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尼崎藩第2代藩主青山幸利が眠る安養寺

2015年11月26日 05時06分36秒 | 神戸情報
2014年8月14日、尼崎藩第2代藩主青山幸利の墓がある安養寺に行き墓所と
顕彰碑を撮ってきましたので写真紹介します。

また、東京青山の梅窓院にある累代の青山家の墓(2014-3-14撮影)についても
写真紹介します。

まず安養寺の基本情報から

安養寺の基本情報
住所:神戸市中央区 楠木町7丁目1-10  TEL:078-341-5894
宗派:浄土宗 山院号:大悲山成覚院

公式HP:http://www7b.biglobe.ne.jp/~anyozi/

安養寺のHPよりその歴史について抜粋引用(一部加筆)させていただきます。

「安養寺は、西暦950年(天暦年)に、恵心僧都の妹(母の説もある)
にあたる安養尼が建立したと伝えられている。
その後、尼崎の如来院の末寺として700年以上経過した。

江戸時代に入り尼崎藩第2代藩主青山幸利が亡くなるとその遺言により尼崎大物
から安養寺は現在の場所(楠寺に隣接)に移された。
青山幸利候は、楠木正成公を祭る現在の湊川神社が、当時石が置いてあるだけの
ような墓であったのをうれい、梅と松を植え五輪の塔を建てて供養し、没後は
この場所に葬るように語っていた。貞享元年(1684年)8月2日に死去。享年69

「元禄五年(1692)坂本村庄屋の届書  
   摂州八部坂本村  浄土宗尼崎如来院末寺 大悲山成覚院安養寺 
           富住持 還譽
           元禄五申年一二月一八日 阪本村庄屋  庄 右ヱ門」

という記述が寺の記録に残っていることからこの年代に移されたことがわかる。


1892年(明治25年)には、如来院の末寺を脱して、知恩院直末のお寺となる。」



上の写真は尼崎藩第2代藩主青山幸利の墓碑(右手)。
戒名の成覚院殿前光禄廓誉一法道山大居士の一部「成覚院殿廓誉一法道山大居士」
と刻まれています。
左手の墓碑は尼崎藩第3代藩主青山幸利の孫にあたる青山幸督(よしまさ)
のもので「泰源院靈譽光鑑雲英大居士」と刻まれています。


上の写真は青山幸利、青山幸督の墓所を正面。
「青山幸利候景仰碑」という平沼騏一郎書と伝えられている、幸利候をたたえる碑
が左手に写っています。


上の写真は青山候の顕彰碑です。

青山幸利は人材登用、新田開発、治水事業などで功績があった。
耳学問に熱心であったとも言われています。

墓所が安養寺にあるのは水戸光圀が「忠臣楠氏之墓」の碑を元禄5年(1692)に
建てた時より30年も早く楠正成の墓の所在を明示し青山幸利が死後も楠正成の
墳墓を守るべく隣接する安養寺に墓所を設置したと言われています。
3代目青山幸督以降の尼崎藩藩主の桜井松平家も楠正成の墳墓の前に石燈を
代々奉納して楠正成を顕彰し続けたことが
湊川神社(明治5年創建)に現存して残る結果となった。







上の写真は「嗚呼忠臣楠子之墓」関連のものです。
1862年に墓に参った20歳の安中藩藩士の若き新島襄も楠正成の生きかたに共鳴し
自宅にその拓本が保管されていました。
吉田松陰、伊藤博文などの幕末の尊王派の志士達こぞって楠公の墓に参っていた
ことは有名な話で今も語り継がれています。

次に東京青山の梅窓院の青山家累代の墓について写真紹介します。
(撮影:2014-3-14)

上の写真は青山家累代の墓碑。


上の写真は青山家の初代青山大蔵少輔幸成法名梅窓院殿香誉浄薫大禅定門
寛永二十(1643)癸未年二月十六日寂から13代目の当主の戒名、没年などが
記載された墓碑。




上の写真は東京青山の梅窓院の境内の写真。

梅窓院の寺号は青山幸成公の法名 「梅窓院殿香譽浄薫大禅定門」 と、 側室の法名
「長青院殿天譽利白大姉」 から、 長青山 寶樹寺 梅窓院となったそうです。

初代の青山幸成公についてWikipediaより引用させていただきます。
青山 幸成(あおやま よしなり/ゆきなり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。遠江掛川藩主、摂津尼崎藩の初代藩主。郡上藩青山家初代。

天正14年(1586年)、徳川氏の譜代家臣・青山忠成の四男として浜松で生まれる。慶長4年(1599年)に元服して徳川秀忠の近侍として仕えた。慶長7年(1602年)、下総国印旛郡で500石を与えられた。慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも参加し、元和5年(1619年)には書院番頭・小姓・10人組頭・評定衆に任じられ、常陸国新治郡・筑波郡などで1万石を与えられ、以前からあった所領とあわせて1万3000石の大名となった。

寛永10年(1633年)2月3日、遠江掛川藩に2万6000石に倍増された上で移封される。寛永12年(1635年)7月28日には5万石に加増された上で摂津尼崎藩に移封された。幸成は藩政の基礎を確立するため、儒者を招聘して文学を奨励し、大庄屋制度を制定し、積極的な新田開発を行なって4000石を新開発した。寛永17年(1640年)には讃岐高松藩主・生駒高俊改易を伝える使者を務め、その後の寛永19年(1642年)4月の松平頼重の高松藩入封にも協力している。

しかし直後の8月から病に倒れた。寛永20年(1643年)1月には第3代将軍・徳川家光の見舞いを受けたが回復せず、次男の幸通、三男の幸正、四男の幸高にそれぞれ3000石、2000石、1000石を分与して青山3分家を創設した上で、2月16日に死去した。享年59。家督は長男の幸利が継ぎ、所領は弟に分与したため4万8000石となった。


青山氏掛川藩藩主 (1633年 - 1635年)


青山氏尼崎藩初代藩主 (1635年 - 1643年)


青山幸成公の長男として生まれた尼崎藩第2代藩主青山幸利は寛永20年(1643年)
から没年の貞享元年(1684年)8月2日の41年間、尼崎藩主として上述のよな善政
をしたことから地元住民から慕われ顕彰碑が各地に残っています。

その一部を過去にブログとしていますのでリンクしておきます。

 海泉寺にある尼崎藩2代藩主 青山幸利の報謝碑

  寶満寺(宝満寺)と青山幸利の慰霊碑 on 2011-12-26


「明治初期に取り壊された尼崎城について、尼崎市は11月25日、ミドリ電化
(現エディオン)創業者の安保(あぼ)詮(あきら)さん(82)と城の復元に
関する協定を結んだ。」

昨日(2015-11-26)、上記のニュースが各報道機関で報じられました。
安保氏が私財の10億円(最大15億円)を投じて尼崎城の天守閣を再建しよう
とするものです。安保氏は尼崎市への恩返しと言われています。

昨日の夕方の読売TVニュースTenより尼崎城跡の映像写真を添付します。
 (下の2枚の写真)







  
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