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M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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アルプス越えの旅 #2

2020-03-15 | エッセイ

 

 <アルプス越えの旅マップ>

 

  ザルツブルグ

<ザルツブルグ> 

 僕がザルツブルグに行きたいと思ったのは、どこかで見た静かなアルプスの山に囲まれた湖の風景でした。

 モーツアルト関係や、ドレミの歌で有名になった映画、サウンド・オブ・ミュージックの風景、ホーエンザルツブルグ城など、もちろん市内も一応歩きましたが、僕の本命はザルツカンマーグートへのドライブでした。

 ザルツブルクで今でも覚えてる事は、この旅で唯一予約していたザルツブルクのホテルでしたが、これがひどいホテルで値段は結構したのですが、住み心地の悪いホテルでした。50年経った今でも、悪い思い出の1つとして残っている残念なホテルです。ヨーロッパの田舎では、どちらかというと予約を入れないで、その場所で良さそうなホテルやペンションを探すというやり方がよさそうでした。

 今回の原稿を書くにあたって、ネットでいろいろ調べてみたのですが、見つけることができなかったザルツブルグの素晴らしいレストランのことを話しておきたいと思います。

 それはホウエンザルツブルク城の足元だったと記憶しているのですが、崖を削った崖下の空洞の中にある大きなレストランでした。そこではバンドも演奏しており、崖に沿って横長のレストランでした。音響効果もすごく良くかったと思います。残念ながら、名前と場所を検索しましたが、特定することができませんでした。どなたか、詳しい情報をお知りの方があれば、お教えいただければ幸いです。(早速、シュティフツケラー・ザンクト・ペーターではないかとの情報を得ました。岩窟を掘った店のようですから、間違いないと思います)

ザルツカンマーグート 

<ザルツカンマーグート>

 ここは紀元前1200年くらいまで遡るハルシュタット文明の地であり、青銅器時代に、すでに岩塩を商品として、他国と交易をした歴史が残っている特別の地域だったようです。

 ザルツカンマーグートですが、ザルツ(ドイツ語の塩)の名前が示す通り、昔から海のないオーストリアでは塩は岩塩でした。カンマーグートとは、貴族たちの領地の意味のようです。岩塩で儲けた長者が、いっぱいいたということでしょうか。オーストリアの名家、ハプスブルグ家の管理下にもあったという話もあります。この近くでは何百年も昔から、岩塩が掘り出されていたわけです。

<シャーフベルク登山鉄道>

 ザルツカンマーグートの中心は、なんといってもヴォルフガング湖でしょう。この岸にあるザンクト・ギルゲンからは、シャーフベルクへのアプト式登山電車がゆっくりと高度をあげていきます。それにつれて、視界が広がり、ザルツカンマーグートの湖水地方といわれる、山と湖の姿が現れます。素晴らしい時間でした。

 バート・イシュルと言う温泉のある小さな村を訪ねました。温泉プールもあり、人々はのびやかに休日を過ごしていました。

<ハルシュタット>

 日帰りの旅でしたから折り返し地点になるハルシュタットは、僕が思っていた美しい湖に抱かれた小さな村でした。この小さな教会では、骸骨がきちんと並べられて、祀られているのを発見しました。これがハルシュタット納骨堂。この村では、教会の墓地が狭いため、充分な土葬の土地を確保できないので、死んだ人を数年間、教会の墓地に土葬にし、その後、骨だけを取り出して残しておくということをやっているようでした。日本人から見ると、大変な葬式だなあ思います。

 これが、僕のザルツブルグを楽しんだ、大きなエクスカーションだったと思います。

 ザルツブルグでの食べ物には、特に記憶はありません。モーツアルトとその父の足跡をたどる歩きも、あまり感動は与えてくれませんでした。ザルツブルク音楽祭での混雑した狭い街というイメージだけが残りました。

