が表現されています。

上の写真は装飾品の説明パネル

最後に京都国立博物館考古資料相互賃借活用促進事業で実施の兵庫県立考古博物館

の特別展示の遠景写真を添付して筆を置きます。

 

 

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兵庫県立考古博物館の企画展 ひょうごの遺跡2020 -調査研究速報- 見学記 on 2020-3-1

2020年06月21日 04時26分04秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年3月1日、兵庫県立考古博物館の展示 ひょうごの遺跡2020 -調査研究速報-

を見学してきましたので写真紹介します。

いつも企画展と特別展では撮影禁止ですが、今回の企画展でもOKとなり写真紹介

できます。2019年については下記のブログで紹介しています。

兵庫県立考古博物館の企画展『ひょうごの遺跡2019-調査研究速報-』on2019-3-17

 

概要紹介

上の写真は今回展示のリーフレットの表紙

開催要項はこちら

上の写真は今回展示された遺跡を年代別に纏めたものです 出典:リーフレット裏面

上の写真は今回紹介された遺跡の位置図

上の写真は展示室の遠景

上記の他に関ノ口遺跡(姫路市)と玉津田中遺跡(神戸市)の現地説明会資料

によるパネル展示がありました。

企画展の開幕に合わせて兵庫県立考古博物館のスタッフブログで紹介

 http://koukohaku.blogspot.com/2020/01/blog-post_79.html

2019年発掘調査速報遺跡

上の写真は2019年発掘調査速報遺跡

兵庫県立考古博物館のスタッフブログでも紹介されています。

  http://koukohaku.blogspot.com/2020/03/2020_15.html

(1)前田遺跡(姫路市)

上の2枚の写真は前田遺跡(姫路市)の展示と説明パネル

 

上の写真は今回展示のハイライトの一つコンパス文須恵器器台の説明パネル

須恵器器台は、これまで9個体分の破片が知られていましたが、前田遺跡では

新たに少なくとも3個体分が加わりました。特に今回展示する資料は、全体の

形がわかる唯一の資料です。

上の写真はコンパス文須恵器器台のアップ写真(3個体)

コンパス文須恵器器台については下記の資料に詳しく解説されています。

 ひょうごの遺跡 89号(2014-7-10)

 前田遺跡 現地説明会資料(令和元年(2019)10月20日)

上の写真は、コップ形土器、甑(底部)及び玉類の展示

上の写真は前田遺跡の実物大の出土状態を示した展示

上の写真は朝鮮半島における2重のコンパス文様と鉢形器台の分布パネル説明

上の2枚の写真は前田遺跡の出土品で一番大きいコンパス文須恵器器台と

コンパス文須恵器器台の描き方を説明したパネル(拡大写真)

上の2枚の写真は説明パネル(拡大版)

前田遺跡の現地説明会について兵庫県立考古博物館のスタッフブログで紹介

  http://koukohaku.blogspot.com/2019/11/blog-post.html

  

(2)才村遺跡(姫路市)

上の写真は才村遺跡(姫路市)、風字硯の展示と説明板

上の写真は風字硯の展示のアップ

才村遺跡の現地説明会について兵庫県立考古博物館のスタッフブログで紹介されています

  http://koukohaku.blogspot.com/2019/11/blog-post_57.html

(3)宇山遺跡(洲本市)

上の写真は宇山遺跡の展示

上の写真は展示のアップ写真

 

2018年度調査報告書刊行遺跡

上の写真は下記の8つの遺跡or古墳の調査報告書

(1)大遠道向遺跡(淡路市)

(2)津万遺跡群(西脇市)

展示品の中での注目は円面硯、役人のベルト飾りの石帯

 

(3)尼ケ宮古墳群(豊岡市)

