CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

神戸市内の懸魚 その2 神戸市中央区の安養寺の懸魚

2019年09月17日 05時31分52秒 | 神戸情報

神戸市内の懸魚(げぎょ)シリーズの第2回で本日は神戸市中央区安養寺の懸魚を

写真紹介します。

過去の神戸の懸魚シリーズ

第1回 海神社の懸魚

 

本題に入る前に安養寺について簡単に触れておきます。

安養寺の基本情報
住所:神戸市中央区 楠木町7丁目1-10  TEL:078-341-5894
宗派:浄土宗 山院号:大悲山成覚院

公式HP:http://www7b.biglobe.ne.jp/~anyozi/

安養寺のHPよりその歴史について抜粋引用(一部加筆)させていただきます。

「安養寺は、西暦950年(天暦年)に、恵心僧都の妹(母の説もある)
にあたる安養尼が建立したと伝えられている。
その後、尼崎の如来院の末寺として700年以上経過した。

江戸時代に入り尼崎藩第2代藩主青山幸利が亡くなるとその遺言により尼崎大物

ら安養寺は現在の場所(楠寺に隣接)に移された。
青山幸利候は、楠木正成公を祭る現在の湊川神社が、当時石が置いてあるだけの
ような墓であったのをうれい、梅と松を植え五輪の塔を建てて供養し、没後は
この場所に葬るように語っていた。貞享元年(1684年)8月2日に死去。享年69

「元禄五年(1692)坂本村庄屋の届書  
   摂州八部坂本村  浄土宗尼崎如来院末寺 大悲山成覚院安養寺 
           富住持 還譽
           元禄五申年一二月一八日 阪本村庄屋  庄 右ヱ門」

という記述が寺の記録に残っていることからこの年代に移されたことがわかる。

1892年(明治25年)には、如来院の末寺を脱して、知恩院直末のお寺となる。」

尼崎藩主の青山幸利の墓があるこでも有名です。

青山公の墓については下記のブログで記載しています。

 尼崎藩第2代藩主青山幸利が眠る安養寺


前置きが長くなりました。本題に戻り安養寺の懸魚に話題を移します。

添付の写真の撮影日はすべて2019年9月13日

上の写真は安養寺本堂北側の猪目(いのめ)懸魚の遠景と近景  撮影:2019-9-13

懸魚(げぎょ)は、建物妻の破風(はふ)板の下部につけて棟木や桁の木口を隠す彫刻や

透彫りの飾り板のことです。 棟木や桁の木口を風雨から守るためにつけた板が装飾化した

ものと言われています。神社仏閣の屋根には必らず下がっています。

懸魚はその名前が示すように水を連想させるもので火に弱い木造の建物を火災から守るため、

火除けのまじないとして取り付けてあります。

破風の拝み(=合掌の合わせ目)の部分にあるものを懸魚(おもげぎょ)、左右の下部の

桁を隠すための懸魚を懸魚(くだりげぎょ)または桁隠し懸魚という。

本懸魚は別名で拝(おがみ)懸魚と呼ぶ場合もあります。

その他に,唐破風(からはふ)につけられる懸魚を兎の毛通(うのけとおし)と呼んでいます。

懸魚は形態の違いで次のようなものがあります。

下記サイトによる分類を転記。http://www.gegyo.sakura.ne.jp/index.html

 ・蕪(かぶら)懸魚

 ・猪目(いのめ)懸魚

 ・三ツ花(みつばな)懸魚

 ・梅鉢(うめばち)懸魚

 ・二重(にじゅう)懸魚

 ・彫(ほり)懸魚

 ・貝頭(かいかしら)懸魚

 ・雁股(かりまた)懸魚

 ・盾(たて)懸魚

 ・切(きり)懸魚

 ・結綿(ゆいわた)懸魚


上の写真は南側よりみた安養寺の遠景です。

上の2枚の写真は安養寺本堂南側のハート形が特徴の猪の目懸魚の近景と拡大図

六葉(ろくよう)は懸魚の上部中心についている飾りです。

6枚の葉の形をした図柄から六葉と呼ばれています。
 
六角形のものが多いが、他に四角形、五角形、八角形のものや菊などの花弁をあしらった

図柄もあるが形にとらわれずに、すべてを総称して六葉と呼びます。

六葉の中心から出ている丸い棒を「樽の口(たるのくち)」、その根元にある菊の形を

菊座(きくざ)」と呼びます。


最後に安養寺境内に掲示の現地説明(安養寺の沿革と青山家との関係について記載)を

添付して筆を置きます。


 

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和食 さと 須磨店でのランチ on  2019-9-13