<ホーエンザルツブルグ城>

 ザルツブルグの町のいい思い出は、ケーブルカーで登るホーエンザルツブルグ城の高台のテラスから見下ろした風景でしょう。今はユネスコ世界遺産に指定されたザルツブルグの旧市街の街並み、ザルツァッハ川とアルプスの山並みの眺めは美しいものでした。

 ここから、ミュンヘンまで、ドイツの高速道路、アウトバーンを体験します。

#3へ続く

 


アルプス越えの旅 #1

2020-03-01 | エッセイ

  ミラノ駐在中、ドロミティ、オーストリア、ドイツ、スイスの10日間の旅を夏季休暇中に実現することができました。ヨーロッパへの赴任が決まった時、日本の山を歩いて思っていた「ヨーロッパアルプスを旅して見たい」という望みがかなうかなと、その機会を待ち望んでいたのです。

 この旅のことを、これまで書いていなかったので、50年近い昔の記憶ですが纏めておこうというのが「アルプス越えの旅」の3編です。

 

<アルプス越えの旅マップ>

ルート 

(アルプス越えの旅 #1) 

①ミラノ→270㎞ ②ヴェネチア→  160km ③コルティナ・ダンペッツオ(標高1200m)→130km ④グロスグロックナー山岳道路(標高2500m)→ 130km ⑤ザルツブルグ

 

(アルプス越えの旅 #2)

ザルツブルグ ⇔ 往復120㎞ ⑥ザルツカンマーグート(ウオルフガングゼー・バートイッセル→ハルシュタット)

 

(アルプス越えの旅 #3) 

ザルツブルグ→ 160㎞ ⑥ミュンヘン→ 130km ⑦フッセン→ 50㎞

⑧ツークシュピッツェ(標高2886m)→ 180km ⑨サンモリッツ(標高1700m)→ 180km ミラノ  走行距離は合計1500㎞になりました。

<フィアット850S>

 

車: 小型のFiat 850 S 1969発売 1970購入(最初の自分の車です)

    デザイン:ヴァニャーレ  駆動:R.R. 馬力:47 全長 : 3.7m 

重量:780㎏ 変速機:マニュアル4速 エンジン:OHV4気筒 850cc 

   平地では平気で160㎞/hあたりまで走ってくれましたが、山登りは苦手。この旅で、イタリア車の

   ハイギヤード の弱点を、痛感させられました。

 

 ミラノからドロミティ経由でオーストリアに入り、ドイツを回りスイス経由でミラノに帰ってくるというプランを立てました。

 狙いはドロミティを体験し、グロスグロックナーの急峻なアルプスの峠を越え、オーストリアの憧れの街、ザルツブルグに入るという行きの行程を考えました。

 帰りはアルプスを北から南へ旅をするということで、ザルツブルグからミュンヘン経由でドイツのフッセンへ。チキチキバンバンで見たノイエシュバンシュタイン城を歩き、ツークシュピッツェの山頂に登ってみたいと思っていました。何度も足を運んだスイスのサンモリッツ経由でミラノへ。

 

 ヨーロッパアルプスを南から北へ、逆に北から南へと越えることを狙ったわけです。

 

各行程でのハイライトを話してみたいと思います。

 

コルティナへの道

 

 まずはミラノからアウトストラーダで、ヴェネチアまで270キロ。イタリアのアウトストラーダは、日本道路公団が日本に初めて高速道路を作る際、デザインの参考にした道なので、違和感はなく快適な道を走ることができました。日本では速度制限があって飛ばせませんが、基本的には速度制限はなくて、早い車では300キロ近くで走っています。僕の車のような小さな車は頑張って、時速約160キロ位で走行車線を走るという、3車線の高速でした。

 

