M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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3.初めてのお使い

2014-11-26 | エッセイ・シリース

「初めての…記憶たち シリーズ」

 確かな記憶にある最初の僕の家は、岡山の山の中、城下町、Kの丘の上にあった。この丘の上には神社と、三つの寺と、幼稚園と、小学校と、高校と、昔の武家屋敷跡に小さな住宅地があった。あとはなんにもなかった。檀(だん)と呼ばれていたと思う。

 檀には駄菓子屋と文房具屋さん以外には店は無いから、買いものは下の町まで下りて行くしかない。親父は家をしょっちゅう空けていた。姉二人と、お袋と、おばあちゃんとの6人が、お寺の長屋門の10畳一部屋を借りて6人で住んでいた。風呂も、トイレも、水道もない、本当に一部屋だった。入口の外に小さなかまどを作って、そこで煮炊きしていた。

 普段はお袋か姉たちが下の町に下りて、買いものをしていた。その頃は、スーパーなんて便利なものは無く、各々の個人商店、醤油屋さん、乾物屋さん、日用品屋さん、惣菜屋さん、お酒屋さん、豆腐屋さん、お菓子屋さん、などが独立して店を開いていた。買い物は、この細長い町を横に歩いて、必要なものを買うわけだ。



 僕んちは、東京大空襲で東京・谷中で家が燃え、親父の家系のある岡山の山の中に疎開した。親父は洋画家で、こんな田舎に仕事は無い。戦後の混乱期に、油絵を買うというような物好きな人はいない。仕方なく親父はK高校で臨時の美術の先生をして、貧しい家族を食わせていた。

 貧乏だったから、金は無い。その頃、お豆腐屋さんは、朝早くから作業して豆腐を作り店で売り始める。それを、おかみさんたちが、朝餉のお味噌汁用に買いに来る。僕の家では、豆腐は買えないから、大体毎日、おからを貰いに行っていた。オカラは、タダだった。



 はじめの頃は、お袋か姉について、一緒に豆腐屋さんまで行っていたのだと思う。僕がまだ幼稚園生の頃。

 なんどか、ついて行っている間に道を覚えた。下の町の豆腐やさんまでは、家から片道、1km位あったと思う。行きは下り坂、下の町は平、帰りは登りだ。「行きはよい、よい、帰りは怖い」道だった。

 豆腐屋さんと顔見知りになって、幼稚園児の僕を覚えてくれた。

 ある日、おばあちゃんに言われた。Tちゃんも、もう一人でお使いに行けるよね…と。僕にはそれが、一人での初めてのお使い。買い物かごを持って、お寺を三つ、横に通り越して、急な石段を降りて下の町に着く。お寺の周りは、幼稚園にも近いから、よく道は分かっていた。でも、檀から階段を下りると、どっこい、僕は慣れていないチビだった。

 石段を下りて、細い、暗い路地を出ると、そこはバスも走る明るい町。お店屋さんが並んでいる。降りたら左と覚えていたから、左へと町を歩く。僕一人で、町まで下りたことはなかったから、きっとブツブツ、道順をつぶやきながら歩いて行ったのだと思う。

 右の方に「中橋」が見えたら、右に曲がる、と覚えていた。ああ、やっと着いたとうれしくなった。一人ボッチのお使いの半分が出来た。

 お豆腐屋さんは、今日は一人かと聞いて、オカラだねと新聞紙にくるんで渡してくれる。これで安心だ。後は帰るだけだと、ありがとうと言って店を飛び出す。早く帰りたいから、オカラの入った買い物かごを、宙吊りにしながら、来た道を戻る。かごはでかいから、チビの僕には普通には持てない。腕を上げて、かごの底が地面につかないようにしながら、歩いていく。

 きつい階段、50段くらいをやっとこさ登りきった。息は弾んでいる。後は、平な道を帰ればいいから、ホッとする。もうすぐ、家だ。



 しかし、二つ目の寺を通り過ぎようとした時、大きな犬が現れた。学校の前の駄菓子屋さんが飼っている犬だった。でかい犬は、怖かった。今の犬好きの僕とは違った。オカラの匂い、つまりお豆腐の匂いがするから、その犬は僕に近づいてきた。

 僕は走って逃げ出した。犬も走りだしたようで、後ろでペタペタと足音がする。はぁはぁと僕はいいながら、走る。犬もはぁはぁと付いてくる。怖いよと、泣きべそをかきながら走る。

 家の戸をがらりと開けて、僕は飛びこんだ。僕は顔に汗をかいていた。おばあちゃんが、どうしたと聞いてきた。犬に追っかけられた…というのが、やっとだった。

 オカラは、大丈夫だった。良かった。こうして、僕の初めてのお使いは終わった。

 お豆腐屋さんへのお使いは、それからも続けたけれど、それっきり、そのでかい犬に追っかけられることはなかった。

 自分でも、こんなことを、よく覚えているものだと思う。きっと怖かったからだ。

P.S.
こんな怖い思い出があるのに、僕は、その後、沢山の犬に出会い、ともに時間を過ごし、助けられ、そして、悲しい別れも経験しました。気がつけば、今では大の犬好きです。