尼ケ宮(あまがみや)古墳群の全景

 2~6号墳は古墳時代前葉から中期中葉(5世紀)に築造

 8~10号墳は中期末から後期初頭(5~6世紀)に築造

 11~17号墳は中期中葉から後期前葉(5~6世紀)に築造

上の写真は尼ケ宮古墳群から出土の遺物展示

上の2枚の写真は展示の拡大写真

 

(4)広瀬古墳群(養父市)

 

(5)稲塚3号窯跡(丹波市)

 

(6)豆腐町遺跡(姫路市)

 

上の写真は漆が付着した皿(土師器) 井戸から出土

漆付着の杯と壺(須恵器)

 

(7)宮前鉱山跡(多可町)

上の写真は宮前鉱山跡の展示の全景

上の写真は土人形

上の写真は煙管(きせる)

 

(8)神屋町遺跡(姫路市)

上の写真は展示の遠景

上の3枚の写真はレール関係の展示と説明パネル

上の2枚の写真は牛乳瓶などのガラス瓶と土瓶の展示

土瓶でお茶を飲んだ記憶があります。

 

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神戸市民向けのSTAY  at KOBE神戸に泊まって応援キャンペーンが6月23日に締め切られます

2020年06月20日 05時49分27秒 | 神戸情報

神戸市民向けSTAY  at KOBE神戸に泊まって応援キャンペーンが6月23日に

締め切られます。まだ、申し込みされていない方はお急ぎください。

宿泊の他、食事(グルメ)でも利用できます

 

応募の基本要綱

申し込み期間:2020年6月9日(木)14:00〜23日(火)23:59   

申し込み:Web(公式サイト)またはFAX(078-362-7363)

販売予定枚数:1,800枚(申し込み状況等により変更になる場合あり)

販売価格:5,000円/1枚(1人につき最大4枚まで購入可能)

1枚の券面額:10,000円(有効期限:2021年3月31日)
     ※販売額のうち1,000円は神戸市医療従事者応援ファンドへ寄付

抽選日:2020年6月24日(予定)
     当選者には6月30日までに当選・入金案内の封筒を送付

     ネット応募の当選者にはメールでも当選・入金案内を送付

入金期間:7月17日まで(クレジットカードor銀行振込)

その他の詳細:公式サイトを確認

問い合わせ:市民向け宿泊キャンペーン事務局(神戸新聞事業社内)
     TEL 078-362-7450(平日9:00〜17:00)

 

私は6月16日に申し込みました。

神戸市観光・ホテル旅館協会と神戸新聞が協力して今回のキャンペーンが実施されます。

神戸市の観光が早期に回復活性化されることを願っています。

 

写真が無いと寂しいので神戸市の花「アジサイ」の写真を添付して筆を置きます

上の2枚の写真は東遊園地の紫陽花 撮影:2020-6-12

 

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神戸市立博物館に展示の国産1号パーマネント機と紺谷すみ on 2020-6-12

2020年06月20日 05時39分23秒 | 神戸情報

2020年6月12日、JRを2.5か月ぶりに利用し三宮に出かけていました。

その時に、神戸市立博物館の常設展示を見てきました。

その中から、本日は国産1号のパーマネント機を紹介します。

 

上の2枚の写真は神戸市立博物館に展示されている国産1号機のパーマネント機

説明書きをそのまま引用記載します。

国産第1号パーマネント機

西洋の技術を研究して国産化

昭和9年(1934)

初めて日本で製造されたパーマネント機で、神戸において開発

されました。特許も取得されています。

Domestic production of Western technology

The first permanent wave machine manufactured in Japan was developed in Kobe.

A patent was also secured for the design.

