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市制 100 周年記念 明石市史シンポジウム 「歴史から探る明石の魅力」 on 2019-9-7を聴講して

2019年09月15日 04時17分10秒 | 神戸市以外の兵庫県

2019年9月7日(土)、表題のシンポジウムがパピオス「あかし市民広場」であり聴講

してきましたのでその概要を写真紹介します。 シンポジウムの内容は下記の通り。

当日、下の写真のリーフレットが配布され入手しました。

あいさつ

泉 房穂市長

基調講演①   13時10分~13時30分

【演題】 「明石の始まり」

【講師】 春成 秀爾 氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)

基調講演②   13時30分~13時50分

【演題】 「明石100年のあゆみ」

【講師】 奥村 弘 氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)

パネルディスカッション   14時~15時30分

パネラー

古市 晃 氏(神戸大学大学院人文学研究科准教授)

市澤 哲 氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)

河島 真 氏(神戸女学院大学文学部教授)

春成 秀爾 氏

奥村 弘 氏

コーディネーター

大国 正美 氏(神戸深江生活文化資料館館長)

上記の要項及びシンポジウムのリーフレットは下記のPDFで参照できます。

  http://www.city.akashi.lg.jp/seisaku/kouhou_ka/shise/koho/hodo/documents/20190814rekisikarasaguruakasinomiryoku.pdf

 

講演及びパネラーの方々は明石市史編纂委員会のメンバーです。

メンバーの詳細は下記のとおりです。出典:当日配布のリーフレット

明石市史は過去に市政40周年の時に編纂されたとのこと。

それでは早速シンポジウムの中身に入っていきたいと思います。

 明石市長の挨拶

上の写真は暴言を吐いたものの選挙で市長に選出された泉房穂市長の挨拶 内容は略

基調講演①

上の写真は基調講演1 「明石の始まり」について講演された春成 秀爾 氏

春成秀爾氏は1)明石原人のいま 2)明石の地名の起こり について講演されました。

1)明石原人のいま

 明石原人の腰骨は昭和6年(1931)4月18日病気療養で明石に滞在していた
故直良信夫(なおらのぶお)博士(元早稲田大学教授)が屏風ヶ浦海岸で発見したが、
東京大空襲で喪失してしまいました。ただ石膏で作った複製品のみが残った。
当時の考古学の世界で日本には旧石器時代(5万年~12万年前)はなかったという説が
常識であったが「骨に青い土が付着していることから「西八木層」=中期更新世と判断した」

この発見によりくつがえされた大きな発見でした。
昭和23年(1948)長谷部言人(はせべことんど)博士(元東京大学教授)はニッポン
ナントロプス=アカシエンスの名を与え明石原人と呼ばれるようになった

   
   
昭和57年(1982)になって石膏の複製品と世界各地から発掘された寛骨(かんこつ)化石
畿内現在人と比較し、統計学的に検討 現代人的~超現代人的とする。
研究担当者は遠藤萬里(東大)・馬場悠男(独協医科大)。遠藤・馬場による明石腰骨の

形態解析は完璧に近く、明石人は現代人とする考えが支配的となる。(原人や旧人説は否定)

昭和60年(1985)3月1日~21日まで国立民俗博物館春成秀爾(はるなりひでじ)助教授を中心

とする調査団は、これまで西八木海岸とよばれてきた明石市大久保町八木字宮西509番地の発掘
を行った。その結果は、「国立民俗学博物館研究報告」第13集 「明石市西八木海岸の発掘調査」
(昭和62年=1985)にくわしく述べられている。人骨化石は発見できなかったが5~6万年前の

人工品と推定されるハリグワの木片や碧玉の石器を確認。明石原人との関係は判らないがこの地に

非常に古い時代に人類が存在していたことは間違いないと思うと述べられました。

 明石原人の研究経過については下記のサイトが詳しい

   http://www2u.biglobe.ne.jp/~HASSHI/akashigenzin.htm

 現地への訪問記は小生も下記ブログを書いています。

   https://seiyo39.exblog.jp/11903225/

上の写真は基調講演をされる春成秀爾氏とスクリーンの明石原人の寛骨

2)「明石」の地名のおこり

   (パネルディスカッションの内容及び私見も含めて書いています)

