M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

好奇心の旺盛さを垣間見た

2016-12-18 | 2016 イタリア


 基本的に、イタリア人は行列して待つのが嫌いな人種だと思っている。他の人が並んで待っているのを見たら、日本人だったらなんだろうと思って並んでみようかという人さえいるが、イタリア人は列を作って待つのが大嫌い。他人の選択に影響されることなく、自分の選択を第一にするからだと思う。

 そんな中で、今回、異常な光景を見た。時は今年の(2016)6月23日。



 <フレッチャ・ロッサ>

 その日は、ミラノからヴェネチアに行く日だった。トレニタリアの新幹線、フレッチャ・ロッサ(赤い矢)9715号のファーストクラスで、ウエルカムドリンクを飲みながらガルダ湖に近づいた時だった。左側の席から、通り過ぎる駅を何気なく見ていたら、ある駅でプラットホームにたくさんの人が待っている。長い、長い人の群れが、ホームを埋めていた。ちょっと、他では見られない光景だった。駅名はブレシアだった。



 <ブレシア駅の人の行列>

 そのまま、なんだったのだうろと思いながらヴェネチアで5日を過ごし、帰りのフレッチャ・ビアンカ(白い矢)号でミラノに帰るとき、同じくブレシア駅に、この前と同じようにホームいっぱいに人が並んでいた。それが6月28日だった。ますます、なんだろうと好奇心が沸いた。その好奇心は、行列を作り待ち続けるイタリア人への僕のそれだった。何とかこの謎を解きたいと思った。

 翌日、1970年からの付き合いのミラネーゼの友達に会った。14年ぶりだった。話の中で、この疑問をぶつけてみた。なぜこんなに人が列を作っているのか、イタリア人らしくないだろう…と訊いてみた。以外にも、答えはすぐに帰ってきた。

 それはおそらく、イゼオ湖の湖面に浮くフロートの上を歩くイベントだと言う。クリスト&ジャンヌクロードの二人が構想した大イベントだった。The Floating Piers (Project for Lake Iseo, Italyというプロジェクトだった。



 <フローティング・ピア プロジェクト>*1

 このプロジェクトは、2014年から2年間かけて準備されて、やっと今年の6月18日から7月3日までの15日間だけ、無料でみんなに解放されるという。その為の人の群れだろうということだった。



 <小島に繋がるピア>*1

 ドイツ製の輝く金色の布が張られた20万個の高密度ポリエチレンのキューブ、それは、水深90mの湖底にアンカーで固定されたものだが、その上を、まさに水上の桟橋というフニャフニャした上を4.5km歩けるという。イゼオ湖の小島にも通じていて、皆は好奇心から、イタリア中から人が集まったという。

 そんな機会は、一生に一度しかないから、僕だって、歩いてみたかった。そういえば、イタリアのテレビでも、金色の浮きで出来た道を、バランスを取りながら人がたくさん、歩いている映像を見た。面白そうだ。



 <歩く人たち>*2

 ブレシアからローカル線に乗って、20㎞先のイゼオ湖に行くために、大っ嫌いな行列を作って、イタリア人が順番待ちをしていたのだ。僕がヴェネチアに行くときも、帰りも、ブレシアの駅でトレノルドのローカル線に乗るために、押し合いへし合いの待ち行列を作っていたのだ。

 期間中には、風と雨が強くなって、危険だから中止になったこともあったようだ。だが、好奇心には逆らえない。結果として、この15日間に150万人が、このThe Floating Piers プロジェクトに参加したという。強い好奇心の現れだと納得したわけだ。ご本人のHPがあるから、これを見てていただくと、もっとよくわかる。