2019年09月16日 06時35分22秒 | 神戸情報

和食 さと須磨店は普段よりよく行く店の一つです。
2019年9月13日に頂いたランチを写真紹介します。

今回は普段あまり注文しないメニューを選択したのでブログ記事を書きます。

和食 さと 須磨店の基本情報
住所:神戸市須磨区多井畑字池ノ奥上12-8  TEL:078-743-3221
営業時間:11:00~24:30  定休日:なし(年中無休)

公式サイト:http://sato-res.com/sato/

 

上の写真は当日、私が選んだ牛カレーうどん 861円(税込)

今回、はじめてこのメニューを注文しました。まずまずで満足しました。

カレーうどんでは塩屋の竹屋が有名です。訪問記にリンクしておきます。

 https://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/a1732f899e5902af3c4e7220765942c6

上の写真は奥様が選択した海老天ブッカケうどん  チリメン飯 753円(税込)

辛口の奥様も当日の選択は満足したようでした。

奥様も私もぶっかけうどんが好きでよく食べます。

神戸市内で名店と思っている店は「こと平」、「凡蔵」と「よつ葉」です。

過去のブログにリンクしておきます。(一部は省略カット)

凡蔵
凡蔵でのランチ on 2019-4-21


凡蔵でのランチ on 2016-4-26

よつ葉
うどん よつ葉 でのランチ on 2018-2-2

うどん よつ葉 でのランチ on  2017-9-9

こと平
釜出しうどん こと平 板宿店でのランチ on 2014-9-18

釜出しうどん こと平 板宿店でのランチ on 2019-5-20

 

 

上の写真は今回選択したメニューが掲載されたもの。

 

過去の訪問記:
 和食 さと 須磨店でのランチ on  2019-8-12
  
 和食 さと 須磨店でのランチ on 2018-10-29
 
 和食 さと 須磨店でのランチ on 2018-5-13

 和食 さと 須磨店でのランチ on 2017-10-3

 和食 さと 須磨店でのランチ on 2017-6-20
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市制 100 周年記念 明石市史シンポジウム 「歴史から探る明石の魅力」 on 2019-9-7を聴講して

2019年09月15日 04時17分10秒 | 神戸市以外の兵庫県

2019年9月7日(土)、表題のシンポジウムがパピオス「あかし市民広場」であり聴講

してきましたのでその概要を写真紹介します。 シンポジウムの内容は下記の通り。

当日、下の写真のリーフレットが配布され入手しました。

あいさつ

泉 房穂市長

基調講演①   13時10分~13時30分

【演題】 「明石の始まり」

【講師】 春成 秀爾 氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)

基調講演②   13時30分~13時50分

【演題】 「明石100年のあゆみ」

【講師】 奥村 弘 氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)

パネルディスカッション   14時~15時30分

パネラー

古市 晃 氏(神戸大学大学院人文学研究科准教授)

市澤 哲 氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)

河島 真 氏(神戸女学院大学文学部教授)

春成 秀爾 氏

奥村 弘 氏

コーディネーター

大国 正美 氏(神戸深江生活文化資料館館長)

上記の要項及びシンポジウムのリーフレットは下記のPDFで参照できます。

  http://www.city.akashi.lg.jp/seisaku/kouhou_ka/shise/koho/hodo/documents/20190814rekisikarasaguruakasinomiryoku.pdf

 

講演及びパネラーの方々は明石市史編纂委員会のメンバーです。

メンバーの詳細は下記のとおりです。出典:当日配布のリーフレット

明石市史は過去に市政40周年の時に編纂されたとのこと。

それでは早速シンポジウムの中身に入っていきたいと思います。

 明石市長の挨拶

上の写真は暴言を吐いたものの選挙で市長に選出された泉房穂市長の挨拶 内容は略

基調講演①

上の写真は基調講演1 「明石の始まり」について講演された春成 秀爾 氏

春成秀爾氏は1)明石原人のいま 2)明石の地名の起こり について講演されました。

1)明石原人のいま

 明石原人の腰骨は昭和6年(1931)4月18日病気療養で明石に滞在していた
故直良信夫(なおらのぶお)博士(元早稲田大学教授)が屏風ヶ浦海岸で発見したが、
東京大空襲で喪失してしまいました。ただ石膏で作った複製品のみが残った。
当時の考古学の世界で日本には旧石器時代(5万年~12万年前)はなかったという説が
常識であったが「骨に青い土が付着していることから「西八木層」=中期更新世と判断した」

この発見によりくつがえされた大きな発見でした。
昭和23年(1948)長谷部言人(はせべことんど)博士(元東京大学教授)はニッポン
ナントロプス=アカシエンスの名を与え明石原人と呼ばれるようになった

   
   
昭和57年(1982)になって石膏の複製品と世界各地から発掘された寛骨(かんこつ)化石
畿内現在人と比較し、統計学的に検討 現代人的~超現代人的とする。
研究担当者は遠藤萬里(東大)・馬場悠男(独協医科大)。遠藤・馬場による明石腰骨の

