M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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美しくなくなった車の顔

2018-11-18 | エッセイ


 最近、運転していてバックミラーを見ると、ギョッとすることが多くなった。



 <トヨタ・ミニバン>

 後ろから、金歯ならぬ「銀歯」をむき出しにした車が迫ってくるからだ。気をつけて見ていると、ミニバンが多いようだが、それだけでもないらしい。流行りのSUVでも、セダンでも、軽までも、同じ傾向がみられる。

 僕の借りている駐車場を見渡してみると、そのことが分かってきた。なぜこんな顔になったのだろうと疑問なものもある。美しくない顔のデザインの車が、結構多いのだ。実車を写真に撮るのもなんだからと、メーカーのHPで検索してみると、なんと、美しい車が少ないことか…。もちろん、持ち主の好みだから、僕がとやかく言うことではないが、とにかく美しくないということは明らかだ。車のフロントは人間でいえば、顔だと思っている。大切な顔だ。



 <トヨタの4モデル>

 銀歯をむき出しにした車が多いいことと同時に、ガンダム顔の車が多いことだが目立つ。ガンダム顔の車には、ガンダム世代と言われる40代から50代前半までの世代が大きく貢献しているのではないかと考える。

 メーカーのHPを探してみると、トヨタが一番多いが、日産にも、ホンダにも、同じ傾向がみられる。サンプルをいくつか見てみればそれがわかる。



 <トヨタX2と日産X2モデル>

 別の観点としては、ドイツ・アウディで活躍した日本人デザイナー、和田さんがデザインしたオリジナルの「シングルフレームグリル」の影響を強く受けているようにも見える。



 <アウディのシングルフレームグリル>

 これと、日本独自の歯むき出しの威圧的な押し出しとが融合して、ガンダム車が、日本の車の主流になっているように見える。そして、残念ながら、それらは美しくはない。

 ガンダム世代は車のメーカーの中心的実力者だろうし、購入する車を決定することのできる買い手の年代と相まって、こんな現象が生まれているのではと、そんな推測が僕の頭の中で出てくる。

 ただこの現象は、日本車だけではないようで、ガンダム車はヨーロッパにも結構いるようだ。ドイツでは、BMWもその部類に入るし、最近のメルセデスも、なんだ、お前もかの傾向にあるようだ。和田さんがどこかで言っていたように、他社にも影響を与え、フロントマスクのデザインのひとつの定番になったようでもある。幸いフランス車とイタリア車には、この傾向は少ないように見える。



 <BMWのガンダム>

 日本車の中には、こんなのによく乗ってられるなあとさえ思えるデザインのものもある。どこかで、日本の車のデザイナーが自己弁護して言っていた言葉を思い出す。空力デザインを極めると、ボディ・シェルはだいたい同じものになっていくと言うのだ。他社と同じ車を作ってどうする。全く、だらしないとしか言いようがない。なんとしても、デザイナーこそは、個性的でなくてはならないと思う。

 車は、単に車として存在しているのではなく、都会の風景、山の風景、海の風景、里の風景、そして、春夏秋冬の天候とまで溶け合って存在しているものだ。ぽつんと異質なものを存在させても、まったく意味のないことだと思う。例えば、パリの街角には、パリの石畳の道に溶け合った車がある。イタリアの田舎には、イタリアの田舎らしい小型の個性あふれる車がいる。

 このまま、独善的にガンダム車を作り続けていくと、どこかで、ヨーロッパ以外の国のデザイナーの後塵をも拝することにもなるのではないか、と余計な心配をしている。

 口直しに、僕が好きな、美しい車の顔を紹介しよう。1970年代のくるまの顔たちだ。



 <BMWの3シリーズ>





 <アルファの1970年代X2>

 人間味があふれて、かわいいではないか!

 ちなみに、イタリア人デザイナー、ジウジアーロの1970年代のBMW M1を紹介しよう。どう見えるかは、お任せします。



 <BMW M1>*



 P.S.
 クレジット情報*
 これは、Softeisさんの「BMW M1」をお借りしました。
 ライセンスは、Creative Commons 3.0

来年のカレンダー

2018-11-04 | エッセイ



 僕にとっては、今年はオマケの時間。39歳の時に心理学の演習で、僕の人生は昨年(2017)で終わると自己予言をしていたからだ。やはり、オマケだったようで、1月から調子が悪く、4月には突然、足がしびれ、足の指の冷え、そして痛みが出るようになった。数えてみたら今年の1月から9月末までに、49回も病院やクリニックに通っていた。

 やっと10月になってすこし体が許してくれたので、今年初めての銀座へ。今年、4回目の外出ということになる。体調は完全ではないから、ゆっくり歩くという条件付きだ。




 <銀座4丁目>

 今年、楽しみにしていた予定でキャンセルになったのは、1月のI社コンサルグループの創立メンバーの同窓会、同じく、関東学院大の「講師を囲む会」を提案し、開かれることになったが、残念ながら風邪で言い出しっぺの僕が欠席。4月の初恋の女性画家が出品しているモダンアート展、その帰りの決め事になっている浅草の飲み屋のおかみさんにも会えずじまい。さらには、毎年必ず見に行っていた5月のマリオンの「イタリア映画祭」もチケットまで買ってたのに体調が許してくれなかった。そんなこんなの悔しい思いの前半だった。