 追い越し車線は、まさに追い越し専用で、バックミラーにパッシングライトがピカッときたら、その車がすぐ後ろに突っ込んでくるというのが当たり前でした。ポルシェや、フェラーリが同じ車線を走ることなるのですから。僕は、真中の走行車線に逃げ込むのに、必死でした。こんな高速を経験した僕は、日本に帰ってきて、東名の車に走り方が、間違っていると感じました。普通の車が、走行車線が空いているにもかかわらず、一番右の追い越し車線を延々と走っているのを見て、危ないなと思ったものです。

<アウトグリル>

 アウトストラーダで面白いのは、アウトグリルと言う休憩所とレストラン。これは高速道路を跨いで作られた跨道橋のような建物の中に、土産物屋とかレストラン、もちろんトイレを含めた旅行者用の施設があります。アウトグリルは、これをイタリアすべてのアウトストラーダで運営している会社の名前です。ガソリンは、サービスエリアにありました。ヴェネチアでは唯一、車を乗り入れられるローマ広場の駐車場に車を止めて、ヴァポレットに乗って大運河を少し見たと思います。

<ヴェネチアのローマ広場>

 

コルティナ・ダンペッツオ

 

 ヴェネチアに泊まることなく、さらに160キロを登ってドロミティの東の中心、コルティナ・ダンペッツォにつきました。ここは見るところがいっぱいあるので、贅沢を言えば一週間はかかるのですが、先に目的地があるので、ここではホテル・アラスカに2泊だけにしました。ドロミティについては、別途、いろいろいと書いてるので、ここでは省きます。

 

<ハイリゲンブルート:アルプスの香りがしてきます>

 

グロスグロックナー

 

 コルティナからリエンツ、そしてハイリゲンブルート経由で、クロスクロックナー山(3798m)の足元を超える2500mの峠を越えることになりました。グロスグロックナーの展望台があるフランツ・ヨーゼフス・ヘーエへもちょっと寄り道。ここの景観はなんといっても氷河です。最近、アルプスの氷がやせ細っているようですが、この時、僕が見たのは堂々たる氷河のうねりでした。

 もうすでにオーストリアに入っていて、その先の目的地ザルツブルグに向かいました。途中、フルブルン宮殿を訪れ、水の庭園という非常に珍しい庭を楽しむことができました。いろいろな仕掛けで、驚かされたのを記憶しています。日本では昔、水芸と言う芸人さんが、いろんな所から水を出してお客を驚かせるという芸がありましたが、まさにこれはオーストリア版の水芸の組み合わせでした。 

 

#2に続く


突如、思い出すシエナ

2020-02-16 | エッセイ

 僕には、必ず見る数少ないTV番組がある。その一つが「小さな村の物語、イタリア」だ。企画も、ロケーションハンティングも、被写体のイタリアの村の人たちとのラポート関係もしっかりしていて、見ていると、まるでその村に自分が入り込んだような気がする。よくある単なるビジターとしての通り過ぎるヨーロッパの旅番組とは違い、取材者と村の住民たちとの間が、非常に濃密に、よくコーディネートされている。非常に質の高い番組だと思っている。

<小さな村の物語 イタリア:モンティエーリ:番組案内よりお借りしました>

 先日も、トスカーナの小さなモンティエーリという山村を訪れて、上質な栗の粉を作って生計を立てている親父さんの物語を見ていた。

 栗は日本の蕎麦と同じで、小麦が作れないイタリアの山里で、代わりに栗の粉を常食としている地方があったなあと思い出した。トスカーナ、ピエモンテ、カンパーニャなどが思い出された。ニョッキを作ったり、クレープに焼く地方もあったと思う。

 そんな時、僕の頭は突如、明確なシエナの栗のイメージを描き出した。どこに思い出の引き出しの取っ手が有るのか分からないが、突如、スイッチングが起きた。

 

<シエナ砦の城壁>

 それはかなり昔、シエナのサンタ・バーバラともよばれるメディチ要塞の上でのことだった。散歩でこの城壁の上を歩いていると、足元に大きな栗がたくさん転がっていた。数もあって、実も大きいなと手に取って見ていたら、通りすがりの女の人が、そのクリは食べられませんよと、笑いながら教えてくれた。番組で取り上げていた良質の栗の粉の話が、食べられない栗の記憶と、ふっと結びついて出てきたのだろう。不思議だった。