形態解析は完璧に近く、明石人は現代人とする考えが支配的となる。(原人や旧人説は否定)

昭和60年(1985)3月1日~21日まで国立民俗博物館春成秀爾(はるなりひでじ)助教授を中心

とする調査団は、これまで西八木海岸とよばれてきた明石市大久保町八木字宮西509番地の発掘
を行った。その結果は、「国立民俗学博物館研究報告」第13集 「明石市西八木海岸の発掘調査」
(昭和62年=1985)にくわしく述べられている。人骨化石は発見できなかったが5~6万年前の

人工品と推定されるハリグワの木片や碧玉の石器を確認。明石原人との関係は判らないがこの地に

非常に古い時代に人類が存在していたことは間違いないと思うと述べられました。

 明石原人の研究経過については下記のサイトが詳しい

   http://www2u.biglobe.ne.jp/~HASSHI/akashigenzin.htm

 現地への訪問記は小生も下記ブログを書いています。

   https://seiyo39.exblog.jp/11903225/

上の写真は基調講演をされる春成秀爾氏とスクリーンの明石原人の寛骨

2)「明石」の地名のおこり

   (パネルディスカッションの内容及び私見も含めて書いています)

 明石の地名の由来としても有名な赤石(あかいし)があります。715年に編纂の

播磨風土記に「赤石郡」の表記があります。

赤石という名の由来については数種の伝説がありそれによるが1987年と2008年に

明石市の沖合で「赤石」赤銅色の岩肌を持つ石(黒御影石)が確認され話題となりました。

畿内摂津の西端の須磨・鉢伏山の海岸は「赤石の櫛淵(あかしのくしぶち)」と呼ばれ

赤石という地名がここにも残っています。

明石の地名には、赤石伝説のほかいろいろな説があります。

上の写真は平城宮遺跡から出土した木簡です。出典:奈良文化財研究所DB

左手の木簡には「志摩国志摩郡道後里戸主証直猪手戸口身麻呂御調海松六斤」と書かれて

おり、証(あかし)の字が出てくる。荷札であり朝廷への調として特産物を献上した。

証直猪手証直身麻呂は人名と解釈できます。

右手の木簡には「明郡葛江里・丹人部由毛万呂俵平城宮内裏西南隅外郭より出土。

天平19年(747)の木簡であることが判っています。

明(あかし)の字が出ています。但し、字体は「朋」。これも荷札で丹人部由毛万呂は人名

葛江里は地名で現在の藤江にあたります。

もう一つ飛鳥京跡苑池遺構から出土した木簡には「・播磨国明伊川里五戸海直恵万呂

・俵一斛○行司舂米玉丑」と書かれています。これも荷札で明(あかし)の伊川の

海直恵万呂が献上した品々(俵一斛米玉丑)も書かれています。

さらに吉田南遺跡から出土の墨書土器に明(あかし)と書かれています。字体は「朋」。

奈良時代のはじめの和銅6年(713)元明天皇期に地名はおめでたい字、縁起の良い字

記すようになってから「明石」と呼ばれるようになったのではと推定されます。

ただ上述のように713年以降も明の1文字で「あかし」を表す形態が続いたと思われます

基調講演②

上の写真は基調講演をされる奥村弘氏とスクリーンの資料

上の写真は近代の日本の地方自治制の大きな動きを示したものです。

この中で大きな変化として下記の3つの動きがあった。

(1)1871年7月の廃藩置県

(2)1888年4月の市町村制&1890年の府県制郡制

(3)1947年の地方自治法

明石町は大正のはじめ(1910年代)には人口3万人を超え大正8年(1819)11月1日に市制を

施行し明石市となりました。(初代市長は三輪信一郎)

上の写真は天保13年(1842)明石藩領の地図

その他下に添付の資料を例示され説明されました。(下の3つの写真)

大庄屋は明石でも存在していた。

また配布された資料(明治期の明石市市域の町村)が示されています。下に添付

パネルディスカッション

上の写真はパネルディスカッションの様子です。

壇上のパネラーは向かって左手よりコーディネーター大国正美氏(近世担当)、春成秀爾氏(考古担当)

古市晃氏(古代担当)、市澤哲氏(中世担当)、奥村弘氏(近代担当)、河島真氏(現代担当)

以下に内容を記すが個人的に興味のある部分に絞っており実際の内容をかなり簡略化しています。

上の2枚の写真は明石市史編さん委員会の中世部会の市澤哲氏から例示された中世の街道

伊川谷ルートには大山寺、櫨谷ルートには如意寺、明石川ルートには近江寺と性海寺

 明石八山寺のリストは以下のとおりです。
 天台宗(太山寺、如意寺、多聞寺、日輪寺)
 真言宗(転法輪寺、明王寺、近江寺、性海寺)

