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CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」の散策記 on 2024-3-6 その6 (最終回) 弥兵衛塔・観月碑

2024年08月09日 05時09分41秒 | 神戸市以外の兵庫県
2024年3月6日、JR宝殿駅で下車し宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」を散策してきました。 

今回は第6回として「弥兵衛塔・観月碑」を紹介します。
田原家跡を目指して歩いている時、途中でみつけた場所です。
田原家跡の場所が見つからなかったので今回でシリーズ最終回とします。

過去の記事にリンクを張っておきます。





上の写真は弥兵衛塔。
弥兵衛塔は江戸時代の寛文3年(1663)、米田村の検地で便宜を図り、責任を感じて
切腹した姫路藩士の加藤弥兵衛を村人が顕彰した石碑。竜山石製。
高砂市ふるさと文化財に平成24(2012)年に登録されています。


上の写真は弥兵衛塔・観月碑の遠景
観月碑は石灯籠の右手にある石碑です。
観月碑は江戸時代文化年間頃(1804~1818)米田神宮寺の栗本玉屑(ぎょくせつ)らの俳人が
近くの川堤にあった観月亭で詠んだ句を刻んだ句碑。竜山石製。
上の写真は弥兵衛塔・観月碑の敷地に建つ祠


上の写真は現地説明板

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宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」の散策記 on 2024-3-6 その5 米田天神社の神宮寺(薬師寺)

2024年08月08日 04時18分38秒 | 神戸市以外の兵庫県
2024年3月6日、JR宝殿駅で下車し宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」を散策してきました。 

今回は第5回として「米田天神社の神宮寺(薬師寺)」を紹介します。

過去の記事にリンクを張っておきます。



上の写真は米田天神社の神宮寺(薬師寺)の本堂にあたる建物
建物の上部に宮本伊織が寄進した鰐口があります。
鰐口は 正保3年(1646)の銘が書かれています。

上の写真は境内の薬師如来の石像



境内の建物 大師堂?
境内の建物(住居?)



上の3枚の写真は境内で気にとまったものを撮りました


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宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」の散策記 on 2024-3-6 その4 米田天神社

2024年08月07日 04時42分19秒 | 神戸市以外の兵庫県
2024年3月6日、JR宝殿駅で下車し宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」を散策してきました。 

今回は第4回として「米田天神社」を紹介します。

過去の記事にリンクを張っておきます。



米田天神社の基本情報
住所:高砂市米田町米田503  TEL:079-422-4813
御祭神:天照大神、国懸大神、少彦名大神
創建:不明 改築再建:承応2年(1653)
例祭日:10月9日、10日

上の写真は米田天神社の拝殿と本殿
上の写真は現地説明板
説明板に書かれている内容を要約しておきます。
宮本武蔵・伊織の高砂生誕説を裏付ける棟札が残る泊神社(加古川市)の分社で、
承応2年(1653年)、宮本伊織が泊神社を再建時、その旧社殿を移築したゆかりの神社
棟札は伊織貞次(小倉、小笠原家筆頭家老 禄高4千石)が記しています。
宮本伊織とその弟小原玄昌によって甲田重信らの筆による三十六歌仙扁額三十六面が奉納
宮本伊織の一族、大山久太郎政次によって石灯籠が寄進されています。
かっては泊神社棟札同文の棟札、甲冑、田原家由緒書等も奉納されていたが現存しない。

上の写真は入口の遠景
上の写真は手水舎

上の写真は太平洋戦争の慰霊碑
上の写真は宮本伊織の一族、大山久太郎政次によって寄進された石灯籠か?

上の写真は天満宮の象徴である牛の石像

境内末社

上の写真は庚申宮
上の写真は住吉神社

上の写真は恵比須神社

上の写真は大歳神社

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宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」の散策記 on 2024-3-6 その3 「田原 宮本家父祖之地」の石碑

2024年08月06日 04時00分58秒 | 神戸市以外の兵庫県
2024年3月6日、JR宝殿駅で下車し宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」を散策してきました。 

過去2回、記事を書いてきました。間が空きましたがシリーズを再開し記事を書いていきます。
今回は第3回として「田原 宮本家父祖之地」の石碑を紹介します。

過去の記事にリンクを張っておきます。


「田原 宮本家父祖之地」の石碑は第2回で紹介した「宮本武蔵・伊織生誕の地」碑の北側にあります。


上の写真は「田原 宮本家父祖之地」の石碑の遠景 撮影:2024年3月6日


「田原 宮本家父祖之地」の石碑の近景 撮影:2024年3月6日
碑文は宮本家第13代当主、宮本信男氏により書かれています。

上の写真は現地説明板

宮本武蔵(1584-1645)は播磨の守護職、赤松円心の二男、貞範を祖とし、その孫の時代に
高砂米田へ移り住み、田原と改め土着。6代目当主甚右衛門家貞の次男として生まれた。
名を玄信といい、美作宮本村(美作市大原町)の新免(のち宮本)無二之助の養子に出た。