パーマネント国産機の開発は神戸市灘区桜口町の村瀬己之市氏や元町の坪内好一氏らが考案し

特許も取得しています。

これからはパーマネントに関する用語解説と神戸に初めて輸入されたパーマネント機

とその技法を初めて習得した紺谷すみのお話です。

パーマネントはパーマネントウエーブ (permanent wave)の略語で単にパーマと
呼ばれる場合もあります。毛髪に化学反応を用いて人工的な縮毛を形成する美容
技術、もしくはそれによって得られる髪型のことである。
ヘアーアイロンやヘアドライヤーで作る一時的なウェーブに対し、水に濡らしても
「半永久的 (permanent) に形の崩れないウェーブ」という意味で生まれた用語

近代のパーマネントは、1905年にドイツ人チャールズ・ネッスラーがロンドンで発表
したのが始まりのようだ。日本では、1915年(大正4年)から流行しはじめたが、
最初はコテでウェーブをつけたものだった。1923年(大正12年)、神戸の紺谷すみ
がアメリカから機械を輸入して、スパイラル式のパーマをはじめた。
昭和初期に断髪が流行したが、この断髪にウェーブをかけることがはやり、
パーマは全国に広まった。

コールドパーマは、1936年イギリス人ジョン・スピークマンによって発明されたが、
1946年(昭和21年)日本にも輸入された。


これから用いる画像は市民グラフ こうべ No.240 1992.10より使用します。

大正12年(1923)アメリカのエンプレス父子がパーマネント機械一式を持って
日本へ技術の伝播とパーマネント機械の売り込みに来た。当初、東京での売り込み
を予定していたが9月1日の関東大震災のニュースを得て、急遽横浜港から神戸港
に行先を変更した。日本で最初にパーメネント技術を習ったのは紺谷すみである。
紺谷すみは資料によっては紺谷寿美子と記載。紺谷すみの夫の紺谷安太郎は当時
海岸通りにあったオリエンタルホテルで理髪店を営業していたことから、以前より
紺谷寿美子はパーマネントという新しい技術の情報を持っていた。
パーマネントは一度かけると半年もつという評判から紺谷すみはエンプレスさんが
持ち込んだパーマ機を購入し、技術の手ほどきを受けた。

紺谷スミはパーマネントの技術を外国人にも満足してもらうため昭和2年(1927)
50歳近い年齢で本場のヨーロッパで勉強しようと思い立ち、貨物船に乗って
フランスに渡った。パリのエコール・テクニークで技術を学んだ。

帰国後は、三宮で紺谷美容倶楽部を開き、初めは外国人の客が多かったが、
ハイカラ文化を好む神戸の女性の間でも広がった。
その後、国産のパーマネント機の開発などによって、全国的に普及した。

ここからまた神戸市立博物館に展示の説明でファッションの変化に関して

次のように解説されています。

開港後、男性の洋服と靴の着用は政府官吏などから始まり、明治時代の中期には

一定の広がりを見せました。対して、女性の洋装化にはより長い時間が必要でした。

明治時代中期から、和服にも洋服にも合う髪型「束髪(そくはつ)」の推進が始まり

ましたが、洋服を着用していたのは西洋人や上流の婦人に限られていました。女性の

洋装が一般に普及したのは、大正時代になってからのことです。

 

最後に、神戸市立博物館のエントランスホールを2階から撮った写真を添付して

筆を置きます。

コートールド美術館展は中止となっています。

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神戸市須磨区 清雲山 護国寺への訪問記 on 2019-11-24

2020年06月19日 04時34分47秒 | 神戸情報

2019年11月24日、前から気になっていた神戸市須磨区上細沢町の清雲山 護国寺

を訪問しましたので写真紹介します。

 

清雲山 護国寺の基本情報

住所:神戸市須磨区上細沢町40−1 TEL:078-734-4778

宗派:日蓮宗 山号:清雲山 住職:川口久雄

 

本堂

上の2枚の写真は護国寺の本堂

 

宗祖 日蓮上人像

上の写真は日蓮宗の宗祖「日蓮上人」の像  正面全体

正面に「立正安国」の文字が刻まれています。

上の写真は裏面の刻字で日蓮上人生誕から700年遠忌を記念して願主 吉田清正

及び護国寺護持会会員一同により昭和55年(1980)8月吉日に建立

清雲山 二世の日謙代の文字も刻まれています。

立正安国論』は日蓮が執筆し、文応元年(1260)7月16日に時の最高権力者にして先の

執権である北条時頼に提出した文書。

 