また朱印高についても列挙しておきます。

1.太山寺 35石 三身山

2.如意寺 43石 比金山

3.多聞寺 27石 吉祥山

4.日輪寺 28石 普光山

5.転法輪寺 26石 龍華山

6.明王寺 13石 龍華山

7.近江寺 24石 近江山

8.性海寺 31石 高知山

太山寺についてもう少し詳しく述べる。永正6年(1509)太山寺は末寺とともに京都祇園社

の千部経供養に参加しています。その末寺とは兵庫の能福寺、伊川荘内の頭高山、明石市

太寺の高家寺、明石市材木町の長林寺、明石市大観町の善楽寺このように太山寺は多くの

末寺を持ち隆盛を誇っていました。

文安3年(1446)如意寺は魚住泊に近い魚住荘内に田地を所有。

明石川(支流の櫨谷川、伊川を含めて)の流域の大きな寺院が成立したのは寺院周辺の田地

だけでなく明石津、魚住泊などの港湾とつながり、その富を吸収することができたからでは

ないかという仮説を提示できます。

建長8年(1256)舞子の多聞寺が、明石津で勧進活動を行う許可を朝廷に認められた事例も

明石津の生み出す富が後背地の寺院にとって重要であったことを示しています。

上の写真は中世(明石城築城前)の明石の姿を推定するために作成された地形図です。

自然部会の研究によると、明石港の周辺では浸食が進んだ西部の海岸と異なり、明石川と海が

運ぶ土砂が河口部に堆積し、東西方向に伸びる3つの大きな砂州(砂堆)が形成されました。

砂堆間には後背湿地、後背湿地に海の水が入り入江となり外海から停泊する船を守る役目を

果たしていたと考えられます。西北から東南へ流れていた河川 城下町の東端、両馬川の流路

などが記載されています。

今後、当時の寺社や発掘調査で明らかになった遺跡などを重ねて当時の土地利用がどうで

あったかを考察する作業を実施していく予定。

大明石町2丁目の遺跡調査(上記の地図の自然堤防の部分)では古墳~中世の集落跡と思われる

各種の須恵器の陶器が確認されています。

上の写真は大久保町の平野屋治太夫家には酒造で使われた井戸跡が今も残っています。

近世部会では天明8年(1788)当時の65軒の酒造家の所在地を時代ごとに整理した。

上の写真は酒造量に関する古文書です。

お酒は米の値段をコントロールする重要な工業で、米の値段が下がるとお酒をたくさん

生産し米の値段を維持する。逆に米が不作の時は米の値段が暴騰しないようにお酒の

生産量を抑える処置がとられていることを示す文書である。

明石の地図には、明石藩領でなかった地域、具体的には二見地区がある。

二見地区は加古郡に属していた。最後は武蔵国忍(おし)藩領となった。

河島氏より昭和50年(1975)に2期目の当時の衣笠市長「コミュニティ元年」の宣言

について話がありました。

 

上の写真は戦後の明石についての説明資料です。

 神戸市からの合併の話について上記の資料で説明されました。

上の写真は現在の明石市市域と周辺の地図です。この地図の阿閇村(現在の播磨町

を明石市に合併するための動きがあったことも説明されました。

当時、人丸花壇などで接待攻勢があり合併交渉が進められた。(加古川市も合併交渉)

 

 

上の4枚の写真は阿閇村との合併交渉(昭和31年(1956)頃)に関する説明資料

明石市の歌としては、市政施行10周年を記念して昭和4年(1929)に制定の「明石市歌」

が有名ですが、市政40周年(1959)と50周年(1969)を記念して2つの「明石市民の歌」

が制作されました。

上の2枚の写真は市制40周年を記念してつくられた「明石市民の歌」の歌詞と楽譜

上の写真は市制50周年を記念して制作された「明石市民の歌」の歌詞

この歌詞は公募によるもので池野美千留氏の作品。作曲は40周年と同じ石田純一氏。

近世部会の大国正美氏より明石海域の海運についてプレゼンがあった。

(内容は略、詳細は当日配布のリーフレットのPage16に記載)

大坂まで明石の産物を運搬した帰り便で大坂から「し尿」を運搬し肥料として利用。

上の写真は地域部会の大村敬通氏のプレゼン(内容は略)

最後に明石市史編纂委員会の副委員長の春成秀爾氏と委員長の奥村弘氏からまとめの

プレゼンがあり終了しました。

 

 

 

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牛角 須磨パティオ店でのランチ on 2019-9-11