 

 僕の頭は、もうシエナのことに飛んで、その時のことを、思い出し始めていた。

 

<コントラーダ・フクロウの宴会あと>

 そうそう、メディチ要塞の中の広場には、前の夜に大きな宴会があったらしく、沢山のテーブルが並べられて、テーブルクロスもかけられたままであり、残飯や食べ物の箱などが、そのまま片付けられていなかった。臨時の簡易トイレが何台も、広場を見おろす城壁の上に作られていた。まあ日本的に言うと沢山の人が、どんちゃん騒ぎをしたとしか思えない。そして、広場には、印象的なコントラーダの旗が、掲げられたままになっていた。後で調べてみたら、「フクロウ:チヴェッタ」の旗だった。

 あれは、シエナ城内に宿が取れた時だった。シエナは、フィレンツェとの戦いのために、丘の上に強固な城塞都市として作られた歴史がある。シエナの城内の市街地では、車は走れない。平地からのアクセスも当然悪くて、バスでさえ、町の北西にあるターミナルまでしか入れない。一般車両は、ほんの一部しか走れない規制もかかっていた。幸い、僕の予約したホテルは、城壁に面していて、細い城壁の道をたどってやっと辿りつける、シエナ城内の端っこだった。車を止めたら、街では、歩くしか交通手段はない。

 

<ホテル アテネ>

 ホテルは古くて、お世辞にも住みが良いとはいかなかったが、シエナのチェントロ(中心)へのアクセスはよくて、カンポ広場までも、ゆっくり歩いて10分とかからない。

 あの時は、シエナには3泊していたから、カンポ広場には何度も通った。カンポ広場といえば、パリオで有名だ。僕たちが行った9月には、もうその年のパリオは終わっていたが、カンポ広場に行くには、テーブルが並べられ、黄色と水色のコントラーダの旗が架かる小道を歩くことになる。そこは、「亀:タルトゥーカ」の地域だった。

 カンポ広場のパリオは、シエナの17のコントラーダ(地域、その共同体)から、抽選で毎年10のコントラーダが選ばれて、起伏のあるカンポ広場の外周300mを裸馬を操って3周して決着する競技だ。

 

<カンポ広場 右>

<カンポ広場 左>

 カンポ広場は世界一美しい広場とも言われているが、一番高い入り口の噴水付近から、市庁舎のある一番低いところまで、標高差約3mの傾斜になっている。その外周の石畳に、凝灰岩の砂を撒いて一周、300mの走路を作り、そこを各コントラーダの騎手が命懸けで、3周して優勝を狙うのだ。8月と7月に、年二回行われる。当然、地域の結束は強く、負けてはいられない。時々、馬が転倒したり、騎手が落馬して、酷いことになったりするようだが、誰にも止められない競争がパリオなのだ。

 

<コントラーダ地図 & 二つの地域の旗 :トッカ・アコントラーダのデータより>

 ちなみに、昨年(2019年)のパリオは、二人の騎手の落馬もあり、優勝は騎手の乗っていない裸馬だったようだ。騎手が振り落とされても、その馬を持っているコントラーダが優勝ということになる。

<空から見たカンポ広場 Google Earth>

 

 

 我に返って「小さな村の物語」の話に戻ると、村の純朴な年寄りが、素晴らしく哲学的なことをしゃべっている。いつも、深いなあと思いながら、この番組を見ている。

<小さな村の物語 タイトル>

 一時、この番組のスポンサーのダイワハウスが、何かの不祥事でCMから外れ、今や頼りない東芝メモリだけの提供になったことがある。東芝の状況を見ると、もしかしたら、この番組も終わりになるかもしれないと心配したが、ダイワハウスが戻ってきて、いいコマーシャルを打っているので、当分は、この番組は楽しめるだろうとホッとしている。

 それにしても、東芝さん、頑張ってよ!