 クリスト&ジャンヌクロードのホームページ
 http://christojeanneclaude.net/projects/the-floating-piers


 さて、このプロジェクトのほかにも、イタリア人の好奇心が、列を作って待つことへの嫌悪感を凌駕したプロジェクトがあった。

 それはEXPO2015:ミラノだった。この混乱を避けるために、僕のイタリア行きを1年延ばし、今年になったのだが。



 <EXPO 2015 Milano>*3

 イタリアの総人口が7000万人のところに、昨年5月から10月までの6か月間に、2000万人もの人が、世界中から訪れた。大盛況で、大混雑だったのを、日本で毎日、読んでいるコリエーレ・デラ・セーラで見ていた。



 <混雑のEXPO>*3

 テーマは、“Feeding the Planet, Energy for Life”。「地球に栄養を与え、生命にエネルギーを」 とでも訳せるテーマだった。サブテーマは、7つに分かれ、サステイナブルな地球を救うための、科学的研究やテクノロジーの紹介と、世界の飢餓対策の安全な食料と提供、飢餓問題への対応だった。



 <飢餓とのたたかい>*3

 日本は、最後の「多様性な食」にテーマを絞り込んで、もっぱら、日本食のPRにパビリオンを使ったようだ。この日本館の意味付けには疑問があるが、日本食の魅力につられて、たくさんの人が押し掛けたようだ。入館までの待ち時間が、8時間から11時間という日も結構あったようだ。そんな時間があれば、飛行機で日本まで行けると揶揄もされていたが、イタリア人の待ち行列は、半端じゃなかった。



 <日本館のオープニング:リオの安倍さんはこのコピー?>*3

 最終的には、フランス館、ドイツ館と並んで、日本館は金賞を受けたようだから、成功と言えるだろう。

 これも、イタリア人の旺盛な好奇心を見ることが出来たケースだろう。ただし、どちらも期間が限られた、入場無料の催しだった。


 今回の「ミラノ帰り」のエッセイは、以上12個で、一応終わることにします。お楽しみいただけたでしょうか。僕自身の人生の記録としての意味が強いものです。


 P.S. 使用した写真のクレジット情報
  *1:フローティングピア プロジェクト
  *2:New York Times
  *3:EXPO 2015 official Site


ミラノのシスティーナ : サン・マウリツィオ

2016-12-04 | 2016 イタリア


 ミラノの美術館と言えば、サンタマリア・ディ・グラッツエ教会の「最後の晩餐」とか、ブレラ美術館を思い出される人も多いだろう。カナコロのダヴィンチは待ち行列ができて、ゆっくりは楽しめないし、ブレラはあまりにも作品が整理されていなくて、混然一体となって、どこか気に入らない。

 もし前回の僕の「ミラノ里帰り」を読んでいただいた方なら、そこで紹介したアンブロジアーナ絵画館(ほんとは内緒にして、静かなままであってほしいと思っている)をご存知の方もいらっしゃるだろう。僕が大好きなのは、やはりアンブロジアーナ絵画館だ。



 <アンブロジアーアナ絵画館>

 そんな話をしたら、ミラノの古い友達が、サン・マウリツィオに行ったかと聞かれた。知らないと答えたら、ローマ・ヴァチカンのシスティーナ拝堂に引けを取らない16世紀、ルネサンスのフレスコ画の殿堂だと教えたくれた。興味を惹かれて行ってみようと、カイロリでメトロを降りた。スフォルチェスコ城の最寄り駅だ。ダンテ通りで、工事をしていた人に聞いたら、一本隣の道を行けと教えてくれた。ミラネーゼによく知られた教会らしい。

 カイロリから10分も歩いたか、ちょっと不安になって、通りすがりの中年の女性に再度訊いたら、隣だから教えてあげるといわれて、ついていった。



 <外観>

 外観はロマネスク建築様式の、地味な変哲もない白い教会だった。えっ、ここなのと、扉を開けて内部に入ったら、天井、左右の壁、正面の全面を埋め尽くした、フレスコ画に圧倒された。これがサン・マウリツィオ教会だった。

