「築地本願寺」のうら手、「明石町」とよばれるエリアは、
日本一の呼び声も高い、
「聖路加病院」の ナワバリ(縄張り)です
「聖ルカ通り」→ (※聖路加=聖人ルカ)
ここらも、かつては 大名やしき(屋敷)が立ちならぶ、
江戸の一角でしたが、
(築地ホテル)
ばく(幕)末に、
ペリーがやって来て
開国することが決まってから、
外国人にまちを開放しようということになり、
「居留地」として
一気に モダン化しました
(明石小学校前に立つ、ガス灯)
文明開化の さいぜんせん(最前線)を になった・「築地」には、
日本人は少なくなり、
外国人の、なかでもキリスト教徒が 進出。
教会と、ミッションスクールが、バンバンたちました
「築地教会」の、聖人・ネコの話では、
「築地居留地」ではじまった・学校は、今、みんな 「名門校」になっているそうです
(立教学院)
(立教女学院)
(慶応義塾)
(工学院)
(女子学院)
(暁星学園)
・・・・・
それらの学校は
別の場所にうつり、
きょりゅう(居留)地としての 「築地」は
「横浜」に負けちゃって、
明治32年には、その役目をおえます
しかし
トイスラー医師がここではじめた、せいろか・びょういん(聖路加病院)は
のこりつづけて、
「築地居留地」のなごりを、今に伝えています
(つづく)