境内の堂宇

名称が判らないのでこのような表現(境内の堂宇)となりました

鐘楼

上の2枚の写真は鐘楼と鐘

山門

上の写真は山門

墓地の遠景

上の写真は墓場の遠景

 

 

スーパー マルハチ鷹取店より観た護国寺の遠景

日蓮上人(比叡山延暦寺の説明パネル)

上の写真は比叡山延暦寺に掲示の日蓮聖人(1222-1282)の説明パネル

日蓮聖人は1245年(寛元3年)比叡山横川の定光院に住していました。

撮影:2017-10-11

 

比叡山延暦寺大講堂の日蓮像

上の写真は比叡山延暦寺大講堂内の日蓮像

出典:2020-6-10 NHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」

上の写真は比叡山延暦寺大講堂

出典:2020-6-10 NHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」

 

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出雲の阿国の所縁の阿国寺と阿国の墓

2020年06月18日 04時39分53秒 | バーチャル探訪

昔撮ってあったBS放送の「出雲大社」に関する録画を観ていたら表題の「阿国寺」

と「阿国の墓」が含まれていました。

そこでGoogleアースを使用して現地をバーチャルで訪問しました写真紹介します。

写真で特記していないものは上述のBS放送の録画によるものです。

阿国寺 別名「連歌庵」

 所在地は出雲市大社町杵築東 島根県神社庁の横手にあります

 

上の写真は阿国寺

出雲阿国は歌舞伎の始祖として知られています。出雲大社で巫女をしていました。
晩年、尼僧「智月」となり、読経と連歌に興じて静かに余生を過ごしたと伝わります。
そのため、この草庵は阿国寺「連歌庵」と呼ばれるようになりました。

連歌庵はもともと中村町にありましたが、中村の大火で焼失して、二代目は明治4年、
廃仏毀釈によって取り壊され、昭和11年、「劇祖阿国会」によって再建されました。

上の2枚の写真は阿国寺の境内入り口の阿国のレリーフなど

 

上の写真はGoogleアースで訪問した阿国寺(連歌庵)

上の写真の左端が阿国寺。右端が島根県神社庁(Google earth より)

 

阿国の墓

上の写真は出雲阿国の墓

上の写真は出雲の阿国の墓の入り口

上の写真はGoogle Earth で見た出雲阿国の墓の入り口

 

阿国寺と出雲阿国の墓の所在地

上の写真はGoogle地図に阿国寺と出雲阿国の墓の位置を示しました

 

出雲の阿国の略歴解説 By Wikipedia

Wikipediaより出雲の阿国の略歴を引用紹介します。

概要 

出雲 阿国(いずもの おくに、元亀3年(1572年) - 没年不明)は、安土桃山時代の
女性芸能者。ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており、
このかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎が出来上がったとされる。 
一般的には、彼女による「阿国歌舞伎」の誕生には名古屋山三郎が関係しているとされ、
「山三郎の亡霊の役を演じる男性とともに踊った」といった解説がなされることが多い。
 お国が演じていたものは茶屋遊びを描いたエロティックなものであり、
お国自身が遊女的な側面を持っていたという可能性も否定できない。 
なお、現在では「出雲の阿国」「出雲のお国」と表記されることが一般的であるが、
彼女の生存時の歴史資料にはこのような表記は発見されておらず、
これらの表記は、口伝を筆記したもの、あるいは、17世紀後半以降、
彼女が伝説化してから広まったものと考えられる。

没年については、慶長18年(1613)、正保元年(1644)、万治元年(1658)