 ここは、8世紀くらいからの教会で、16世紀になって、ルネッサンンス時期にダヴィンチの影響を受けたベルナルディーノ・ルイーニを中心とするロンバルディア・ルネサンス派のフレスコ画で飾られたと、案内のヴォランティアのおばさんが親切に教えてくれる。イタリア語で反応したら、表情か柔らかくなった。イタリア人は、イタリア語を話す外国人にとても親近感を持つらしい。表情がコロッと変わる。入場は無料。



 <主聖壇の全面>

 ヴォールトを含めて、全面を埋め尽くすフレスコ画に圧倒されて、見入ってしまった。入ったところは、一般の人が入れる公的な教会部分で、その裏側には女性修道院のままの別のホールが広がる。つまり、この建物は、完全に独立した二つの空間から成り立っているのだ。昔は、この二つのホールは壁で仕切られて、修道院と教会に分かれていたのだが、いまは主聖壇の左に小さな通路が作られていて、人が通えるようになっていた。



 <修道院サイドの全面>

 僕には、表の教会の公の顔よりも、裏の修道院を飾る絵の方が美しく、優しく見えた。中でも、ベルナルディーノ・ルイーニが描いた聖カタリナは、ラファエロの聖母にも劣らない優しさで、僕を迎えてくれた。



 <優しい聖カタリナ>

 同じく、ルイーニの最後の晩餐も眺められる。



 <ルイーニの最後の晩餐>

 ヴォールト様式がよくわかる裏側には、1500年代に作られたパイプオルガンもあり、今も演奏されているようだ。このオルガンを作ったのは、ミラノのドゥオモの大パイプオルガンを作った人らしい。



 <パイプオルガン>

 ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂には、スケールも、迫力も劣るけれど、これはこれで、立派なミラノの誇れるフレスコのモニュメントだ。

 どのくらいの時間、このサン マウリツィオいたか定かでない。無意識の時間が流れていたようだ。外に出ると、7月の暑さが襲ってきた。



 <水飲み場>


 カイロリに戻る途中に、小さな木立の小公園があった。30℃を超える暑さの中では、水は欠かせない。鳩と一緒に、ミラノの水飲み場で、冷たい水を飲んだ。



 <木立の中の本屋>

 ホッとして周りを見たら、木立の中に古本屋が店を開けていた。こんなところに…と思いながら、眺めていた。なんだか、奥が深い街だ。


変わったミラノ、変わらないミラノ

2016-11-20 | 2016 イタリア


 4年ぶりにミラノで、3週間過ごして感じたことを書いてみる。(2016年)



<EXPO 2015>*

 全体的には、変わったことがたくさん目についた。まぎれもなくEXP2O015の後遺症のようでもあるし、自然な変化でもある。EXPO2015では、人口7千万人のイタリアの中の一都市、ミラノに2016年5月からの6ヶ月間に2千万人を超す人が世界中から集まったわけだから、変化の起爆剤になったと想像できる。人気のパビリオンには、10時間待ちなんて行列ができたことはざらだったようだ。インパクトが大きかっただろうと思う。
 
 僕自身は、本当は2014年に再訪する予定だったのだが、アリタリアのチョンボで、成田~ヴェネチアが世界最長の15時間フライトになったあおりを受け、心臓君のご機嫌が心配で、ドクターの言うことを聞いて中止した経緯がある。翌年と考えたが、それはEXPO2015とバッティング。人込みと混乱は容易に想像できたので、結果として今年になった。

 地元の新聞によれば、昨年のみならず、今年もローマを抜いて、観光客はミラノに流れているようで、世界中から人を集めているようだ。ミラネーゼたちが、自慢げにふるまっているのも分かる気がする。



<古いオリジナル・フィアット500は貴重>

 ミラノが変わったのを見ることは簡単。街の路上駐車の車たちを見れば一目瞭然。4年前に比べて、車自体が新しく、質が良くなっている。従来のイタリア車のフィアットが中心ではなく、格段にドイツ車が増えた。しかも、メルセデス、BMWが増えただけではなく、アウディ、ポルシェまで、押し合いへし合いで路上駐だ。ミラノの中心街だけではなくて、僕の住んでいた下町に当たるコルソ・ブエノス・アイレスの裏の道でも同じ現象が起きている。みんなが金持ちになったのだろう。

