goo blog サービス終了のお知らせ 

M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

コルソ・ブエノス・アイレス その2

2021-10-24 | エッセイ

 

<コルソ・ブエノス・アイレス 2012年 Public Domain>

 コルソ・ブエノス・アイレスは、1980年ごろから、どんどん変わってきて、僕が最後に訪れた2016年には、どこか伝統的な雰囲気は失われ、東京の銀座と同じように有名ブテイックが並ぶ街に変化していた。非常に残念に思ったものだ。

 その昔、買い物の品定めは、日曜日にみんなで下見をする、つまりウインドーショッピングをするというのはミラネーゼの行動パターンだった。だから店は日曜日でも、ショーウインドー(ヴェトリーナ)には明かりがつき、店は閉まっているけれども商品が見えるようになっていた。

<あるヴェトリーナ> 

 日本のように、味もそっけもないシャッターが下りているのではなく、入口の左右にショーウインドーがあって、真ん中が店内への入り口だった。だから日曜日で店が閉まっていても、また夜遅くでもショーウインドーにある商品を品定めする事は容易だった。店に入る時は、最終的に買うと覚悟を決めているというのがイタリアの礼儀だった。ものを買うと言う事はエネルギーの要る、時間のかかる、しかし楽しい行動の結果だった。

<他のヴェトリーナの例>

 さらにはコルソ・ブエノス・アイレスのみならず、イタリアの主要な町にある大きな通りでは、市民は夕食前に散歩にでる。イタリア語では、“パッセージャータ”に出かけてくる。それは昔からの仲間達と挨拶して、お互いに健康であることを確認する行為でもあったと思う。ちょっと、おしゃべりをみんなしたいのだ。

 もちろん、まだ食事にはならないので、アプリティーボと呼ぶ食前酒を、バールで傾けたりしながら人の流れを見ているという、しきたりに近い行事が週日は間違いなく行われていた。

<バール>

 夜もこんなに人通りの多い通りだから、当然夜の商売の女の人たちが、街角には結構立っていた。縄張りがあるらしく、同じ人が大体同じところに立っているのを見かけたものだ。これも通りの風物詩的なものでもあった。

 夕食は単身でいる時はすべて外食で、毎日ランブラーテ駅の近くのトラットリア、トスカーナで食事をしていた。食事については、どこかで書いているから繰り返しになるかもしれないが、日本のようにメニューを見て、すべてのものを最初にオーダーしてしまうというやり方ではなくて、ステップ毎に注文を訊いて、調理して、それをテーブルに届けるというやり方が一般的だった。

 まず、ワインと水とグリッシーニを注文して、一皿目、オードブル(アンティパスト)を食べながらワインを飲んで、「プリモは何にしようか、今日は」と考えながらゆっくり時間が経つ。スープかリゾットか、パスタでも食べるかと考えながら注文し、プリモが来て食べ終わると、自分のお腹の調子がよくわかる。まだ食べようと思えば、メインに移ることになる。そこでは肉か魚の料理を選ぶ。同時に付け合わせを選ぶ。注文と調理することが順番に行われるので、時間がかかるわけだ。

 でもその間、給仕人(カメリエーレ)とのやりとりがとても楽しいし、いろいろおいしいものを教えてもらえるチャンスでもあった。僕が「娼婦風スパゲッティ:スパゲッティ アッラ プットニエーラ」を教わったのも、クラウディオというカメリーエーレからだし、エミリア州のランブルースコというワインを知ったのも、クラウディオと親しくなって、僕の好みを彼が理解して、勧めてくれたのがこのワインだった。ランブルースコにも甘口と辛口があって、僕が飲むのは辛口(セッコ:ドライ)と呼んでいたものだ。甘口は、とてもではないが食事と一緒には飲めるワインにはならない。

<ランブルースコ・セッコ>

 僕がミラノ駐在中の生活はこれで終わりにして、その後について語ってみよう。

 

 アプリケーションのSEとして、30年勤めた会社を早期退職して、10年程仕事と平行して準備を進めていた二つ目の仕事、カウンセラーを始めた。そして自分の時間を自由にスケジュールすることができるように になった。

