CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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遊女伝説の町 室津

2018年03月19日 06時58分21秒 | 神戸市以外の兵庫県
2017年11月5日、室津の散策をしていますが、その中で室津には遊女の伝説が
数多く残されています。

ほとんど無知の状態ですが、浄運寺の友君の伝説や遊女に関わる室津民族館の展示を中心に
写真紹介していきます。

室津は摂播五泊(韓泊(福泊)- 魚住泊 - 大輪田泊 - 河尻泊)の一つです。







上の3枚の写真は浄運寺の遊女・友君の墓です。
暦応2年(1339)に建立されたと伝えられているそうです。

室津には、遊郭があり、遊女の長は「室君」と呼ばれていました。
最初の室君と考えられている女性に友君がいます。
友君は本名を「ふき」といい、木曾義仲の愛妾である山吹御前だといわれています。
従兄弟に討たれた木曾義仲亡き後、友君は室津に流れ着き遊女となっった。
厳寒の逃避行の中で、身籠っていた子を死産し、生きる気力を無くしていた友君を
救ったのは、流れ着いた室津の人々の人情とのどかな自然であった。
遊女・友君は室津の地で琴を弾き、踊りを舞い、今様を謡って船旅の客を接待したが、
心付けを受け取ることは決してなかった。ただし、亡子と義仲の菩提を弔っていることを
知った客人より「花代」「線香代」として差し出されたお金については有難く受け取った。
そして建永2年(1207)、法然が潮待ちで当地に立ち寄った際、友君は小舟をこぎ出し、
自らの遊女としての将来に対する不安を打ち明ける。法然は「罪は決して軽いものではない。
早く他に生きる道を見つけなさい。もし良い案が浮かばないのならば、ひたすら念仏を
唱えなさい。阿弥陀如来は罪深い者こそ救って下さる」との教えを請う。その説法に
感激した彼女は法然より得度を受け、浄運寺へ出家した。のちに赦免となった法然が
京都への帰路室津に立ち寄り友君のことを尋ねると、彼女はその後、一筋に念仏を唱え
往生したとのことである。


江戸時代の作家井原西鶴の処女作「好色一代男」で
「遊女のはじまり、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま国々になりぬ」
紹介されています。



上の写真は浄運寺の本堂に掲示されていた「諸国遊所競」の番付表で
著名な場所に混じって、室津は西前頭の上位8番目に出ています。






上の3枚の写真は浄運寺(浄土宗、文治元年(1185)信寂上人により創建)の本堂
及び山門などの外観と浄運寺の由緒書き説明版

浄運寺で友君の御坐像も見せていただいたが残念ながら写真は撮れず。


上の写真は 播州室津明神神事棹歌之遊女行列図 (姫路美術館蔵)で作者は酒井抱一
(1761-1829)室津の遊女が行進している様子を描いています。
描かれた時期は文政4年(1821)頃と鑑定されています。
室津民俗館に展示されていたものです。


上の写真は松岡映丘(1881-1938)が大正5年(1917)に製作した「室君」
6双の屏風画です。
室津民俗館に展示されていたものです。

室君の画は下記の本に掲載されています。
(1)『日本屏風絵集成 17巻』講談社 1979
(2)『現代日本美術全集 3』角川書店 1955
(3)『20世紀日本の美術 アート・ギャラリー・ジャパン3』
  富山秀男,弦田平八郎/編 集英社 1987

松岡映丘の略歴
明治14年 7月9日兵庫県神崎郡田原村に生る。(松岡操五男)
明治32年 19歳 東京美術学校日本画科に入学、丹青会展「北の屋かげ」出品
明治37年 24歳 東京美術学校日本画科主席卒業
明治38年 25歳 神奈川県立高等女学校教諭兼神奈川県師範学校教諭となる
明治41年 28歳 東京美術学校助教授となる
大正元年 32歳 第6回文展「宇治の宮の姫君達」出品
        以降文展で「住吉詣」「夏立つ浦」「御堂関白」「室君」
        「道成寺」「山科の宿」を出展、特選
大正5年 36歳 吉川霊華、平福百穂等と金鈴社を組織 展覧会に出展
大正7年 38歳 東京美術学校教授に任ぜらる
大正8年 39歳 東京女子高等師範学校教授を兼任、第1回帝展審査員に推挙
昭和2年 47歳 明治天皇御神像奉納
昭和4年 49歳 第10回帝展「平治の重盛」院賞
昭和7年 52歳 第13回帝展「右大臣実朝」
昭和9年 54歳 第15回帝展「安土山上の信長」
昭和10年 55歳 9月国画院創立、東京美術学校教授を辞す
昭和11年 56歳 明治神宮聖徳記念絵画館壁画「神宮親謁」を完成、文展第1回展審査員
昭和12年 57歳 国画院第1回展「矢表」「後鳥羽院と神崎の遊女達」 帝国芸術院会員仰付らる
昭和13年 58歳 3月2日没





上の2枚の写真は賀茂神社の摂社の住吉神社とそこから見える瀬戸内海に浮かぶ唐荷島

唐荷(からに)島はたつの市に属す無人島。唐味(からみ)島ともいい、室津の沖合いに
並ぶ三つの島、地の唐荷島、中の唐荷島、沖の唐荷島の総称。
『播磨国風土記』に、韓人(からびと)の船が難破して、その荷がこの島に流れ着いたので
韓荷島と名づけたとある。『万葉集』では辛荷島と詠まれ、山部赤人の「玉藻(たまも)刈る
辛荷の島に島廻(しまみ)する鵜(う)にしもあれや家念(おも)はざらむ」の歌で知られる。

以上は日本大百科全書(ニッポニカ)より引用

姫路円教寺の開祖・性空上人は生身の菩薩を拝みたいと願っていたある日、
「室の遊女の長こそ実の普賢菩薩なり」と天からの信託を受け世俗姿で遊女屋に登楼した
ところ遊女の長は白拍子舞を舞った。そのうち遊女はたちまち普賢菩薩に変身したとの
説話も残っています。


上の写真は賀茂神社の絵馬堂にあるリストで室君の奉納があったことが記されています
「賀茂神社縁起」に賀茂明神が室津に君臨の際、遊女を召され、以降祭の際には
遊女が供養されるようになったとあります。
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