18~19さい(歳)が
さんか(参加)する
「参院選」の直前、
うちのチットは、中江ちょうみん(兆民) っていう人の
本をよんでいました
中江兆民とは、明治しょき(初期)の日本に、フランスのしそう(思想)を
紹介し、
「東洋のルソー」
と
よばれた、有名しそう(思想)家です
若いころ、文明開化のせいしん(精神)面を リードした兆民は、
のち、
自由民けん(権)うんどう(運動)をも
リードし、
日本初の、「衆議院議員」にも せん(選)出されました
うちのチットは、
先週たまたま
中江兆民について
語るきかい(機会)が あったので、
兆民の本を、しばらくぶりに よみ返したのです
兆民の代表作は、
国会かいせつ(開設)を前に、日本の方向性を
世に問うた、
さんすいじんけいりんもんどう
(かんじ:「三酔人経綸問答」)
平和と民主しゅぎ(主義)をかかげる、「洋学紳士君」と、
しんりゃく・しゅぎ(侵略主義)者の「豪傑君」
そして、じょうしき(常識)的な、改良しゅぎ(主義)者の
「南海先生」が、
かみあわない
ろんぎ(論議)をする
という
すじ立てです
20年前、れきし(歴史)をしごと(仕事)にするにあたり、
政治や
外交や
平和について
しんけん(真剣)に考えるようになった
チットが
手に取った、
人生における、しどう(指導)書でした
そんな本を書いた 中江兆民が、国会が開かれる年(1890年)に
あらわした、
「選挙人めざまし」
という文章が
ありますので、
そのいっせつ(一節)を 引いてみたいと思います。
「わが国を立派なものとするか、しないか、よくするか、悪くするかの権利は、
はたして誰の手のなかにあるのか。
かの選挙権をもつ者のほか
一人もこの権利をもつ者はない。
わが天子が賢明であり、わが内閣総理大臣が勤勉であるにしても、
国会をおこすまでの仕事をまかされるのであり、
国会をおこすというそのことは
選挙人それ自身にまかされる。
選挙人それ自身の権利は どれほど重大であろうか。
わが国会を真の国会とするのも、
半銭の値打ちもないものとするのも、
五大陸の見物人を
あきれさせるのも驚かせるのも、
選挙人の一投票中にある。
この点に考えおよぶとき、
選挙人たる者として おそれないでおられるだろうか。」
「では、選挙人たる人々は、どのように覚悟すればよいのか。
これは、たやすいといえば
実にたやすい。
選挙すべき人物を選挙し、
選挙すべきでない人物を
選挙しないだけのことである。」
「およそ代議士の候補者としてみずからをおし出すほどの人物なら、
まさか下等動物ではなかろうし、
無血虫ではないはずである。
多少の考えは 頭脳にたくわえてあるはずだ。
まして、かつて高官や栄職にいて功績のあった物体なら、
政治のことについては、いくらか通暁しているだろう。
政党のなかにいて手や口をうごかし、
帽子や履物や衣服を輝かしてきたほどであれば、
かならず相当の知識があるだろう。
心中にいだいた志のために、牢獄の苦痛をなめてきたほどであれば、
かならず多少の血気はあるだろう。
要するに、いずれも卸しで売る品物ではなくて、
あつらえ向きの物品であろう。
しかし、それだけのことで
代議士としての無形の資格をそなえたということはできないし、
それだけで
君たち選挙人の一票をもらう価値があるということはできない。
けれども、
これだけの資格に満足して投票するならまだましである。
酒をくんでの一夜の談話に意気が合って
ともに命をかける交わりを結び、
寒暖のあいさつの言葉のうち 気にくわないふるまいがあったとして
十年間の友情を冷たくするなど、
一時的な体温の増加を基準にして
政治家の評判を上げ下げするようなことは、
君たちの手にするテコを振りまわす上で
適当な心掛けではない。
なぜか。
君たちは一考すべきである。」
「そもそも代議士とは、その名のように君たちにかわって
ことを議するべき者である。
だからその第一の資格は、
政治方針について
君たちと意見を同じくするところにある。
もし政治の方針について君たちと意見が別であり、
また反対の意見をもつときは、
まさに君たちの政敵である。
政治の方針について君たちと意見が同じであって、その人に
知恵も勇気も学識も弁舌もあるときには、
天は実に君たちに
天使をあたえたのである。
君たちと意見を別にし、
また反対の意見をもっていて、
その人に知恵も勇気も学識も弁舌もあるときには、
天は実に君たちに
悪魔をあたえたのである。
いや、
君たちがみずから天使を買い、
悪魔を買ったのである。
一片の投票用紙は、
天使を買うことも、
悪魔を買うこともでき、
あるいは天使でも悪魔でもない
無益無害の豚犬を買うこともできる。」
「もし、選挙人がただ、ぼんやりと候補者の言葉を信じて、
これに選挙するときには、
他日彼が国会に入って、
もしかすると節を変えたり方針を変えて、
多数の意見に反するようになるかもしれない。
はたしてこのようになると、
多数人民はただ選挙権の上で政権をもつだけで、
一選挙期からつぎの選挙期にいたるまでの間は、
無条件に国会の意向にしたがい、
国会の奴隷とならざるを得ない。
候補者は、選挙人の一時的な投票を集めるために、甘い言葉やおじぎで
歓心を買い、
一度投票数を得ると
鷹やみずち(竜の一種)が上空に舞いあがるように
勝手に自分の思うとおりにして
選挙人を路傍の人と同じように見ることだろう。
もし候補者連中がこのようになるときには、
国会は国の世論を代表するものではなくなる。
国会は議会政治を独占する人間の集会所となり、
代議士はすべて
選挙人の腹から生まれた毒蛇となる。」
「(有限委任の方法は)わずかに数十日間、
知恵を働かせ感情をうごかせば
行うことができる。
君たちが、もしこのわずか数十日間の苦労をきらって、
選挙のめくら判をおして選挙し、
自分の頭脳のすべて、
自分の財布のすべてを
代議士にまかせて、議会政治の権利をすて、
今年の七月から長い眠りに入り、
このようにして一生を送りたいと思うのなら、
自分はまた何もいうことはない。
はたしてそうなら、君たちは、四年ごとに一日だけ自由人であって、
そのほかはいつも
奴隷となるだけのことである。」
・・・・・・・
このまんま、
げんだい(現代)にも、つうじることば(言葉)です。