  それ以前も、仕事でミラノに何度か来たときは、コルソ・ブエノス・アイレスに出かけてみることがあったが、ほんの短い時間でしかなかった。

 イタリアへは、1996年からこれまで、ざっと3~4週間ぐらいの旅を、4回やっている。ミラノ・マルペンサ経由だから、ミラノとコルソ・ブエノス・アイレスをすっ飛ばすということはあり得なかった。

 最初の頃は、観光客として常にチェントロ(中心街)に5つ星ホテルを取っていた。しかし、中心街でのミラノの生活が、だんだんいやになってきて、最終的にはコルソ・ブエノス・アイレスに4つ星の宿を取った。これは大正解だった。

<コルソ・ブエノス・アイレスのホテル>

  急に、住んでいると同じような感じになって、スーパーに行ったりハム屋さんに出入りしたり、パン屋さんをのぞいたり、本屋さんをのぞいたりしながらの過ごしかたで、あまり外では食べなくなった。 食べたいもの買って、ホテルに持ち込んで、気楽に自由に好きなものだけを、好きな量だけ食べることができるようになって、自由を取り戻した感じになった。

<部屋での食事>

 チェントロには、手頃なスーパーがなくて、遠くまで歩いて重いワインや重い水を運ばなくてはいけなかったが、コルソ・ブエノス・アイレスに戻れば、気軽にちょいと行ってちょいと買って、ちょいと持ち帰れば、自分のベースで滞在ができるのを実感した。

 

<古い友人夫婦>

 50年近い付き合いのあるイタリア人のエミリオとエミリアの二人には、くたばるまでには絶対に会っておきたかったので、2016年にコルソ・ブエノス・アイレスで会った。その頃は元気だった奥様のエミリアは、その後2年ほどして持病だった無筋力症が悪化して、残念ながら亡くなってしまった。

 ミラノでエミリオ、エミリアと会うということは、僕のバケットリストに乗っかっていたが、なかなか実現できていなかったので、最後の機会に会うことができて本当にホッとしている。 今、エミリオは一人でモンツアに住んでいるようだけれども、子供たちや孫たちに囲まれて元気に生きているそうだ。 先日、Facebookで友達になっているエミリアの姪っ子がリポートしてくれた。

 イタリア語を忘れないようにと、毎朝、NHKのイタリア語講座を聞き続けている。もう一度、この通りに現れることは、病気のことも有り、ちょっと難しいかも…と思っている。

<NHKのイタリア語>


コルソ・ブエノス・アイレス その1

2021-10-10 | エッセイ

  僕がミラノに住んでいた頃も、その後も、しょっちゅう歩いていたコルソ・ブエノス・アイレスについて書いておきたいと思う。

<コルソ・ブエノス・アイレス wikipedia by G. dallorto>

 昔、コルソ・ブエノス・アイレスを車で走っていると、急に前の車がスローダウンして、慌てて僕がブレーキを踏むことになることが時々あった。その運転者の目的は、歩道を歩いている美しい女に声をかけるためだと、後でわかった。とりあえず、美しい女性を見たらば、声をかけるのはイタリア人にとっては当たり前。それを車を運転しながら実行していることに出会った僕は、ビックリしてしまうのは当たり前だろう。

 コルソ・ブエノス・アイレスとは、ミラノのある大通り。場所はミラノの中心、ドウオモからサン・バビラを通って、ボルト・ヴェネチアを潜って歩き始めると、ここから長さ1.6キロの商店街、コルソ・ブエノス・アイレスという庶民的な街に入ることになる。そして、この通りは、第二次大戦中のパルティザンの虐殺で有名になったロレート広場まで続く。

<ピアツァーレ ロレート>

 ミラノで日本人に有名な通りなら、おそらくドウオモから近いモンテナポレオーネや、スピーガ通りのブティックの並んだ街のことを思い出すに違いない。しかし、このコルソ・ブエノス・アイレスは、日本人にあまり知られた街ではない。

 コルソ・ブエノス・アイレスと言うと、どっかで聞いたことのある名前だと思う人がいるだろうが、実はこの名付けられたのは、昔1800年の終わりのころから1900年初めの頃、イタリア人がたくさん南米移民としてアルゼンチンに渡ったことに由来している。つまり1906年にアルゼンチンに捧げた名前として、正式にコルソ・ブエノス・アイレスと名付けられたようだ。コルソと言うのは大通りで、訳せば「ブエノスアイレス大通り」というふうに理解してもらえばいいだろう。