 明石の地名の由来としても有名な赤石(あかいし)があります。715年に編纂の

播磨風土記に「赤石郡」の表記があります。

赤石という名の由来については数種の伝説がありそれによるが1987年と2008年に

明石市の沖合で「赤石」赤銅色の岩肌を持つ石(黒御影石)が確認され話題となりました。

畿内摂津の西端の須磨・鉢伏山の海岸は「赤石の櫛淵(あかしのくしぶち)」と呼ばれ

赤石という地名がここにも残っています。

明石の地名には、赤石伝説のほかいろいろな説があります。

上の写真は平城宮遺跡から出土した木簡です。出典:奈良文化財研究所DB

左手の木簡には「志摩国志摩郡道後里戸主証直猪手戸口身麻呂御調海松六斤」と書かれて

おり、証(あかし)の字が出てくる。荷札であり朝廷への調として特産物を献上した。

証直猪手証直身麻呂は人名と解釈できます。

右手の木簡には「明郡葛江里・丹人部由毛万呂俵平城宮内裏西南隅外郭より出土。

天平19年(747)の木簡であることが判っています。

明(あかし)の字が出ています。但し、字体は「朋」。これも荷札で丹人部由毛万呂は人名

葛江里は地名で現在の藤江にあたります。

もう一つ飛鳥京跡苑池遺構から出土した木簡には「・播磨国明伊川里五戸海直恵万呂

・俵一斛○行司舂米玉丑」と書かれています。これも荷札で明(あかし)の伊川の

海直恵万呂が献上した品々(俵一斛米玉丑)も書かれています。

さらに吉田南遺跡から出土の墨書土器に明(あかし)と書かれています。字体は「朋」。

奈良時代のはじめの和銅6年(713)元明天皇期に地名はおめでたい字、縁起の良い字

記すようになってから「明石」と呼ばれるようになったのではと推定されます。

ただ上述のように713年以降も明の1文字で「あかし」を表す形態が続いたと思われます

基調講演②

上の写真は基調講演をされる奥村弘氏とスクリーンの資料

上の写真は近代の日本の地方自治制の大きな動きを示したものです。

この中で大きな変化として下記の3つの動きがあった。

(1)1871年7月の廃藩置県

(2)1888年4月の市町村制&1890年の府県制郡制

(3)1947年の地方自治法

明石町は大正のはじめ(1910年代)には人口3万人を超え大正8年(1819)11月1日に市制を

施行し明石市となりました。(初代市長は三輪信一郎)

上の写真は天保13年(1842)明石藩領の地図

その他下に添付の資料を例示され説明されました。(下の3つの写真)

大庄屋は明石でも存在していた。

また配布された資料(明治期の明石市市域の町村)が示されています。下に添付

パネルディスカッション

上の写真はパネルディスカッションの様子です。

壇上のパネラーは向かって左手よりコーディネーター大国正美氏(近世担当)、春成秀爾氏(考古担当)

古市晃氏(古代担当)、市澤哲氏(中世担当)、奥村弘氏(近代担当)、河島真氏(現代担当)

以下に内容を記すが個人的に興味のある部分に絞っており実際の内容をかなり簡略化しています。

上の2枚の写真は明石市史編さん委員会の中世部会の市澤哲氏から例示された中世の街道

伊川谷ルートには大山寺、櫨谷ルートには如意寺、明石川ルートには近江寺と性海寺

 明石八山寺のリストは以下のとおりです。
 天台宗(太山寺、如意寺、多聞寺、日輪寺)
 真言宗(転法輪寺、明王寺、近江寺、性海寺)

