僕自身、頭の回転は鈍く、性格も不完全であり、生活も荒れ果てているのだから、他人のことをどうこうと批判、非難することなど出来ないのです。
しかし、この度の安部首相の退陣に関しては、さすがの鈍重なヘタレパチンカーも思うところアリです。ちょっとタイミングとしては遅れていますが。
いや、彼の心労を言えば同情もある。何度もなんども立て直そうとして、そのたびに繰り返される不祥事。痛々しいものでありました。
だが、彼が掲げた「美しい日本」とはどういうことだったのでしょう。
美しい日本の景色?
美しい日本の女性?
それならば何の異議もありません。だが、これが生活や政治、精神を指すところのものであるのだとしたら、困惑せざるを得ないのです。
肉親同士の殺害、いじめによる自殺、動機すらない殺人、飲酒運転による凄惨な事故、性犯罪、食の不安全、住まいの不安全、税金を横領する見下げ果てた公務員、復讐かのように荒れ狂う自然、他にも・・・と、国内に関しての問題に目を向けただけでも、書ききれないほどの
不条理に満ち満ちている生活。
明日は我が身。
不安な未来。
美しい国、日本へ。
なんらかの犠牲になってしまわれた方、もしくはそのご関係者の方が、この言葉を見た時に一体どのような気持ちだったであろうか。美しい日本になって欲しいと願ったには違いないのであろうが。
確かに政策の中で、いろいろと掲げられてはいます。が、飛躍しすぎて伝わって来ない。まるで彼の言葉ではないかのようです。ただ良いとこ取りの言葉の羅列。
そして蓋を開けてみれば
職務放棄、である。
追い詰められた状況を打破する為に、よりインパクトのある言葉を求めたのであろうか。それならば、誇大広告もいいところである。
歌謡曲では、無いのである。美辞麗句に万人が共感するのは、それが儚いものだと分かっているからである。
生活は、遊びでは無いのだ。
おあつらえ向きの理想論など、生きてゆくのに必要となどと誰も思ってはいないのである。
もちろん政治家だって、国民の生活をなんとかしようと、それこそ身を粉にして働き勤めあげてくれているのであろうから、遊びではないのだと思う。
だが、このような中身の無い空虚なロマンチシズムを堂々と掲げられてしまうと、いささか疑わざるを得ない。
美しい日本なんて、今まで訪れたことは無いし、またこれからも決して訪れることはないでしょう。
一体、どれだけの戦争犠牲者の上に築き上げた今の生活であろうか。戦国時代の書物を読むと、虐げられる農民などの暮らしばかり気にかかってしまう。おかげで偉大であろう戦国大名たちが、ちっとも偉大だと思えないのである。これからだって、もっと悲惨な出来事は起こる。
喉元を過ぎた熱さを忘れて生きてゆくのが人間であるが、決して忘れてはならないこともある。
「美しい日本に」なんて、口が裂けても、言ってはならない。
まして「誇りに思える国にしよう」などと、開いた口が塞がらないのだ。
そもそもの前に人間同士が共存して暮らしていく以上は、美しい精神も生活も、ちょっと難しいように思う。
学校でのイジメ、職場でのイジメ、政治家の汚職、殺人といったことが、如何ともし難く、排除できないという事実から推して知るべしである。
何よりも恐ろしいのは、人間の誰しもが、今日は被害者でも明日には加害者になってしまうことが出来るという性質を持っていることである。
こんな話がある。今日までイジメられていた人物が、なにかのキッカケでイジメテる側と和解したところ、翌日からはその仲間になり、他の人物をイジメ始めたのである。
もちろん、そういう人物ばかりではなく、自らの痛みから弱者を庇護する気高い人物もいるであろう。その人物には、どうかその後の人生が光輝く素晴らしいものになって欲しいと願うばかりであるが、実際はそういったケースは希少であるらしい。
美しい国にならなくても国民は変わらず必死に生きてゆくだけである。今も昔も。
余計な失望はもう沢山なのである。もう本当にいい加減にして欲しいのだ。
「美しい日本」という言葉を見たとき、実際に呆れはしたが、どこかでそうなるといいな、という願いもあった。余計な揚げ足取りは心の中でも思うべきでは無い、と。
2度繰り返すが、結局は、職務放棄。
謀ったも謀られたもあるか。派閥?孤立?愚痴る相手がいなくなった?
結局、この人の視界には、初めから国民など入ってなかったのである。
やはり政治というのは、政治家による、政治家の為のものに過ぎないということを確信せざるを得ないのであります。
-はじめに言葉ありき-聖書の冒頭にも書かれている言葉であるが、よくよく注意しなければならないのである。
政治家に神も偉人も望んでいないのです。同じ人間なのですから。必要なことは沢山ありますが、一度に全てを成しえることなんて出来ないのです、誰であろうと。
次に誰が首相になるにせよ、底辺というものをきちんと見て頂きたいと切に願うばかりである。どのような形も、底辺を見ずには完成し得ないのであるから。