2019年09月14日 04時32分35秒 | 有用な情報

2019年9月11日、牛角 須磨パティオ店でランチを頂きましたので写真紹介します。


牛角 須磨パティオ店の基本情報

住所:神戸市須磨区中落合2-2-3 須磨パティオ3番館1階 TEL:078-797-5829
営業時間:ランチ(平日のみ) 11:00〜15:00(LO 14:30)
     夜(日曜も営業)  17:00~23:00(LO 22:30)
定休日:須磨パティオに準ずる オープン日:2018年4月19日


公式サイト:http://www.gyukaku.ne.jp/

 

上の写真は牛角ランチ 1,280円(税別)

カルビ60g、ハラミ60g、ロース60g

上の写真はWカルビランチ 980円(税別)

牛バラトロカルビ80g、デジカルビ80g

上の写真は当日選択したものが掲載のメニュー

今回のメニュー選択は完全に失敗であった。値段にこだわった為、好みの肉を食べれなかった。

黒毛和牛カルビランチ 1,480円(税別)を選択すべきであった。

基本的に奥様が焼肉やキムチを好まないのでこのような店に入ることはめったにありません。

奥様はほとんど食べなかったのでほとんどの肉を私が食べた。

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壱岐の亀卜と卜骨 兵庫県立考古博物館×一支国博物館連携企画展の展示より

2019年09月13日 03時53分04秒 | Weblog

2019年9月1日(日)、兵庫県立考古博物館×一支国(いきこく)博物館連携企画展

「壱岐の古代文化-海をめぐる生業と交流-」を観覧した。

上記企画展「亀卜(きぼく)」「卜骨(ぼっこつ)」の展示に興味を覚えたので

ブログ記事を書くことにしました。

壱岐島及び対馬は新婚旅行で行った地であり他の展示にも興味深いものが多かった。

亀卜の展示

亀卜については2019年5月13日、皇居内の神殿にて斎田点定の儀において水田2か所を

決めるために占いが実施されたため広く国民の知るところとなりました。

亀の甲羅を下から火であぶり、出来たヒビの割れ具合から大嘗祭で奉納される米と粟を

つくる2か所の水田(斎田)が選定されます。

上の写真の上部、木枠の中に入れられたものが串山ミルメ浦遺跡から出土の亀卜(13点)

亀卜の歴史は古く5世紀のものと推定される亀卜の遺物が発掘されています。
平安時代には朝廷の大事に際して行われていました。
現在、皇室の他には長崎県対馬で地域の1年の吉兆を占うために行われているのみ。
対馬の亀卜は国の無形民俗文化財に指定されています。

亀卜の名称の他に灼甲や卜甲と呼ばれる場合もある。

亀卜はアカウミガメの甲羅及び腹甲が用いられる。

上の写真は串山ミルメ浦遺跡の展示の遠景


上の写真は2枚の壱岐島の古代の説明パネル

串山ミルメ浦遺跡から出土の亀卜の詳細

国立奈良文化財センターのデータベース「全国遺跡報告総覧」より亀卜に関する部分の

要約をしていきます。

 

上の2枚の写真は串山ミルメ浦遺跡から出土の亀卜の詳細

 串山ミルメ浦遺跡の発掘調査は2回実施されており1次調査報告書(1985)と2次調査報告書

(1989)で纏められています。

串山ミルメ浦遺跡は壱岐島の北端にある勝本浦の北側に位置しておりアカウミガメの

産卵に適した土地であり打ち上げられたウミガメまたは海人の潜水漁法によりウミガメ

を捕獲してウミガメを入手していたと考えられます。

この地はアワビが大量に採れる産地であり律令制が整備された8世紀には中央政権(朝廷)の

傘下にあり当時の税制である「租庸調」と調として干しアワビが朝廷に献上された記録もある。

串山ミルメ浦遺跡から出土した亀卜の年代は6世紀末から7世紀と鑑定

亀卜の出土例

亀卜の出土例としては上述の串山ミルメ浦遺跡を含めて6例あります。

串山ミルメ浦遺跡以外の5例について列記しておきます。

 

 1)対馬上県町志多町志多留貝塚

 2)神奈川県三浦市 間口洞穴

 3)神奈川県横須賀市 鉞(なた)切洞穴

 4)神奈川県浦郷町 日向(ひなた)遺跡

 5)横須賀市神明町 蓼原(たではら)遺跡


 志多留貝塚については時代不明だがその他は古墳時代後期6世紀から7世紀と比定

 