<1960年のコルソ・ブエノス・アイレス>

 この通りは、僕が1970年から2年間ミラノの駐在員として過ごした時期にお世話になった通りでもある。350軒以上の、ありとあらゆる商店が並んでいて、昔はすべての店が客と対面しながら商売をしていて、イタリア語をほとんどしゃべれなかった僕にとっては、買い物、そのものが大変な仕事だったと覚えている。今みたいにスーパーに行ってパッケージでポンと買うというのではなくて、店主と話ながら、何がどのぐらい欲しいか、どう使うかなどを話して、量を測ってもらって値段を交渉して、お金を払って、やっと買い物が終わるというわけだ。どちらかと言うと、人と人との距離が近い世界だったと言えるだろう。

<映画館:Puccini>

 この通りにはありとあらゆるショップがあったが、中でも僕の印象に残っているのは映画館だ。イタリアでは、外国映画も全てイタリア語に吹き替えられていた。問題なのは、映画見ている間中、イタリア人は友達としゃべくり、ものを食べ、感想述べ、ピーナッツの皮などを床に散らかしたまんまというような見方をしていた。こんなにうるさい中でも、映画をちゃんと見ていられるのだと、びっくりした。

<最寄り駅 LIMA>

 僕が住んでいたアパートへは歩いて10分、この通りの中間にあるリマ駅(もうお分かりの人もいるでしょうが、ペルーのリマからつけた名前)から直角に入る道をたどって、グランサッソ通りを横断して、ガロファロ通りのレジデンス・グランサッソが僕のミラノでの住処だった。地上7階建ての3階ぐらいの2 LDKの家具付きマンションを借りていた。まるでホテルのようで、ちゃんとレセプションがいて、リネン類も3日に1度ぐらいタオルも含めて全て取り替えてくれ、部屋の掃除もちゃんと担当の人がやってくれるというような豪華なアパルタメントだった。

<レジデンス・グランサッソ>

 地域のことをいっておくと、コルソ・ブエノス・アイレスは、ミラノのゾーン2で、僕の住んでいたガロファロ通りはゾーン3だった。この地域には、ミラノ工科大学とか国立のミラノ大学だとかが、たくさんの大学がある地域で、結果として若者が多い地域だった。チッタ・ステゥーディ(学生の街)と言う地域だった。当然、買い物といえば、基本的にコルソ・ブエノス・アイレスに出かけることになる。

 コルソ・ブエノス・アイレスの終わりはロレートで、ここで道はわかれ、一つはF1で有名なモンツアへ続く道、もう一つはコモ湖のレッコからスイス・サンモリッツに続く道、さらには東のベルガモへの道、この先にはヴェネチアを経由してイタリアの1番東の端、パルマノーヴァと言う小さな町に通じる道になっていた。

 ちなみに、ミラノには、古くから城門(ポルタ)が作られていて、ヴェネチア方面への門は、ポルタ・ヴェネチア、ローマ方面は、ポルタ・ロマーナ、同じくポルタ・ジェノバなどがある。

 レジデンス・グランサッソについて、もうすこし書いておくと、ここのオーナーは中年の女性だった。車は真っ赤なフェラーリだった。地下の駐車場の真ん中に止められていた。僕が買った最初の車になったフィアット850Sも、同じ駐車場の1つは入っていた。ミラノの冬は寒くなるので、朝、エンジンがかかりにくいため、ガレージは温められていた。

 もう一つは、なぜここに住んだかいうことだ。僕の会社はミラノの事務所が手狭になった結果、20キロ程の郊外の新しいサイトに移るということになった。そこに通う人たちのためのプーマンと呼ばれる大型のバスが出るアスプロモンテ広場に、レジデンスは徒歩 4分だったから非常に便利だった。

<アスプロモンテの犬専用広場>

 2012年に訪れた時、幸いにオートロックの門扉が開いていて、人がいたので、内部に入ることができた。その頃、フロントを務めていたエンツオーさんはグランサッソに今も住んでいるということだった。会っていくかって言われたけれども、別に話すこともないのでレジデンスの屋上まで登って、ミラノの下町の街裏の風景を写真に撮ってきた。何度も訪れているが、なかなか中に入れなかったから、この時は本当にラッキーだった。 

<屋上から眺めたミラノの下町>

 

その2に続く