P.S.

借用情報:

・日テレの「小さな村の物語、イタリア」の紹介ページ https://www.bs4.jp/italy/

・シエナ・パリオの紹介ページ コントラーダの詳細がわかります。

 : https://emporiomediterraneo.jimdo.com/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%80/


信濃追分あたり

2020-02-02 | エッセイ

 次の日の行程は、ゆったりとしたものだった。前日の野反湖のように、シャカリキでクネクネの山道を運転して、日帰りするといったプレッシャーはない。ほとんど平坦な舗装された道を、淡々と車を転がせばよかった。

 軽井沢のホテルの中庭の緑と朝の光を楽しんでみる余裕も充分あった。

<ホテルの中庭の緑と光>

 追分に行ってみようと思ったのは、何度か訪れた追分宿だが、昔のイメージとどうしてもかみ合わないことが一つ、頭に引っかかっていたからだ。それは、「追分本陣」がどこかに消えてしまっていて、どうなったのだろうという疑問だった。

 本陣と言えば、大名の参勤交代のおり、宿場に泊まるときに使われるものだ。追分宿は、ちょうど北国街道と中山道との分岐点。当然、昔から本陣があったはずだ。僕も、昔、親父や親父のお弟子さんと一緒に絵を描きに追分と浅間を訪れた時、何度か本陣という旅館に泊った記憶があるのだ。しかし、今は観光地図にも、グーグルで調べてみても、何所にも記述はない。不思議だった。

 追分宿には、特別な思い入れがある。大学の卒論を書き終えるために、1965年8月末から9月の始めまで、3週間ほど油屋という旅館に泊まって、論文の仕上げをしていた。だから、追分宿は知っているほうだと思う。

<油屋>

 その頃、堀辰雄に興味があって、「御代田から、ドラフトの音を響かせて、機関車が追分に登ってくる…」という彼の文が頭に残っている。いつだったか御代田駅にも行ってみて、急こう配の登りも確認したし、保存されているSLも見てきた。しかし、その昔に追分駅に行ってみた時の記憶と、今回の追分駅の風景とはまるで違う。駅を出ると、左側に大きなケヤキ(?)が2,3本立っていた記憶があるが、今はなにもない。もう、あの頃の風情は消えていた。つまらない駅になってしまっていた。

<現在の信濃追分駅>

 油屋に滞在中、気分転換に散歩に出た時、堀辰雄の別荘に足を踏み入れたことがある。堀さんはもう亡くなっていたが、奥様の多恵子さんがいらして、お目にかかって話す機会を得た。彼が使っていた書斎に入れてもらって、彼が見ていた御代田から追分へ登りの遠景を、同じように見せてもらった。偶然だが、多恵子さんは、僕が生まれた谷中に近い日暮里にお住まいだった。東京でお会いしましょうと、電話番号も教えていただいたが、結果として、お会いしたのはあれが最後だった。多恵子さんは、97歳までお元気だったようだ。

<堀辰雄記念館>

 そう、本陣のことを調べようと地元の何人かに声をかけたが、追分に詳しい方はなく分からなかった。でも、知っているかもしれない人を教えられ、やっと追分本陣の話を聞くことができた。

 その人の話によれば、追分本陣はちゃんと過去に存在したし、民宿のようなこともされていたようだ。僕が泊まった、宿屋のことだ。しかし、だいぶ昔に、火事で焼失したようで、本陣は残ってはいなかった。探しても見つからないはずだ。そして、本陣があった場所には、追分宿には不似合いな現代的な低層マンションが建っていた。系譜の方が、住まわれているようだ。挨拶するほどの知古でもないので、そのまま素通りしてきた。