卜部

古代律令国家においては、国家の大事を占う方法の一つとして、亀卜が採用されていた。

神祇官の下に置かれた下級神官である卜部(うらべ)が従事した。

「延喜式」に朝廷に出仕した卜部についての記述がある。それによると「対馬から十人、

壱岐から五人、伊豆から五人の卜術優長者を取って卜部の事に任ず」と記述され対馬卜部、

壱岐卜部、伊豆卜部が三国卜部と呼ばれ、のち京都に住みついた同族を京卜部といって、

これらを合わせて四国卜部とも言われています。

壱岐の卜部の系譜をひくものは途絶えているが、対馬では現在でも対馬亀卜神事として

伝承されています。厳原町豆酸の卜部、岩佐家では、旧正月三日にサンゾーロー祭として

亀卜が行われています。その中身は岩佐家に伝え保存されている古亀甲を供僧が祝詞を

あげている間に炭火をかざすという形式だけになっているそうです。

 その内容については下記サイトにリンクさせていただきました。

  http://www.pref.nagasaki.jp/bunkadb/index.php/view/528

  http://www.city.tsushima.nagasaki.jp/live/kouhou/images/200703/200703_11.pdf

  https://this.kiji.is/466243612101346401

  https://yurapuka.net/tsushima/2012/02/16/島のお祭り%E3%80%80一年の吉凶を占うサンゾーロー祭り/

主に東国で亀卜や卜骨などの占いをする氏族に占部(うちべ)があります。

 

卜骨の展示

上の写真は卜骨(ぼっこつ)の展示でカラカミ遺跡から出土しました。

上の写真は交易とくらしの説明パネル

説明パネルによれば卜骨は中国大陸から伝わった占いの方法で「収穫時期の決定」や

「船出の時期の決定」などについてこのような占いで決めたとの記述がありました。

一般的に亀の甲羅の他にシカ、いのししの肩甲骨を用いた占いは「卜占(ぼくせん)」
とか「骨卜(こつぼく)」と呼ばれ古くは弥生時代の遺跡から確認されています。
邪馬台国の卑弥呼は「卜占」の長けていたでだろう?と思われます。

魏志倭人伝に倭人は「何か大きなことが起きて決断を迫られると、すぐに(シカの)骨
を焼いて吉凶を占う」とあります。シカの骨や亀の甲羅を焼いて吉凶を知ろうとする
卜占は中国で発生した。その骨占が北方のモンゴル族やツングース族の間に広まり、
さらに朝鮮半島を経て日本に伝来したか中国の呉の時代に江南の風習が海を渡って
伝わったの2説があります。
中国では「卜占」の結果は甲冑文字が用いられ記録されたが日本では文字が無く
何も記録が残っていない。
シカの骨の薄い部分が黒く焼け一列に並んでいる跡やひび割れた骨が弥生遺跡から
出土しているのみである。
奈良県の唐古・鍵遺跡では骨卜が盛んに行われていたようで、長さ18.5cm
幅18.2cmもあるシカの肩甲骨と一緒にタヌキの頭骨、アカニシなどが発見されている。
これらは占いの場で捧げられた供物の品々であったのかもしれない。


参照資料

 1) 串山ミルメ浦遺跡の発掘調査報告書 第2次 (1989)

   

 2)史料・神事にみる卜占の手法 - OPAC - 千葉大学 國分篤志

  https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/100266/BA31027730_290_p099_KOK.pdf



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ナナ・ファーム須磨 海鮮レストラン 魚魚でのランチ on 2019-9-9

2019年09月12日 04時23分27秒 | 神戸情報

2019年9月9日(月)、ナナ・ファーム須磨 海鮮レストラン 魚魚(うおうお)

ランチを頂きましたので写真紹介します。ナナ・ファームへは何年ぶりかの訪問です。

ナナ・ファーム須磨 海鮮レストラン 魚魚

住所:神戸市須磨区外浜町4-1-1 TEL:078-733-7740

営業時間:平日はランチ 11:00~15:00 夜は16:00~19:00

     土・日・祝は11:00~21:00

公式サイト(ナナファーム):http://www.nanafarm.com/

 

当日、私は「鱧のあじわい定食」1,200円(税別)

奥様は「穴子天丼セット」1,250円(税別)を注文

上の写真は私がセレクトした「鱧のあじわい定食」1,200円(税別)

ー鱧照り焼き丼、鱧しそ揚げ、そうめん、小鉢ー(当日は冷豆腐)
新鮮な淡路島産の鱧が照り焼きに刻み卵焼き、細切りの海苔とともに丼となって出てきました

上の写真は「鱧のあじわい定食」が掲載されているメニュー表


上の写真は奥様が注文した「穴子天丼セット」1,250円(税別)

上の写真は奥様が注文した「穴子天丼セット」のメニュー表


上の写真は数量限定のお得な定食メニュー

こちらを注文して見たいとも考えました。

上の写真は穴子にぎり寿司定食のメニュー表

上の写真はナナ・ファーム須磨のリーフレットで紹介された魚魚(うおうお)


