中央区の人工島・つくだじま(佃島)。
ほり(堀)をはさんで、
すぐ・となりが
「石川島」とよばれる、エリアです
江戸初期に、「船頭」のおかしら・やってた、石川さんが、
中洲を はいりょう(拝領)したことから 名前がついた、石川島
白い・ものみやぐらは、今はおトイレですが、
江戸時代は、すみだ(隅田)川や品川沖をゆく、船の安全を 見守る、
「石川島燈台」でした。
今、ここは 「リバーシティ21」という、高そう(層)マンションの町になっていて、
「東京夜景を楽しみたい♪」という、お金もちが くらしています
よって、
すみだ(隅田)」川でさえも
「セーヌ川と提携してます」と、オシャレ・アピール
・・・・・
とはいえ
うちのおにいちゃんに言わせれば、
「石川島と言えば、
石川島播磨重工業のイメージだ。」
とのこと。
ある・年れい(齢)以上の人には、
「造船所」としての にんしき(認識)が
ふつうらしい。。
でも、クリンたちは、思います
(・・・いったい、どのくらいの人が、
ここが、江戸後期、
『国立監獄・人足寄場』だったと
知っているのだろう?)
と。
にんそくよせば(人足寄場)とは、
松平定信の「寛政の改革」で せっち(設置)された、
「軽犯罪者と、その予備軍」の
収容所です
当時、凶作とききん(飢饉)がつづいた・東北地方から、
がし(餓死)寸前の人々が
江戸に流れ込み、
首都の治安を
乱していました
「無宿人」とよばれた その人々が、
ぬすみをはたらいたり
打ちこわしをしたり
するものだから、
いつも、牢屋は パンパン!
困った・ばくふ(幕府)は 「火付け盗賊改め・長谷川平蔵」のプランを
さい(採)用し、
「無宿人」を 3年半、
きょうせい(強制)的に 収容し、
「職業訓練」をほどこして、
手にしょく(職)・つけさせて
社会へ 送り出す、
「自力更生施設」を
つくったのです
「食うに食えないで罪を犯した者を捕まえつづけても、なんの解決にもならない」
「更生させるべきだ」というのが、鬼平の 考え方でした。
こうして、石川島の三角あさせ(浅瀬)は うめ立てられたのです
ここに入ったら、3年は出られない:・・
たいぐう(待遇)だって、もちろんわるい・・。
けれども・・
「油しぼり」・「大工」・「左官」・「細工師」などの さぎょう(作業)をすれば、
ちんぎん(賃金)はもらえましたし、ちょ(貯)金はできましたし、
スキルも身につきました
それに、
社会ふっき(復帰)のさいには、ばくふ(幕府)が「身元保証」をしてくれた点、
囚人とは
明らかに ちがっていました
・・・・・・
こうき(綱紀)と ふうき(風紀)を
正しすぎて
ひょうばん(評判)がわるかった
定信の改革ですが、
「この人足寄場は、善政と言っていいはず」 と、
うちのチットは 言ってます
(つづく)