 かって、ミラノで観光客のため英語で車内放送をするなんてことは、ユーロスターみたいな国際特急以外では聞いたことがなかったのだが、メトロでは次の駅名まで英語放送していた。トラムでは、停留所の案内をやっていた。EXPOのお陰だといえる。外国人、特に目立ち始めていたのは、東南アジアとか中東からの観光客だ。彼らにとっては、英語は助かるはずだ。

 地域ごとキレイになっていた場所もある。



<ナヴィリオ運河>

 ナヴィリオ運河とダルセナ港が劇的にきれいになっていた。ナヴィリオ運河では、ティチーノ川からの豊かな水量を引き込み、水の流れが出来て、水草も揺らいでいた。浚渫もして、流れがスムースだ。昔みたいなドブ臭さは全く感じない。ダルセナは、もともとはミラノの港で、一時は有名な市民の大型ゴミ捨て場になり、泥で水は干上がり、またロマ人のキャッピングカー住処にもなっていたのだが、EXPOに向かって、ミラノ市がロマ人を追い出し、ごみを片付け、浚渫してナヴィリオ運河から流れを引き込んで大きな水面を作った。いまでは市民の遊び場となって、夏の間はボートを浮かべて、楽しんでいるようだ。



<ダルセナ ミラノの港>*

 地域開発で目に付いたのは、旧ガリバルディ駅の周辺のポルタ・ヌオヴァ地域。もうせん、だだっ広い、使用目的もなく放置されていた広大な土地に、新しい街を作っている。継続的に、このプロジェクトは進められているようで、日々変化している。前のブログでも紹介したが、超高層アパートのビル、二棟を「縦の森」と定義して、各部屋に林が作ってある。縦方向の森としてデザインしたすばらしいビル。昨年の世界で一番美しいビルとして、この女性の設計者は称賛されている。



<縦の森>*

 ちょっと離れているけれど、近い地域にウニ・クレディトのガラス張りの奇妙な形をしたビルや、日本人が設計したイソザキが立ち、日本の国立競技場の設計で名を知られたハディドさんの設計のよじれたビルも竣工に近いようだ。



<ハディドビルと、イソザキ>*

 こうした新しい街はミラノ市が計画し、広い面として開発しているのを見ると、日本ではなんと都市デザインというものが遅れているのだろうかと思い知らされる。

 悪い例は、旧汐留操車場後のシオサイト。無節操なバラバラの設計の単一ビルが、無秩序に立てられ、地域としての統合的な魅力はない街になっている。一説によると、この汐留の乱暴なビル群の影響で、埼玉県中部、深谷とかの猛暑の原因、フェーン現象を引き起こしているとも言われている。品川の海側の開発も、同じく全体としてテーマもヴィジョンもないバラバラの高層ビル群になっている。美しくもない。

 東京都は、汐留操車場跡をどのようなマスタープランで開発許可を出したのか疑問だし、もともとマスタープランなど持っていなかったのかもしれない。2020オリンピックの神宮外苑のマスタープランも、あの体たらくを見ていると、英知を集めて作られたとはとても思えない。日本人は「点」のデザインしかできないのかと、悲しくもなる。東京都は、パリのラ・デファンスぐらいは勉強してほしい。日本での唯一の例外は、横浜のみなとみらい地域くらいのものか…。

 食事についても、ミラノのレストランの考え方は変わってきていた。従来、イタリアのレストランでは、自分が注文したものは、自分が責任と権利をもって食べるという不文律があった。それは、一皿は一人の客のために作っているからだ。ピッッツアも同じ。切り分けて他の人とシェアするということは、常識から外れていた。どうしてもいろんなものを食べたければ、「味見の一皿」として少しずつのアンティアスティを頼むことが出来るくらいだった。