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海神社の懸魚

2019年09月11日 05時41分30秒 | 神戸情報

主題とは異なりますが、まず海神社の概要説明を行います。
海神社は底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の三神を祀っており、社伝では
千八百年の歴史があり、神功皇后が三韓へ出兵帰途のとき、垂水沖で軍船が暴風雨に
見舞われたが、鎮静を祀ったところ、暴風雨がおさまり、無事に都へ帰れたというのが
鎮座の由来とい言われている。通常かいじんじゃという名前で呼ばれていますが
「綿津見(わたつみ)神社」という別名で呼ばれる場合もあります。
別称としては他に日向大明神、衣財田大明神、海(あま)神社、垂水(たるみ)神社。
神戸市垂水区を代表する神社である。

毎年10月10日より12日に行われる秋の例祭は垂水地区の布団太鼓の練りがあり
賑わいます。秋の例祭では船舶の安全を願い魚業発展を祈願する海上渡御と陸上での
神輿巡業もあります。

秋の例祭関連のブログ:2018年 海神社秋祭り

           2017年 海神社の秋祭り

           2016年 海神社秋祭りの情報

海神社の基本情報

住所:神戸市垂水区宮本町5-1  TEL:078-707-0188及び0189
御祭神:底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神
末社:蛭子神社、天神社、猿田彦社、稲荷社

主な年中行事:1月1日~15日頃   百燈明祈願神事

       1月9日~11日    初ゑびす

       1月10日       とんど祭

       2月3日        節分祭

       6月30日       夏越祭

 7月海の日(第3月曜)を含む土日月 夏祭

       8月13日~15日    海の幸みたま祭

       10月10日~12日    秋祭

       11月中        七五三神事

   毎月 1日:月首祭 11日:月例祭 20日:海上安全祈願祭 戌の日:安産祈願

公式サイト:http://kaijinjya.main.jp/

上の写真は海神社の境内図 出典:海神社のリーフレット

 

さて、前置きが長くなりましたが本題の海神社の懸魚の話題に入っていきます。

懸魚(げぎょ)は、建物妻の破風(はふ)板の下部につけて棟木や桁の木口を隠す彫刻や

透彫りの飾り板のことです。 棟木や桁の木口を風雨から守るためにつけた板が装飾化した

ものと言われています。神社仏閣の屋根には必らず下がっています。

懸魚はその名前が示すように水を連想させるもので火に弱い木造の建物を火災から守るため、

火除けのまじないとして取り付けてあります。

破風の拝み(=合掌の合わせ目)の部分にあるものを懸魚(おもげぎょ)、左右の下部の

桁を隠すための懸魚を懸魚(くだりげぎょ)または桁隠し懸魚という。

本懸魚は別名で拝(おがみ)懸魚と呼ぶ場合もあります。

その他に,唐破風(からはふ)につけられる懸魚を兎の毛通(うのけとおし)と呼んでいます。

懸魚は形態の違いで次のようなものがあります。

下記サイトによる分類を転記。http://www.gegyo.sakura.ne.jp/index.html

 ・蕪(かぶら)懸魚

 ・猪目(いのめ)懸魚

 ・三ツ花(みつばな)懸魚

 ・梅鉢(うめばち)懸魚

 ・二重(にじゅう)懸魚

 ・彫(ほり)懸魚

 ・貝頭(かいかしら)懸魚

 ・雁股(かりまた)懸魚

 ・盾(たて)懸魚

 ・切(きり)懸魚

 ・結綿(ゆいわた)懸魚

 

具体的に海神社の懸魚を観ていきましょう。 撮影日:2019-9-6

上の写真は拝殿の遠景で懸魚のある位置を示しました。

上の写真は懸魚の部分の拡大部で蕪(かぶ)懸魚と言えます。

蕪懸魚は野菜の蕪(かぶ)の形状と似ているところから付いた呼称です。

また左右には鰭(ひれ)が付属しています。

また上部には六葉の飾りがついています。

上の写真は手水舎の蕪懸魚です。六葉飾りについて説明するために添付しました。

六葉(ろくよう)は懸魚の中心についている飾りです。

6枚の葉の形をした図柄から六葉と呼ばれています。
 
六角形のものが多いが、他に四角形、五角形、八角形のものや菊などの花弁をあしらった

図柄もあるが形にとらわれずに、すべてを総称して六葉と呼びます。

六葉の中心から出ている丸い棒を「樽の口(たるのくち)」、その根元にある菊の形を

菊座(きくざ)」と呼びます。 

上の2枚の写真は社務所の近遠景で猪目(いのめ)懸魚の例として取り上げました。

ハート型の模様の部分が猪目です。かたちが猪(イノシシ)の目に似ていることから

この名がつきました。

十二支を陰陽五行説で分類すると、亥(いのしし)は水を司る生物とされ、懸魚はその名から

水を連想させ、互いに火除けの意味合いを持ち広く猪目懸魚が採用されています。

上の写真は湊川神社神門の猪目懸魚です。

 