無二之助は元は平尾姓でした。田原の縁戚に当たり、そのころは美作・竹山城主の新免宗貫の
家臣でしたが、その活躍により城主から新免姓を名乗ることを許されました。
後に、その居住地である宮本村からとって、宮本姓を名乗るようになりました。

ひろかずのブログではさらに詳細に調査され記載されています。


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旧加古川町公会堂のYoutube動画 

2024年07月21日 16時57分03秒 | 神戸市以外の兵庫県
旧加古川町公会堂

Youtube動画「関西のモダン建築」で旧加古川町公会堂が紹介されていました。
偶然、見つけたので憶えのためGooで共有させていただきました。

建築時期:昭和10年(1935)
設計者:置塩章(おしお あきら)・・・兵庫県営繕課長

1974年に加古川図書館として利用されてきました。

その他、同じく旧加古川町公会堂(旧加古川図書館)を紹介したYoutube動画に
Gooで共有させていただきました。
旧加古川市立加古川図書館(旧加古川町公会堂)  

みんなに愛された【加古川図書館】|~加古川町公会堂から市立図書館へ~|【85年の歴史】に幕。

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宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」の散策記 on 2024-3-6 その2 「宮本武蔵・伊織生誕の地」碑

2024年06月26日 17時39分27秒 | 神戸市以外の兵庫県
2024年3月6日、JR宝殿駅で下車し宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」を散策してきました。
今回はその第2回として米田天神社の近くに建つ「宮本武蔵・伊織生誕之地」碑への
訪問記を写真紹介します。

上の写真が「宮本武蔵・伊織生誕之地」碑
平成元年(1989)秋、細川家第25代当主の細川護貞さんの揮毫です



上の写真は現地の説明板。

播州高砂は生誕の地
作州大原は修練の地
豊前小倉は大成の地
肥後熊本は終焉の地



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明石市 柿本神社の茅の輪くぐり on 2024-6-25

2024年06月25日 17時20分42秒 | 神戸市以外の兵庫県
2024年6月25日、月照寺に49日法要と納骨のため訪問していました。
その折、隣にある柿本神社で「夏越の祓」が行われる代表行事である「茅の輪くぐり」
が設置されていましたので写真紹介します。
上の写真は柿本神社の拝殿前に設置された「茅の輪」
上の写真は「茅の輪くぐり」の解説
上の写真はくぐり方の解説

柿本神社の基本情報
住所:明石市人丸町1−26 TEL:078-911-3930
主祭神:柿本人麻呂朝臣  創建:伝・仁和3年(887) 
境内社:五社稲荷社、天神社(菅原道真公)、三宝荒神社(竈神)
元和6年(1620)明石城築城にあたり楊柳寺(後の月照寺)と共に現在地に遷座


887年和歌を好んだ楊柳寺(後の月照寺)の覚証和尚が寺の背後に柿本人麻呂を祀る祠を
建立したのが柿本神社(人丸社)の始まり。


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旬鮮の房 はたごや JR明石駅店

2024年06月21日 05時56分36秒 | 神戸市以外の兵庫県
2024年6月19日、旬鮮の房 はたごや JR明石駅店でいただいたランチを写真紹介します。
1人での利用でカウンター席でいただきました。


はたごや JR明石駅店の基本情報

住所:明石市東仲ノ町5-32  TEL:078-915-2450
営業時間:昼11:30~14:00
     夜17:00~22:00(L.O.21:30)
定休日:なし (年末年始を除く) 運営:株式会社H&Rコーポレーション





上の写真は当日いただいた選べる釜飯御膳 1,580円(税込)と生ビール(小)330円(税込)


上の写真はおかずのアップ写真

上の写真は鯛の釜飯
釜飯は他に穴子の釜飯があります。
久しぶりの釜飯で美味しくいただきました。
上の写真はみそ汁
上の写真はカウンター席の雰囲気
全部で6席 2席×3組 2人までが座れます


上の写真は選べる釜飯御膳が掲載のメニュー表です。

上の写真は夏の季節メニュー表





上の4枚の写真は飲み物のメニュー表


上の写真はお店の入り口、外観

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宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」の散策記 on 2024-3-6 その1 西光寺

2024年06月16日 17時26分56秒 | 神戸市以外の兵庫県
2024年3月6日、JR宝殿駅で下車し宮本武蔵の生誕地候補「高砂市米田地区」を散策してきました。
今回はその第1回として宮本武蔵、宮本伊織の親子像がある西光寺への訪問記を写真紹介します。

西光寺の基本情報
住所:高砂市米田町米田460   TEL:079-432-6584 
宗派:浄土宗西山禅林寺派  山号:来迎山 御本尊:阿弥陀如来
創建:建治元年(1275)