また朱印高についても列挙しておきます。

1.太山寺 35石 三身山

2.如意寺 43石 比金山

3.多聞寺 27石 吉祥山

4.日輪寺 28石 普光山

5.転法輪寺 26石 龍華山

6.明王寺 13石 龍華山

7.近江寺 24石 近江山

8.性海寺 31石 高知山

太山寺についてもう少し詳しく述べる。永正6年(1509)太山寺は末寺とともに京都祇園社

の千部経供養に参加しています。その末寺とは兵庫の能福寺、伊川荘内の頭高山、明石市

太寺の高家寺、明石市材木町の長林寺、明石市大観町の善楽寺このように太山寺は多くの

末寺を持ち隆盛を誇っていました。

文安3年(1446)如意寺は魚住泊に近い魚住荘内に田地を所有。

明石川(支流の櫨谷川、伊川を含めて)の流域の大きな寺院が成立したのは寺院周辺の田地

だけでなく明石津、魚住泊などの港湾とつながり、その富を吸収することができたからでは

ないかという仮説を提示できます。

建長8年(1256)舞子の多聞寺が、明石津で勧進活動を行う許可を朝廷に認められた事例も

明石津の生み出す富が後背地の寺院にとって重要であったことを示しています。

上の写真は中世(明石城築城前)の明石の姿を推定するために作成された地形図です。

自然部会の研究によると、明石港の周辺では浸食が進んだ西部の海岸と異なり、明石川と海が

運ぶ土砂が河口部に堆積し、東西方向に伸びる3つの大きな砂州(砂堆)が形成されました。

砂堆間には後背湿地、後背湿地に海の水が入り入江となり外海から停泊する船を守る役目を

果たしていたと考えられます。西北から東南へ流れていた河川 城下町の東端、両馬川の流路

などが記載されています。

今後、当時の寺社や発掘調査で明らかになった遺跡などを重ねて当時の土地利用がどうで

あったかを考察する作業を実施していく予定。

大明石町2丁目の遺跡調査(上記の地図の自然堤防の部分)では古墳~中世の集落跡と思われる

各種の須恵器の陶器が確認されています。

上の写真は大久保町の平野屋治太夫家には酒造で使われた井戸跡が今も残っています。

近世部会では天明8年(1788)当時の65軒の酒造家の所在地を時代ごとに整理した。

上の写真は酒造量に関する古文書です。

お酒は米の値段をコントロールする重要な工業で、米の値段が下がるとお酒をたくさん

生産し米の値段を維持する。逆に米が不作の時は米の値段が暴騰しないようにお酒の

生産量を抑える処置がとられていることを示す文書である。

明石の地図には、明石藩領でなかった地域、具体的には二見地区がある。

二見地区は加古郡に属していた。最後は武蔵国忍(おし)藩領となった。

河島氏より昭和50年(1975)に2期目の当時の衣笠市長「コミュニティ元年」の宣言

について話がありました。

 

上の写真は戦後の明石についての説明資料です。

 神戸市からの合併の話について上記の資料で説明されました。

上の写真は現在の明石市市域と周辺の地図です。この地図の阿閇村(現在の播磨町

を明石市に合併するための動きがあったことも説明されました。

当時、人丸花壇などで接待攻勢があり合併交渉が進められた。(加古川市も合併交渉)

 

 

上の4枚の写真は阿閇村との合併交渉(昭和31年(1956)頃)に関する説明資料

明石市の歌としては、市政施行10周年を記念して昭和4年(1929)に制定の「明石市歌」

が有名ですが、市政40周年(1959)と50周年(1969)を記念して2つの「明石市民の歌」

が制作されました。

上の2枚の写真は市制40周年を記念してつくられた「明石市民の歌」の歌詞と楽譜

上の写真は市制50周年を記念して制作された「明石市民の歌」の歌詞

この歌詞は公募によるもので池野美千留氏の作品。作曲は40周年と同じ石田純一氏。

近世部会の大国正美氏より明石海域の海運についてプレゼンがあった。

(内容は略、詳細は当日配布のリーフレットのPage16に記載)

大坂まで明石の産物を運搬した帰り便で大坂から「し尿」を運搬し肥料として利用。

上の写真は地域部会の大村敬通氏のプレゼン(内容は略)

最後に明石市史編纂委員会の副委員長の春成秀爾氏と委員長の奥村弘氏からまとめの

プレゼンがあり終了しました。

 

 

 


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