 銀座に出た目的は、伊東屋で来年のカレンダーを買うためだ。伊東屋・本店では毎年、10月になると翌年のカレンダー展を始める。月めくりのカレンダーは横浜でも良いものも見つけられるのだが、二か月めくりのカレンダーはそうはいかない。有隣堂を探してみても、見つからない。それで、銀座まで出かけることになる。



 <伊東屋>

 電話などでスケジュールを決めるとき、翌月までのスケジュールをパッと一覧して、間違いない日を約束できるので、毎年、二か月めくりを捜し歩くのだ。一昨年、伊東屋で見つけているので、今年も売り出しを確認して、久しぶりに出かけた。伊東屋でも、二か月めくりは点数が少なくて、なかなか、これというのは少ない。なんとか、妥協できるものを見つけて購入した。

 久しぶりの銀座だから、いろいろ発見もある。

 昔からの店は減っていく一方で、有名なブランド店が、中央通りを埋め尽くしている。もう、個性豊かな店を、冷かしながら歩く銀座とはいかなくなった。三越の隣の元木は、細々と店を続けているが、客の入りも少なく、よく頑張ってるなあと思いながら入ってみた。店の中を一通り見ていくが、僕の予算内ではピンと来るものがない。心の中で、がんばってくださいとつぶやいて店を出た。

 今回、残念なことがあった。



 <煉瓦亭のある通り>

 昼飯を食おうと、和光から一本入った道で、蕎麦屋のきだを探したが見つからない。煉瓦亭の隣のはずだと、行ったり来たりして探してみたが見当たらない。店があったと思われる場所が工事中となっていたので、もしかすると無くなったかなとも考えた。



 <きだ>

 銀座に残った数少ない蕎麦屋のなかで、蕎麦のうまい店だった。狭い店で、テーブルが5つ位しかなく、だいたい10人くらいでいっぱいの感じの店だった。細長い作りで、のれんの陰の大将の顔は見たことがない。接客は年寄りの女の人が一人でやっていて、愛想など全くなく、少し陰気な感じの店だった。蕎麦が旨かったから、なんとか銀座で店を持ちこたえていたのだと思う。

 帰って調べてみたら、きだは、昨年(2017年)4月に閉店したとあった。残念な発見だった。客が残した口コミでは、結構高い評価を得ていたのに…。昨年のイタリア映画祭で、よしだ屋に行ったのが間違いだった。永久に、きだの蕎麦は食べられなくなった。残念。

 大倉商事のビルを眺めていたら、ふっと新しいビルに気が付いた。これは発見だった。



 <遠景のデビアス>

 デビアス(De Beers)が建てたガラスの面がしなやかな曲線をえがく、よじれた形のビルだった。店のHPによると、「女性のシルエットを表現したものだ」とある。高級ジュエリーの店のようだ。類を見ない形のこのビルは、銀座には似つかわしいかもしれない。しかし、入ってみる勇気はない。



 <デビアスのビル>

 いつものように、為永画廊によって見た。画家は香港の画家で激しい色使いが売りのようだが、僕のテイストには合わない。常設のシャガールと、ルオーの小品で、なんとか「口なおし」をして、店を出てきた。



 <Tamenaga画廊>

 ギャラリー「車6735」は、今回はパスした。ここは、超高級外車(数千万以上)の中古販売をしている店で、展示しながら委託販売をやっているという珍しい店だ。もちろん僕には手が出ないが、ウインドウ越しに見たアストンマーチンのうずくまった美しいフォルムは存在感があった。

 仕方なく、よし田で鴨せいろを頼む。蕎麦の味は変わってはいなかった。よかったと、息を吐く。

 レモンサワーと焼き鳥で…と寄ってみた有楽町のガード下のもつ焼き屋は、ちょっと早すぎた。まだ準備中だった。残念。



 <ミッドタウン日比谷>

 久しぶりに、日比谷に向かっていたら、日比谷ミッドタウンに出くわした。この一帯も、映画館だらけの東宝の一角だったが、まるで変っていた。疲れたので広場のベンチに座っていたら、映画の宣伝用の巨大なスクリーンに動く絵が見えた。カメラが動いているんだと分かったから、自分の映像を見るために、スクリーンの真ん前でカメラを構えて自分の姿を撮った。



 <自分の映像>

 面白いもので、僕が行動すると、そこに座っていた人たちが、急に僕と同じことをし始めた。そんなものなんだと、日本人の習性を読んだつもりでいたら、さっきまで隣に座っていた白人のカップルも自撮りならぬ、自分たちの映像をカメラに納めていた。なんだか、ほっこりして、駅に向かって歩き出した。

おかげで、久しぶりの外出は楽しいものになった。足は何とか、がんばってくれた。後遺症はない。