<昔を残す、追分の家並み>

 これで、長年、もやっとしていた本陣のことは確かめられた。残念ながら、記憶にある昔の石でできた道しるべ、「右 北国街道、左 中山道」は、追分の分岐点にはなかった。代わりに、案内板がたっていた。

<追分の史跡の譜>

 この日は少し曇りで、目の前に仰ぐことのできる浅間は、顔を見せてはくれなかった。これで、もう二度と追分宿に足を向けることはないだろう。

 帰りに、旧軽井沢銀座を歩いてみたが、前にどこかで書いたように、昔の面影はなく、東洋系外国人の喧噪の観光地になっていた。全く風情は感じられない。

<旧軽銀座入口>

 万平ホテルに寄ってコーヒーを飲んできたが、ここは、変らずの静寂が残っていて、空気の密度が濃い感じがした。お陰さまで、照り返しの旧軽井沢銀座の喧騒を忘れることができた。

<万平ホテル>

 最後の日、レンタカーを返却するときに発見があった。旧軽井沢駅の前に、1960年に廃止された、草軽電気鉄道の電気機関車「デキ12型」13号機が保存されていたのだ。

<草軽鉄道 電気機関車デキ12型13号機>

 1960年というと、僕は初めて信濃に足を踏み入れた年の1年前だ。動いている草軽鉄道に乗ってみたかったのだが、残念。ちょっと、遅すぎたのだ。

 これで、「天空の野反湖」を中心とした、軽井沢の旅も終わった。バケットリストに丸を付けた。

 

P.S.

帰って調べてみたら、高くパンタグラフを掲げた、こんなユニークな電気機関車だった。

<デキ13号 「草軽電鉄」から借用>


天空の野反湖へ

2020-01-19 | エッセイ

 バケットリスト(くたばるまでにやっておくことのリスト)に残っている、ちょっと大切な項目が、この野反湖(のぞりこ)に行くことだった。

 

 今も、あまり知られてはいないと思うが、野反湖は大げさに言えば秘境だろう。似た名前の信州の野尻湖とは違い、群馬県と新潟県の県境の頂上にある小さな人口湖で、「天空の湖」と地元ではPRしているアクセスの悪い湖だ。しかも何もないところだ。

<野反湖へのルート:Google>

 アクセスが悪いとは、高齢の部類に入る僕にとってのことかもしれない。ここへは、車でしか行けない。急カーブが連続する細い山道を、緊張しながら登って行かなくてはならないからだ。もちろん対向車も来る。時には、ダンプカーだったりして。ここでは、右へ、左へと連続するハンドルさばきと、素早いアクセル、ブレーキの操作が要求される。軽井沢から片道65キロの山道を、日帰りでこなすことになる。

 

 ここにはその昔、高速・信越道もない40年ほど前だが、友達と二人で、誰も知らない山にドライブに行こうと、東京から軽井沢経由で片道10時間以上かけてたどり着いた確かに天空に一番近い湖だった。あれは、8月だったと思う。藤岡で高速を降りて、一般道で安中を通り、横川から国道18号線のカーブだらけの碓氷峠を超えて、軽井沢に入った。

 軽井沢でガスを入れ、少し休んで、浅間の東麓を横断して、吾妻線の長野原駅に下り、そこから少し下って、またまた登り。六合村(くにむら)へと登り詰めて、左側に、志賀高原のてっぺん、草津白根山と横手山を見ながら、視界が開けたところに野反湖はあった。周りには、人気はなく、静かな深い青さの上にさざ波が渡っていた。自然の持つ静寂の世界だった。四方を山に囲まれた、形のいい小さな湖だった。道はここで行き止まり。

<野反湖>

 ぼんやりしていたら、もう夕暮れになった。そのころは若さに任せて旅をしていたから、泊る宿など予約などしていなかった。夕暮れの中で、どうしようということになり、最悪は途中の六合村にあった温泉宿まで、暗闇を戻ればいいやと高を括くくっていた。しかし、これだけ美しいところに泊りもしないで帰るのは悔しいから、遠くにかすかに見えたロッジ風の建物で尋ねてみることにした。行ってみたら、キャンプ場だった。ほかに貸しバンガローもあったが、その日は予約でいっぱいだった。