 しかし、今回は遠慮がちにとりわけ皿をと頼むと、平気でもってきてくれる。客の方が、胃が小さなもので、と言い訳をしなくてはならないくらいだ。たくさんの外国からの観光客に接して、シェアということを許さざるを得なくなったのかもしれない。



<コルソ・ブエノス・アイレスのリマ駅>

 既存の町も変わりつつある。僕の好きな下町、コルソ・ブエノス・アイレスには悪い変化が押し寄せてきていた。従来の個人商店、対面販売の店がなくなり、有名なブランド店にとって替わられていた。その波は、ポルタ・ヴェネチアから始まり、リマあたりまで、侵蝕が見える。ある意味では、下町のモンテナポレオーネ化が進んでいるようだ。まるで、東京の銀座を見てるようだ。

 しかしどっこい、店に入れば、スーパーの中も含めて、従来のように肉屋、魚屋、サルメリアは、お客さんの注文を聞きながら、目の前でさばいて必要な分だけを売ってくれる。まだ個人商店もあり、対面販売で客と店主との会話が健在だ。懐かしい風景が残っている。



<個人商店の対面販売>

 この波は、今はリマあたりで止まっている。懐かしい街の雰囲気が、ロレートあたりまで残っている。この下町の雰囲気が、ずっと残ってくれるといいのだが。もう再びこの道を歩くこともなかろうから、願うこともないのだろうが…。




P.S.
*のついた写真は、Corriere della Sera の記事からお借りしました

ガレリアの上からの眺め

2016-11-06 | 2016 イタリア



 ミラノと言えば、ドゥオモ。そして、ヴィットリオ・エマニュエルのガレリアが有名だ。僕もミラノに行くたびに必ず訪れている。ミラノに帰ってきたという実感を、僕が持つために必要な儀式だ。今回も、ミラノ滞在の最初の日と、最後の締めになった。



 <ガレリア入り口>

 今回、ガレリアの異空間を見ることが出来た。「コリエーレ・デラ・セーラ」というミラノの新聞の電子版を、日本で毎日眺めている。そこで拾った記事が、今回の新しい体験の切掛けになった。

 ミラノを訪れる日本人の99%の人が、ミラノのガレリアは見ているに違いない。しかし、この異空間のガレリアを見たことのある人は、まだ少ないと思う。日本の最新のガイドブックにも、まだ載っていない。

 この新聞によると、EXPO2015に合わせて、この新しいガレリア・ルートが作られたとある。普通はガレリアと言えば、鉄骨とガラスでできたドームの下から、東西南北に走る回廊の天井と、その下のミラノの超有名店を見ていることになる。しかし、今回のガレリア・ルートは、上からガレリアが見られるという。次にミラノに行くことが出来たら、絶対に歩いてみたいと思っていた空間だった。



 <ガレリア内部>

 僕がミラノに着いた翌日の時差ボケの日、ガレリアの中央に恰好のいいお巡りさんが2名いて暇そうだったから、ガレリアを上から見られる通路があると聞いたのだが…と訊いてみた。答えはすぐに帰ってきた。ガレリアの中心から、西へ向かって、最初の角を左に曲がって100mも歩けば、左側に入り口があると教えてくれた。すぐわかるよと付け加えて、笑ってくれた。

 あった。しかし、そこにはSeven Stars Hotelとある。ドアを開けて、コンシエルジュにガレリアの上を歩きたいのだが…というと、ティケットを差し出してくれた。エレベーターで、最上階まで登る。ドアを開けたら、ガレリアの上に出た。

 ちょっと目算が狂った。僕はガレリア内部の上のほうから、目の下にガレリアが見られると思っていたのだが、ガレリアの屋根の上だった。だからガレリアの内部は見られない。ガレリアの内部を歩いている人とか、ライオンの局所の上でくるりと回っている人などを、上から観察したかったのだが、それはできなかった。しかし、そこには異空間のガレリアが広がっていた。