所在地のGoogleマップを添付しておきます。




上の2枚の写真は宮本武蔵、宮本伊織の銅像
文武両道とも記載されています。
製作者は
富山県高岡市在住の喜多敏勝氏(日展入選者)
剣豪宮本武蔵が生誕したという説がある高砂市に県内外の小学生剣士が集う
「武蔵・伊織剣道大会」が毎年5月に開催されています(コロナ期を除く)。
 「文武両道」を実践した武蔵と武蔵の甥である宮本伊織の精神を学ぶ事が主旨で、高砂市では剣道の他に将棋や水彩画、書などのイベントも催されています。
宮本武蔵の剣術の流派「野田派二天一流」は現在も継承されています。
上の写真は山門と鐘楼(道路からの外観)
山門は享保17年(1732)、鐘楼は天明4年(1784)に建立されています。
上の写真は境内から撮った山門、鐘楼、手水舎



上の2枚の写真は本堂と前庭
本堂は明治24年(1891)に火災で焼失、明治27年(1894)に再建されています。

上の写真は本堂に掲示の御詠歌
上の写真は五輪の庭




上の4枚の写真は境内の石仏や墓石群



上の3枚の写真は墓所に設置の四国八十八カ所


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最後の剣士「野村彌生」所持の太刀と脇差の展示 in 明石市立文化博物館 on 2024-6-6

2024年06月10日 06時07分31秒 | 神戸市以外の兵庫県
2024年6月6日、明石市立文化博物館の常設展示で表題の最後の剣士「野村彌生」所持の
太刀と脇差が展示されていましたので写真紹介します。

上の写真が最後の剣士「野村彌生」所持の太刀と脇差の展示
明石市立文化博物館の常設展示 撮影:2024年6月6日




上の2枚の写真は野村彌生(のむら やよい)を紹介したパネル

野村彌生(1845-1916)について三条杜夫・祥平著の野村彌生伝記「明石と最後の剣士」の
 記述も加えて記載しておきます。
野村彌生は弘化2年12月28日(1846年1月25日) 土肥右仲太の三男として江戸んお掛川藩藩邸で誕生、
土肥菊之進と命名された。元神戸市会議員・野村昌弘の曾祖父に当たる。
当時の掛川藩の藩主は6代目の太田備中守・資功(すけかつ)であった。
土肥菊之進は上述の掛川藩上屋敷(江戸・常盤橋近く)で5歳まで過ごし、5歳で上野の
北西に所在の下屋敷に移った。7歳になった時に明石藩大蔵谷の旧家・野村釜次朗が
菊之進を見込んで娘・つねの養子 となり野村菊之進となり明石藩士として新たな人生が始まります。
明石藩の江戸の上屋敷は半蔵門外にあり、ここで過ごすこととなった菊之進は
ここで生涯の友となる岡田担次郎(のちの岡田勝朝)と出会う。
菊之進と坦次郎は共に剣術の腕を磨き慶応2年(1866)に20歳になった菊之進は
田宮流剣術の免許皆伝を受けるまでになっていた。
慶応4年(1868)、江戸明石藩邸の大目付・津田柳雪(つだりゅうせつ)の呼びかけに応じ、
明石藩を脱藩し松石隊(しょうせきたい)に入って彰義隊と共に政府軍と戦いました。
戦いに敗れ明石に移送され、明石の福林寺で謹慎となった。明石藩の最後の藩主・松平直致の
力添えもあり謹慎処分は明治3年(1870)3月に解かれた。
菊之進はこの時に名前を野村彌生と改め、野村家の時期当主としてスタートをきった。
野村彌生は養父・野村崟次郎の叔父・次兵衛の娘・つねと結婚した。
住居は明石・東本町49番邸。
明治4年(1871)野村彌生は岡田勝朝とともに明石・西新町に剣術の道場を設け、
少年の門下生を武育する。
明治17年(1884)、東本町に演舞場「雄心館」を設置、のちに「鷹楊館」と名を改めたのち
幹事・門下生の取り立て役として従事。明石の入営軍人及び高等小学校、農学校などの
生徒に剣術を教授する日々を過ごす。
明治31年(1898)12月、大日本武徳会に入員。
明治33年(1900)2月、姫路第二師範学校で剣道の教師となる。
明治34年(1901)5月、大演武会に於いて小松宮総裁殿下の御前にて長崎の剣士との
試合に勝利し、殿下より御感の上賞を賜う。
明治39年(1906)、京都・武徳殿に定期的に剣術の指導に出かけるようになる。
大正5年(1916)1月7日、姫路市河間町(こばさまちょう)で71年の生涯を閉じる。


上の写真は人麿山月照寺の南参道脇に建てられた「剣士野村彌生之碑」
昭和8年(1933)11月、武徳会の兵庫支部、神戸武徳殿で柔道師範を務め、
明治時代の柔道三名人と称された田邊又右衛門と野村彌生の孫にあたる光の三男
野村翁助(おうすけ)によって建立されています。
碑文の揮毫は明治天皇の御前で揮毫した際に「日本明瑞」の名を賜り、のちに伊藤博文の
書生となった伊藤明瑞によるものです。
上の写真は柿本神社の境内、筆塚の横に建立された伊藤明瑞師之碑



上の写真は「剣士野村彌生之碑」に隣接する地に建てられた野村彌生の親友
岡田勝朝の墓
明石藩士族、鷹楊館剣道教師の銘も刻まれています。

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