 キャンプ場の管理人さんに事情を話して、どこでもいいから、雑魚寝でもいいから、一泊させてくれと頼み込んだ。センターロッジに泊めるわけにはいかないからな~と考えていたが、もしかしたら、今日は六合村からの駐在さん(おまわりさん)が来ない日かもしれないと、予定表を調べてくれた。僕たちは、話が呑み込めなくて、駐在さんって何だろうと話していた。

 そして本当に幸いなことに、この夜は駐在さんの野反湖での宿泊予定はないので、空いている駐在さん専用のバンガローを、特別に僕たちに寝る場所として提供してくれたのだ。いや~、ほんとに助かった。1,513mの海抜だから、東京より10度も低い山の一夜は大変だったと、後で感謝し直した思い出がある。

 

 今回は、宿は軽井沢だから、日帰りでも、老齢でも大丈夫だろうと、今回の旅の目的にしたのだ。レンタカーを走らせて中軽井沢から右折して、若いころ、子供たちを連れて何回か泊った懐かしいリス庵や、大学村と呼ばれている法政大学村が起源の北軽井沢を過ぎ、前よりかなりよくなった道を、吾妻渓谷に向けて高原を146号線で突っ走る。幸い、心配していた天気も良い。山への旅では天候が一番気がかりだが、今回は神様が、想いに応えて、素晴らしい秋空を提供してくれた。

<北軽井沢大学村>

 助けてくれた駐在さんがいた六合村(くにむら)は、今は中之条町に編入されて、残念ながら、なかなか、ちゃんとは読んでもらえない六合村は無くなっていた。古い名前は大切にしたほうがいいと思うのだが…。

 大型のダンプカーと、クネクネの細い上り坂で会ったりしながら、なんとか急カーブの連続の坂を上って、パッと野反湖が現れた。長年の願いがかなった瞬間だった。

 湖は、今日も美しい。

<野反湖湖畔>

 周りの山も、少し黄色くなり始めているようだ。

<コントラスト>

 新潟側のダムの法面は、コンクリートではなく、大きな岩を積み上げたロックヒルダム。

<ロックヒルダム>

 ダムの堰堤を走ってキャンプ場に入った。すると、忘れもしないバンガロー群が、今もそこにあった。

<バンガロー群>

 しかもよく見ると、バンガロー1番に、警察のマークが光っている。嬉しくて飛び上がっていた。もう間違いなく、このバンガローに一泊させてもらったのだ。

 古いバンガロー群の改築が始まっていて、古びたバンガロー、そのものを見られるのは後わずかで、本当に幸運だった。もう少し遅かったら、まったく違ったイメージのバンガローになっていただろう。山には似つかわしくないモダンな改築された新しいバンガローも、もうすでに数戸、建っていた。1番は昔の姿で残っていて、僕の希望をかなえてくれた。

<駐在さんのバンガロー>

 片道2時間、野反湖に1時間ほどいて、昼をとっくに回っていたから、蕎麦でも食おうと探したが、野反湖にも、六合村にも、それらしい店は見つからない。頑張って、北軽井沢あたりまで戻って来たら、「地のそば粉」という看板につられて、Mという店に入ったが、残念、蕎麦はうまくなかった。

<軽井沢~野反湖の断面図>

 いつかの八ヶ岳の旅でもそうだったのだが、今回もうまい蕎麦屋には当たらなかった。信州の蕎麦は、どうなったのだろうと、頭をひねりながら軽井沢に帰ってきた。

 バケットリストの位置づけでは、この野反湖への旅が急カーブの連続の車の運転が必要なので、年齢を考えると、できるだけ早く完了しておきたかったことだった。ほっとした気持ちがある。