 <ガレリアの上の通路>

 ガレリアの上に、鉄製の通路が作られていて、そこを歩くわけだ。

 普通は見えない角度からのドゥオモ広場とか、ガレリアの上からのアルプスとか、ドゥオモとかが、新しい視角で見ることが出来る。



 <ガレリアの上からのドゥオモ広場>

 驚いたのは、鉄でできたガレリアの中央のクーポラがとても傷んでいたことだ。こんな痛々しいガレリアは予想していなかった。びっくりした。早急に修理を開始しなければ、もっと傷が深くなると思った。クーポラの基部に鉄の錆が出ているのだ。これはまずいや、と言葉が出た。



 <中央のクーポラ>

 ガレリアの上を歩き回ってみることが出来た。みんなが見ているガレリアに合わせて、ほとんど同じ通路が屋上に作ってある。今、ガレリアのどのあたりを歩いているのかは簡単に分かる感じだ。



 <ドゥオモの姿:遠景>

 こんな高さでドゥオモを見たことがない。すごい体験だった。帰りのエレベーターは、五つ星のホテル、Seven Star Hotelの内部にあった。ちょとどぎまぎしながら降りたらフロントがにっこり笑ってくれた。

 ガレリアに行くと、必ず行く店がある。それは本屋さん。僕が初めてミラノに来た47年前からある店だ。ガレリアの中は高級な店ばかりで、僕が入れる店は限られている。その数少ない店の一つ、Rizzoliだ。懐かしくて、ミラノに来たら必ず寄ることにしている。



 <座り読みをする人たち>

 店の展示も楽しくなっていた。しかも、昔は禁止されていた立ち読みが、堂々とできるつくりになっていた。



 <新感覚の展示>

 毎年のガレリアへの出店審査で、この店が合格し続けることを祈って外に出た。この毎年の出店審査で、数年前にマクドナルドが、ガレリアから追い出されたのを思い出した。それほど、ガレリアの中に店を持ち続けることは大変な事なのだ。もちろん、観光客の波はそんなことは知らないで、ガレリアの中を流れている。



 <手元にあるオックスフォード伊英辞書>

ミラノの犬

2016-10-23 | 2016 イタリア

 3頭のシュナウザーと30年以上を過ごしてきたから、犬にはとても興味を持っている。残念ながら、僕の生活は心臓君のご機嫌次第だから、4頭目をブリーダーから勧められたが我慢している。でも、犬には自然に目が行ってしまう。なんだか自分が、犬のストーカーのように感じることだってある。



 <チェルト君>

 だから、ミラノでも、目は自然と犬に行く。



 <犬も人と同じ場所で水を飲む>

 ミラノの街で目に付くことは、飼い主と1対1だとノン・リーシュ(リードなし)で歩いている仔がいっぱいいる。飼い主(この言葉も適切ではないと思う)以外には、まったく興味を示さないで、ご主人に一心に注意をはらっている。僕が声をかけても、アイコンタクトもしないで、すたすたと通り過ぎる。写真を撮らしてもらう暇もない。



 <一人のマルチーズ>

 犬と犬の関係も、日本とは全く違う。ノン・リーシュで歩いていても、知っている犬とは軽く挨拶しているようだけれど、見知らぬ犬とは、アイコンタクトを避けているのがよくわかる。スッとすれ違うのだが、その距離感が微妙にコントロールされている。それが犬の社会の常識のようだ。日本の町でのように、ワンワン吠え合っているような場面に出くわしたことはない。そんな吠え声も聞かない。

 周りの人間も犬に手を出したりはしない。犬の存在がミラノでは当たり前になっている。街中はもちろん、メトロにもトラムにもエレベータにも乗ってくる。バールには犬が主人と一緒にいるし、大部分のレストランに、ワンは入れるのが当たり前。基本は、何でも飼い主と一緒ということだ。



