M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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ルーツの村の秋だより

2015-11-14 | エッセイ

 中国山地のど真ん中、岡山県と鳥取県が接する岡山県蒜山上徳山に、僕の家のルーツがある。岡山市で瀬戸内海に流れ出る旭川の水源地の村、山奥の旧川上村上徳山だ。



 <蒜山ICの徳山神社>

 この近くの茅部野に、蒜山の四季をブログで流してくれるネット友達、「蒜山亀さん」がいる。この人のブログを見ていると、僕のルーツの村の様子が分かって楽しい。

 もうせんは、岡山から旭川に沿って3時間半もかけて、車で120kmを北上したものだが、今は、米子・鬼太郎空港からレンタカーで米子道を走ると、蒜山ICまで1時間とアクセスが楽になった。大山を見ながらのドライブとなる。

 そう、大山というと、おそらく大多数の人が、伯耆富士としての穏やかな山容を想いわれるだろうが、どっこい、大山は、そんな姿だけではない。確かに、米子側から見れば、富士山のような形だが、南からの山容はがらりと変わって、滑落する岩に削られた荒れた南壁がみえる。同じ山はとても思いもつかない荒々しい姿をしている。



 <米子からの大山>




 <米子道からの大山南壁、烏ヶ山>

 南壁の方が、男性的で荒々しく、山って感じだ。僕はこの荒々しい大山の姿が好きだ。

 「蒜山亀さん」のブログによれば、蒜山高原もひらけて、コンビニのセブンイレブンとローソンがそろって出店しているとか。ジャージー牛の飼育と、蒜山高原の観光開発が、この村を豊かにしてくれているのだろう。地域が活性化することは素晴らしいことだ。

 しかし、蒜山高原は観光客で潤ったからと言って、徳山家のルーツの、「天王」はどんどん人口は減っているようだ。3年ほど前に訪ねた徳山家のご本家、24代目(故)徳山博先生の奥様、M子さんは90歳で健在だ。時々、電話で話すが、村での生活には車は、なくてはならない。医者に行くにしても、買い物に出るにしても、役場に出かけるにしても、足としての車は必需品。90歳のいまでも、運転していると聞く。危ないからやめなさいとは言えても、現実に手助けをできるわけではないので、安全にとしか言いようがない。ちなみに、ご子息とその奥様、つまり徳山家25代目は二人とも現役の学校の先生だ。

 「亀さん」が、この秋の徳山神社の秋祭りの写真をブログに上げていた。



 <徳山神社の秋祭り>

 この話を徳山M子さんにすると、この天王の世帯数はどんどん減っているとのこと。藤原氏の流れをくむ徳山将監から600年以上続くこのも、10年くらい前までは17軒と聞いていたが、今は9軒と、まさに限界集落。みんな、分家、分家で、都会に出ていく人が多いようだ。



 <徳山神社の神輿>

 写真で分かる通り、お神輿はあるのだが、担ぎ手がいない。だから、元気な掛け声も聞こえない静かなお祓いだけとなる。徳山神社は、このの氏神様で、昔は氏子がたくさんいたようだが、今は、夢のまた夢。氏子総代の徳山ご本家は、毎年、丸いお餅をついて、供えることしか出来ないのが寂しいようだ。

 M子さんの懸案は、26代目の当主のあたる孫が、東京に住んでいて、本当にに帰ってきてくれるかどうかということだ。12世紀から続いた徳山家を、このから無くしては申し訳ないと思いながら、老いの時を過ごしている。



 <徳山家600年碑>

 先代の博先生は、そのことを気にされていたのだろう、先取りして、自分で600年碑を作り、徳山神社の近くの墓地に立てている。先をよんでいらしたのか、心配されていたのか、孫たちへのメッセージなのか、とにかく、歴史の碑は立っている。

 これからも、紅葉がさらに美しくなっていく山の中、天王の冬はもう近い。



 <天王の入り口>

 数年前、偶然、徳山神社のお祭りの時に、天王を僕は訪れた。黄花コスモスの咲く、天王の入り口に立つ自分の写真を探し出してみた。よく見ると、遠くに徳山神社のお神輿が写っている。なんだか懐かしい、しかしさみしい10月26日の秋祭りだ。



<大山の南壁、徳山神社の祭りの写真は、「蒜山の亀さん」の了解を得て、お借りしています :彼のブログにリンクを張っておきます>