など諸説ある。1658年だとすれば享年は86歳で当時としては長寿を全うした 


生涯

出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘であり、出雲大社の巫女となり、
文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている。 
慶長5年(1600年)に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録
(時慶卿記)があり、この「クニ」が3年後の慶長8年(1603年)に
「かぶき踊」を始めたと考えられている。 
『当代記』によれば京で人気を得て伏見城に参上して度々踊ることがあったという。 
当初は四条河原の仮設小屋で興業を行っていたが、やがて北野天満宮に定舞台を張るに至った。 
慶長8年(1603年)5月6日に女院御所で踊ったという記録があり、
文献によって踊ったものの名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっている。
この事と記述の内容から考えて、慶長8年5月からあまり遡らない時期に
かぶき踊(かぶき者)というあらたな名称が定着したと考えられている。
内容面でもかわいらしい少女の小歌踊と考えるややこ踊から、
傾き者(かぶきもの)が茶屋の女と戯れる場面を含むようなものに質的に変化したと考えられている。 
お国のかぶき踊りは、名古屋山三郎役の男装したお国と、
茶屋の娘役として女装したお国の夫・三十朗が濃密に戯れるものであった。
一座の他の踊り手も全て異性装を特徴としており、観客はその倒錯感に高揚し、
最後には風流踊や念仏踊りと同様に出演者と観客が入り乱れ熱狂的に踊って大団円となった。 
このように、お国がかぶき踊りを創始するに際して念仏踊りを取り入れたとする
記述が一般向けの解説書や高校生向けの資料集により一般的であるが(山川出版
『詳細日本史図説』、『日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇』)、この従来説に対して、
ややこ踊の一座やお国が念仏踊りを踊った可能性は低いと主張する者もいる。 
阿国は慶長12年(1607年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えた。
慶長17年4月(1612年5月)に御所でかぶきが演じられたことがあり、阿国の一座によるものとする説もある。 
没年は、慶長18年(1613年)、正保元年(1644年)、万治元年(1658年)など
諸説あり、はっきりしない(二代目阿国がいたのではないかという説もある)。
出雲に戻り尼になったという伝承もあり、出雲大社近くに阿国のものといわれる墓がある。
また、京都大徳寺の高桐院にも同様に阿国のものといわれる墓がある。
なお、旧暦4月15日(現在では新暦4月15日とも)が「阿国忌」といわれている。

 

上の写真は阿国歌舞伎の解説 出典:山川出版「詳説日本史図録」Page144

 

出雲阿国像

所在地の住所は出雲市大社町修理免

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姫路市水道資料館 「水の館」 訪問記 on 2020-2-23

2020年06月17日 04時22分38秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年2月23日、姫路市水道資料館「水の館」を訪問した時に撮った写真を

紹介します。

姫路市水道資料館「水の館」の基本情報

住所:姫路市豊富町豊富1849番地 姫路市水道局甲山浄水場内 TEL:079-264-0411

開館時間:10:00~16:30 休館日:月曜日、年末年始 入館料:無料

建設時期:平成8年(1996)

公式サイト:https://www.city.himeji.lg.jp/bousai/0000001926.html

    姫路市HPより 防災・くらし手続>水道・下水道>姫路市水道資料館「水の館」

 

姫路市の水道事業 基本項目平成30年(2018)3月末現在

 給水人口: 535,414人

 給水戸数: 234,961戸

 年間総配水量: 60,981,038㎥

 1日平均給水量: 167,071㎥

 1日最大給水量: 185,133㎥

  姫路市の水道は昭和2年(1927)に起工式を行い町裏浄水場及び男山配水池を

  築造し、給水人口15,412人、1日最大給水量3,951㎥の計画で昭和4年(1929)に

  給水が開始されました。

 

姫路市水道資料館「水の館」の建物外観

 

「水の館」展示例

たくさんの写真を撮ったのですが気になる展示をセレクトしました。

甲山浄水場の平面図

甲山浄水場は60,000㎥/日の浄水能力があり姫路市の浄水場の中で最大の能力を

有しています。

甲山浄水場の水道水が出来るまでを説明したものです。(上の写真)

 