近くのワンちゃんと仲良くなって、出会うのが楽しみな日々を送っています。
今日も,ココちゃん(ポインター)にあって、撫でさせてもらいました。
3.11にココは福島県の大熊町で暮らしていました。しかも福島第一原発3キロ圏内。
みなしご救援隊に救われ、横浜の温かい家庭に迎えられた5歳の女の子です。かわいいです。

徳山神社の紅葉

2014-11-18 | お知らせ



僕の祖先が祭られている、岡山県の山の中、蒜山の上徳山にある徳山神社の紅葉です。
この徳山一族は、1200年代まで溯れる古い家系で、今もご本家があります。

この写真は、「蒜山の亀さん」のブログに載っているものです。
流用はオーナーから、了解を得ています。
こちらが、亀さんのページです。
http://blogs.yahoo.co.jp/bfpjh0442000/archive/2014/11/17

お知らせまで

2.初めてのブランコ、肥後守、そして橇(そり)

2014-11-12 | エッセイ・シリース

「初めての…記憶たちシリーズ」


 僕が幼稚園に入ったのは、たぶん1947年、僕が5歳の年。

 岡山の山の中にしては教育の仕組みが進んでいて、戦後2年でもう公立の幼稚園があった。そのおかげで家以外の世界、団体生活を経験したことは、その後の僕にとってはとても良かったことだった。他の人たちとの付き合という訓練のスタートが切れたわけだから。

 じゃあ、幼稚園で何をやっていたかいうと、全く覚えていない。

 覚えていることは一つ。ブランコが気に入って、より高く、より高くと、遠心力の限界まで漕いでいたことだ。夕暮れ、もうみんな家に帰っても、僕は一人、夕やみの中でブランコを漕いでいた。より高くより高く。しかし、ある日、やりすぎて気持ちが悪くなって止めた。ある意味では孤独だったのかもしれない。



<ブランコ>

 家に帰っても、楽しいことがあるわけではなかった。10畳一間に、父、母、姉二人、祖母と僕、6人が住んでいたのだから…。門長屋の一室。室内では火が使えないから、家を出たすぐの門の下に小さなかまどをおばあちゃんが起こして、そこで煮炊きをしていた。

 おもちゃは買えないから、みんな手作り。

 その頃は、肥後守という折り畳みのナイフが一本があれば、たいていのものは作れた。



<肥後守>

 木を拾ってきて、のこぎりで大体の形を切り取れば、後は自分の肥後守で形を削り出していく。桐の木は柔らかくて削りやすい。そうやって、海に浮かぶ船を想像して、船を作った。裏の池に浮かべて、友達と競った。

 裏山の林の中に、むかし木を切り倒して引っ張って運び出したスロープが残っていた。周りにはコナラの林があって、ドングリがいっぱい落ちていた。この坂は、てっぺんから下までは、きっと50m以上はあっただろう。

 最初は普通のそりですべっていたのだけど、もっと面白くしようと、そりを二台つないだ。前のそりはハンドルのためのもので、小さく作り、後ろのそりは大きく座れるように作った。この二台を木の棒でつなぎ、前の方は自由に角度が取れるように回転できた。後ろのそりには、両サイドにブレーキになる自由に動く木片をつけて、手で引けばブレーキになった。



<手作りの橇>

 そりが地面と接するところには、青竹を切ってきて、割って、スキーのようなものを作り、火にあぶって、その先端を曲げた。これを打ち付けると、そりはさらに加速した。

 こうした工夫で、その坂は橇の格好の滑降場になった。仲間の子供たちと集まって、スラロームとスピードを楽しんでいたのだ。もちろん、運転を間違えれば、そりから放り出されて、手や足をすりむくことだったある。でもそれが、男の子の遊びだった。

 ドングリが雪の役割を果たして、カラカラいいながら、僕はすごいスピードで橇を走らせた。子供たちの歓声がいつもあった。



<モダンな橇>

 このコナラの林の中に、僕達はササのやぶを切って、小さな隠れ家を作り、陣地だと言って遊んでいた

 なんでも自分で遊ぶしかなかった頃だ。懐かしい日々。忘れない。

 今の子供たちは、どうやって遊んでいるのだろうか。親から、外から、与えられたものではなく、自分で作って遊んでいるのだろうか…。

 肥後の守は使えるのだろうか。親は、危ないとか言いそうだけど…。

 なんだって、やればできるさ。作る楽しみと、遊ぶ楽しみ、友達との競争の楽しみ、なんかを手に入れられるのだから。