 <ゴールデン>



 <店の中>

 そんな風景を見ていると、その根底に犬に対する考え方の違いがよくわかる。彼らは、犬は「飼う」のではなく、家族の一人として犬を迎えている。飼っているというのは上から目線だが、イタリアの家族にしてみれば、犬と一緒に生活するのだから、仲間目線。彼らは、ブリーダーから直接、もしくはシェルター(犬の保護収容施設)から受けだし、家族として引き取ってくる。



 <シェルターからの新しい家族>

 イタリアでは基本的に、生まれて3か月間は、その犬の家族と一緒に過ごさせるのが一般的だ。この間に、お父さんワン、お母さんワン、兄弟ワン、おじいちゃん、おばあちゃんワンなどから、犬語で教育を受けているようだ。犬として必要な社会性は、こんなところで受け継がれ、育てられていくのかもしれない。

 その後は、人間社会の一員としての必要な教育、しつけは家族の責任。しつけられていない犬を連れていたら、その人が蔑まれるようだ。飼い主ではなく、犬も含めた家族、つまり、群れのリーダーとしての家族に対するしつけとして、ワンにも教育が必須。ヴァカンスの旅行に一緒に行くのは、何の不思議もない。残念ながら、海の砂浜には、ワンは一緒に入れないこともあるようだが…。



 <ドッグラン>

 逆に言えば、他人に自分のワンを触らせるなど、余程のことがなければ、リーダーはそれを許さない。考えてみれば日本でも、自分の子供に無断で手をだしてくる他人がいたら、それには身構えるだろう。ワンは、人間の子供と変わらないと知っておかなくてはならない。

 ミラノの公園に行くと、ほとんどにドッグランがある。基本的には犬と飼い主と、ほかのワンの世界だ。人間も入れるが、飼い主さんに了解を得てから、触れたり、写真を撮ったりすることが出来るのだ。こんなところにも、旅人としての配慮が必要になってくる。



 <若い飼い主と子供>

 最近は、街で犬を売っている店を見ない。家族の一員の犬を得るには、希望の犬種を扱っているブリーダーで、ちびの時に目をつけて3か月たって引き取るか、シェルターから引き取ることが多いようだ。ミラノには、有名なシェルターが数多くあって、ボランティアが犬たちの面倒を見ている。そこから引き取られた犬たちが、たくさん集まって、年一回の一大フェスティヴァルも開催されるようだ。

つまり犬は、商品ではないということ。日本のように一頭ずつガラスの箱の中に入れられて売られているってことはない。それは、動物虐待に当たるようだ。珍しく、犬屋を見つけた。一頭ずつではなく、3匹がくんずほぐれつして遊んでした。



 <ネットの中に3頭>

 ミラノのワンたちは幸せだ。メトロの出入り口のところに、二頭が寝そべって邪魔になっていても、人々はそれを避けて平然と降りていく。ワンが当たり前の証拠だ。

 もちろん、常にミラノが犬にやさしいわけではない。犬を捨てる人がヴァカンスの前になると、うんと増えるといわれている。理由は、犬を連れては行けないところへ行くとか、連れてはいけない人たちが街に犬を捨てていく。アウトストラーダの入り口付近には、不幸な犬が7月に入ると増えるそうだ。



 <捨てられた犬>

 楽しい話をしよう。僕はシュナウザー一筋で30年間過ごしたから、ミラノでもシュナを探した。やっと、一匹だけ見つけた。ナヴィリオ運河のカフェの看板犬、クロエ、5歳。店主のマダムの了解を取って、写真を撮ったり、撫でさせてもらったりした。クロエはママには、べったり。しかし、遊びには一人で行く。車が来ても平気で、道端にうずくまっている。車が徐行して、何事もなかったかのように通り過ぎていく。



 <クロエのベストショット>



 <ママにべったりのクロエ>

 ミラノでシュナに出会えてよかった。こちらが幸せな感情になる。