姫路市の主な浄水場の位置と能力

 ①安志浄水場  2,200㎥/日      ⑤甲山浄水場 60,000㎥/日

 ②香寺浄水場  4,500㎥/日      ⑥保城浄水場 17,700㎥/日

 ③龍野浄水場  7,200㎥/日      ⑦町裏浄水場 18,000㎥/日

 ④山崎浄水場  16,400㎥/日       ⑧兼田浄水場 20,400㎥/日

   出典:姫路市水道局のリーフレット

 

姫路市の水道配水系統図

上の写真は姫路市の水道配水系統図です 出典:姫路市水道局のリーフレット

 排水管をすべてつなげると2,800Kmになるそうです。

 尚、配水池は71か所あるそうです。

 

男山配水池については過去に訪問したことがありブログを作成しています。

  男山配水池公園から見た姫路城 on 2019-10-8

 

神戸市の水道について過去に記事を書いていますのでリンクしました。

 神戸市水道 北野浄水構場の石碑と創設期の導水管 on 2018-3-6

 

 
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丸亀製麺 名谷東店でのランチ on 2020-6-15

2020年06月16日 04時28分24秒 | 神戸情報

2020年6月15日、丸亀製麺の名谷東店でいただいたランチを写真紹介します。

丸亀製麺には頻繁に利用していますが今迄ブログ記事にしたことが無いので、

今回、初めてブログ記事を作成します。

丸亀製麺 名谷東店の基本情報

住所:神戸市垂水区下畑町 字口唐戸334-1 TEL:078-751-0221

営業時間:11:00~22:00  定休日:なし(無休)

運営企業:トリドール

 

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

上の写真は当日、私が注文した釜揚げうどん 290円(税込)と小えびかき揚げ120円

いつもは、揚げ物として鶏を注文することが多い

新型コロナウイルス感染症の影響でお客様の数が減少しているようです。

少しでも客数を確保しようとアクリル板が新たに設置されていました。

一部は今までと同じように一つ置きの椅子にすわりソーシャルディスタンスを確保

 

上の写真は奥様のいつもの定番 かけうどん300円(税込)と「いか天」130円

 

 

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乃木将軍と神戸 -神戸に来た史上の人々ーより

2020年06月15日 05時37分42秒 | 神戸情報

現在、兵庫県立図書館より神戸市立南蛮美術館長 荒尾親成の著書「神戸に来た

史上の人々」昭和40年(1965)7月10日発行 著作権失効を借りています。

この本の中から乃木将軍(仁木希典)に関する記述を纏めてみました。

上の写真は上述の本の表紙です。

乃木将軍が神戸に来た記録では明治34年(1901)6月7日、8日の2日間神戸、有馬泊

明治41年(1908)6月3日、及び明治44年11月12日の3回がハッキリと文献にある。

 

この3回の神戸訪問について

明治34年(1901)6月7日、8日

明治34年6月7日付けの乃木将軍の神戸に関する手紙には「拝啓多度津御分袖後益々

御健勝大賀々々出立の節は種々御懇情多謝の至に御座候。小生義も海陸無事姫路に

立ち寄り同夜神戸に達し、自由亭ホテルに入り、久々にて神戸の夜景を弄し、翌朝

微行にて福知山衛戌を探検、外出の兵士と応接、至極面白く、去らんとしての

まぎわ山内憲兵司令官、宇佐川団長に見付けられ大失敗。同夜は、有馬温泉に浴泊

同地、月光のよき六甲山の北面より見たる味いは格別に存候」云々(後略)

乃木将軍の神戸での宿泊場所は生田区海岸通りの西村旅館(栄町3丁目)と上述の

自由亭ホテル(三越南貯金局の処)であった。

 

