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赤穂城内の山鹿素行像と赤穂市立歴史博物館特別展「山鹿素行」 on 2016-12-14

2017年03月15日 05時08分41秒 | 神戸市以外の兵庫県
2016年12月14日、赤穂義士祭があり赤穂に来ていました。
その際に赤穂城内の山鹿素行像と赤穂市立歴史博物館特別展「山鹿素行」を
見てきましたので写真紹介します。

1.山鹿素行像 in 赤穂城






上の3枚の写真は赤穂城二の丸門跡に鎮座する山鹿素行像の近景、中景、遠景です。

ここで山鹿素行についてWikipediaより引用紹介します。

「山鹿 素行(やまが そこう、元和8年8月16日(1622年9月21日) -
貞享2年9月26日(1685年10月23日))は、江戸時代前期の日本の儒学者、軍学者。
山鹿流兵法及び古学派の祖である。

貞享2年(1622)9月26日会津若松市にて浪人・山鹿貞以の子として生まれる。
寛永5年(1628)に6歳で江戸に出る。
寛永7年(1630年)9歳のとき大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学ぶ
寛永13年(1636)15歳からは小幡景憲、北条氏長の下で軍学を、廣田坦斎らに神道を、
      それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ。

寛文5年(1665)43歳で官学の朱子学を批判し、「聖教要録」を著したことから
     播磨国赤穂藩へお預けの身(1,000石で優遇)となり、そこで赤穂藩士の
     教育を行う。赤穂藩国家老の大石良雄も門弟の一人であり、良雄が活躍した
     赤穂事件以後、山鹿流には「実戦的な軍学」という評判が立つことになる

延宝3年(1675)許されて江戸にもどる。その後の10年間は軍学を教えた。
       その教えは、後代の吉田松陰などに影響を与えている。

貞享2年(1685)63歳で没 山鹿素行の墓は東京都新宿区の宗参寺にある」



上の写真は山鹿素行を紹介した現地の説明板




上の2枚の写真は像の裏の銘板に書かれた内容を示したもの


上の写真は赤穂城内の地図で山鹿素行像の位置も示されています。


上の写真は赤穂駅前に建った素行銅像の案内板
銅像への行き方のほか、素行先生の説明や「赤穂山鹿素行研究会」 の名前も
載っています。


2.赤穂市立歴史博物館特別展「山鹿素行」

中の写真撮影が禁止されていたので赤穂市立歴史博物館入口外観を添付





上の2枚の写真は特別展の案内リーフレット

展示会では下記の内容であった。
 1.山鹿素行の著書・蔵書

 2.赤穂藩との関わり

 3.山鹿流兵学とその受容

 4.近代へ



上の写真は江戸時代初期の軍学者山鹿素行著の三木攻撃図「武家事紀」京都大学本で
平井山の本陣跡や付城の武将名と一部戦闘経緯が描かれている。

おまけに赤穂義士祭の動画も添付しておきます。

 

 

 






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