上の2枚の写真は本殿の近遠景です。

本懸魚桁隠し懸魚(降懸魚)の例として添付しました。


上の写真は兎の毛通の一例を示しました。

出典:清水稔次著 現代実例社寺建築の細部意匠

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サイゼリア パピオスあかし店でのランチ on 2019-9-7

2019年09月10日 04時13分20秒 | 神戸市以外の兵庫県

2019年9月7日、市制 100 周年記念 明石市史シンポジウム 「歴史から探る明石の魅力

がパピオスあかしの「あかし市民広場」であった為、明石に出かけていました。

その日のランチは同じ「パピオスあかし」にあるサイゼリアで食べましたので写真紹介します。

サイゼリアには奥様があまり好まないので滅多に入店しません。投稿も初投稿です。


サイゼリア パピオスあかし店の基本情報

住所:明石市大明石町1-6-1 パピオスあかし1F TEL:078-915-0766

営業時間:10:00~22:00  定休日:なし

公式サイト:https://www.saizeriya.co.jp/


上の写真は当日いただいた ハヤシ&ターメリックライス499円(税込)

ドリンクバー190円(税込)、グラスビール299円(税込)

上の写真はハヤシ&ターメリックライスが掲載のメニュー表



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加古川市坂元遺跡の武人埴輪 in 兵庫県立考古博物館 on 2019-9-1

2019年09月09日 05時49分03秒 | 神戸市以外の兵庫県

兵庫県立考古博物館では10月5日(土)~12月1日(日)まで特別展「埴輪の世界

-埴輪から古墳を読み解く-が開催されます。この展覧会に関して、兵庫県の埴輪が

順次、同博物館メインホールで展示される予定になっています。

今回、その第1回として加古川市坂元遺跡の武人埴輪が展示されていましたので写真紹介します。

展示期間は9月1日~9月30日

上の写真は坂元遺跡の武人埴輪です。

上の写真は展示の説明パネル

説明書きが読みずらいので転記しておきます。

当館では10月5日(土)~12月1日(日)まで特別展「埴輪の世界-埴輪から古墳を読み解く-

を開催します。この展覧会に関連して、兵庫県出土の埴輪をご紹介します。

加古川市野口町に所在する坂元遺跡では埴輪を焼いた窯と焼かれた埴輪が使われた古墳が

見つかりました。このように埴輪の供給関係がわかるのは珍しく、埴輪窯についても

兵庫県での初めての例となりました。

この武人埴輪は、見つかった3基の古墳の中で最も古い古墳から出土したもので6世紀前半

(今から約1500年前)のものと考えられます。頭には帽子のような庇(ひさし)がつく冑(かぶと)をかぶっています。また、顔の周りには首をまもるための錣(しころ)がついています。

武人埴輪はかぶっているのは、正面に帽子のつばのような庇(ひさし)がつく眉庇付兜

(まびさしつきかぶと)と呼ばれる兜で、5世紀中頃から6世紀に流行しました。

その兜には、首をまもるために左右・後ろに錣(しころ)がついています。

この武人埴輪は残念ながら、頭部しか残っていません。しかし本来であれば体には甲(よろい)、

腰には大刀をつけた立派な武人埴輪だったと考えられます。

特別展では、人物埴輪以外にも様々な埴輪が展示されます。お楽しみに。

(学芸課 松岡 千寿)

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神戸うまいもん処 ご馳蔵  モザイク店でのランチ on 2019-9-2

2019年09月08日 05時46分10秒 | 神戸情報

2019年9月2日にいただいた神戸うまいもん処 ご馳蔵  モザイク店でのランチを

写真紹介します。初訪問です。

神戸うまいもん処 ご馳蔵  モザイク店の基本情報

住所:神戸市中央区東川崎町1-6-1 神戸モザイク2F TEL:078-360-5290

営業時間:昼は月~金 11:00~15:00 、土・日・祝 11:00~16:00

     夜は月~日・祝 17:00~23:00(L.O.22:30)

定休日:なし(無休)


システムとしてはメインディッシュを選択しお惣菜が食べ放題となっています。

ご飯、みそ汁、食後のコーヒーも同様に食べ放題になっています。

上の写真は私が選択したメインで若鶏もも肉から揚げランチ 1,150円(税別)

上の写真は奥様が選択した豆腐ハンバーグ 1,150円(税別)

上の4枚の写真はメインディッシュのメニュー表


上の写真は当日取った食べ放題のお惣菜

上の写真はお惣菜メニューの看板

上の写真はお店の外観

上の写真はご馳蔵の看板

上の写真はご馳蔵の場所を示した地図 41番の位置にあります。

感想

辛口の奥様も値段パーフォーマンスVS満足度でほぼ合格したようでした。

どれも美味しかったです。

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