明治41年(1908)6月3日

明治41年6月2日付の乃木将軍の自筆日記には「6月2日夕、東京発、車中に松方

幸次郎氏、高田氏と大いに話す。6月3日朝、米原駅に大阪新聞記者数名来る。

神戸に下車滝川氏(滝川辨三)、大河平、その他と逢う。手帖、水筒を買い楠公社

を拝し」云々とあって須磨の滝川氏や松方コレクションで有名な川崎造船社長、

神戸新聞社社長の松方幸次郎氏と車中雑談、清談を交え乍ら神戸に来て居る。

乃木将軍は旅順に出来た露国戦死者の建碑除幕式に参列のため神戸に下車し海路

旅順に向かわれたのであった。

 

明治44年(1911)11月12日

第4、第16両師団の摂津、河内平野の大演習には伊丹の服部氏宅(服部一三)

を宿舎とされ、次のような歌も残されています。

朝まだき武庫の河原は霧こめて 駒のひづめの音のみぞする

 

本のPage98-Page101

上の2枚の写真はPage98、乃木将軍より妻の乃木静子(1859-1912)宛の手紙

著者(荒尾親成)蔵

上の3枚の写真はPage99-Page101の本文

 

乃木将軍筆 「楠公父子訣別之所」

上の写真はPage256

上の4枚の写真はPage257-Page260の本文

 

関連ブログ:

楠公父子桜井の別れ図絵馬(復元模写)in 湊川神社 on 2019-3-3

 

乃木将軍については誰もが知る人物なので詳述はしないがWikipediaより年譜を添付

嘉永2年11月11日(1849年12月25日)- 誕生
安政5年(1858年)- 長府に帰郷。
慶応元年(1865年)- 長府藩報国隊に入り奇兵隊と合流して幕府軍と戦う。
明治4年(1871年) - 陸軍少佐に任官。名を希典と改める。
明治10年(1877年) - 歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加。

                                     この際、軍旗を西郷軍に奪われた。
明治19年(1886年) - 川上操六らとともにドイツに留学。
明治25年(1892年) - 歩兵第5旅団長を辞任して2月に休職となる。

                                       12月に復職し歩兵第1旅団長に就任。
明治27年(1894年) - 歩兵第1旅団長(陸軍少将)として日清戦争に出征。

                                        旅順要塞を一日で陥落させた包囲に加わった。
明治28年(1895年) - 第2師団長(陸軍中将)に親補され、台湾出兵に参加。
明治29年(1896年) - 台湾総督に親補される。母の壽子も台湾に来るが、

                                        すぐマラリアに罹患し、病没。
明治31年(1898年) - 台湾総督を辞職。
明治32年(1899年) - 第11師団の初代師団長に親補される。
明治37年(1904年) - 休職中の身であったが日露戦争の開戦にともない、
   第3軍司令官(大将)に親補されて旅順攻囲戦を指揮し、また奉天会戦に参加する。
    長男の乃木勝典が金州南山で、次男の乃木保典が203高地で夫々戦死。
明治39年(1906年) - 1月、終戦・内地への凱旋にともない第3軍司令官を退任し、
      軍事参議官に親補される。以後、死去まで、乃木の本官は軍事参議官。
明治40年(1907年) - 学習院長を兼ね、皇族および華族子弟の教育に従事。
明治44年(1911年) - 7月1日に大英帝国のハイドパークで英国少年軍(ボーイスカウト)を閲兵。
ベーデン・パウエルと会見。
大正元年(1912年) - 明治天皇大葬の9月13日夜、妻・静子とともに自刃。

                                    享年62歳。墓所は港区青山霊園。
大正5年(1916年) - 裕仁親王(後の昭和天皇)の立太子礼に際して、正二位を追贈される。

 

神戸に於いて村野山人や濱田篤三郎は熱烈な乃木将軍の崇拝者であり、明治天皇の

桃山御陵の近くにある乃木神社の境内には村野山人が寄付をした記念館(旅順の

戦いの時に約1年間、寝起きした中国人の住居を移築)が残っています。

また、山口県下関市の長府の実家の復原についても上記のお二人が尽力された

ようです。

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