M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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シドニーとその他の町

2015-06-20 | エッセイ



 移住先に選んだメルボルンのことは、もう書いたから、その他のオーストラリアの印象も書いておこうと思う。

 僕が最初に(1986年)オーストラリアに着いたのはシドニー。日本からクアンタスで9時間。屈強な男のCA(スチュワード)に睨みつけられながら到着して、座席でオーストラリアの防疫官に頭から消毒スプレイを掛けられた。とても野蛮な国だった。

 オーストラリアには、僕は3回、行っている。

 一度は、コンサルタントの仕事。オーストラリアのI社から依頼されての旅だった。この時に、シドニー、キャンベラ、メルボルン、名前も覚えていないいくつかの町(タクシーのような飛行機でしか行けない場所)、そしてI社の事業所があったワンガラッタ。

 二度目は、半分仕事で半分は自分の、アジア・パシフィック製造業IT学会でのシドニーとメルボルンの論文発表。

 そして、三度目は、住処を探すハウス・ハンティングの為のメルボルンで、これはまったくの私用。

 ホテルは、いつもリージェントだった。しかし、今は、メルボルンはソフィテルに、シドニーはフォーシーズンズに買われて名前が変わっている。

 首都キャンベラはコンサルのクライアントのある町だったから、いやでも、最初は挨拶と背景の説明を受けるのでキャンベラへ。最後もやはり、総括をしなければならなかったから同地へ。オーストラリアン・サルートの出迎えを受けたのはここ。羊が多すぎて蠅だらけ。顔に飛んでくる蠅を追い払う姿が、歓迎の為に手を振っているように見えた。決して、挨拶ではなかった。



 <キャンベラ>

 シドニーとメルボルンが張り合って、その中間に人工的に作った首都がキャンベラ。何にもない人口の町。国会議事堂から、オーストラリア政府庁舎など、全てが人工的だ。大噴水を除いて、全く魅力のない町だった。

 一つ発見があったのが、スパナー蟹(Spanner Crab=工具のスパナー、レンチともいう)だ。キャンベラのショッピングセンターのウインドーで見つけた。日本にはいない蟹だった。腕と爪が、スパナーの格好をしている。了解を取って、写真にとったけれど、美味いと言われたが食べてはいない。



 <スパナー蟹>

 シドニーは、オーストラリアで今は一番大きな街。メルボルンとその地位と大きさを張り合ってきた街でもある。18世紀の末にイギリスに発見され、植民地化されたオーストラリアだが、最初にイギリス人が住み着いたのがシドニーだと言われている。さらに、イギリスから囚人たちが、労働力としてたくさん運ばれてきたようだ。

 リージェントホテルから見るオペラハウスのあるシドニー湾は美しい。ハーバーブリッジも印象的だ。しかし、おおざっぱにいうと、シドニーは狭い土地に沢山の建物が建て込んで、まるで東京か、ニューヨークのマンハッタン、香港のようだという印象を持った。これはメルボルンとは大きく違った。



 <ハーバーブリッジ>

 ホテルはリージェント。一番印象的だったのは、ウエルカム・ティーの素晴らしさだった。まっしろのカップに、濃い赤紫の液体が入っている。ハイビスカスティーだった。甘酸っぱさが、疲れをすっと失くしてくれた。(日本でも探して、その後も、愛用させてもらっている)

 せまい街だから、市内はだいたい歩いて行ける。シドニーでは仕事をほとんどしていないから、楽しんだ記憶だけだ。国際的なコンピュータ利用の製造業学会で、論文発表した時に楽しんだわけだ。

 一番心を打たれたのは、クラシックなクイーン・ヴィクトリア・ビルディング(QVB)だ。えっと思った。まるで、ヨーロッパのアーケードのようだ。考えてみれば、イギリスの植民地だったのだから、そんなモールがあっても不思議はない。内部の装飾、4階建ての吹き抜けの大きな時計、個々の店の個性あふれるウインドーも楽しめた。

 そして、これと対照的なのがダーリング・ハーバーのコンヴェンションセンター。ここで学会が2日間にわたって行われた、モダンで近未来の建物。ホテルや、ショッピングセンター、食事が出来る店がダーリング湾に面してセットされている。QVBの近くから、オーストラリアでは唯一のモノレールで、シドニーを俯瞰しながら、短い旅が出来る。こんど調べたてみたら、2013年にモノレールは廃止されていた。残念。



 <コンヴェンションセンター>

 食べ物では、キングスクロスの怪しげな街を歩いてたどり着くBlue Angelのタスマニアで取れた伊勢海老だろう。彼らはロブスターと言っていたが、明らかにロブスターではない。大きな爪が無いからだ。Spiny Lobsterと言うのが、ほんとらしい。 

 客は、水槽に泳ぐ伊勢海老を選んで、刺身にしてもらう。この店では、珍しくわさび醤油で刺身が食べられる。日本人がオーストラリアで伊勢海老を食べだしてから、オーストラリア人も伊勢海老を食べ始めたようだ。イタリア人のウエイターもいる、陽気なイタリアンレストランだった。



 <ブルーエンジェル>

 あとは、日本I社の大先輩、KNさんの家に呼ばれた記憶。シドニーから電車で、北に20~30分で着くGordonのプールつきの自宅に呼ばれ、久しぶりの日本食をごちそうになった。

 実は、オーストラリアI社のコンサルの仕事の他に、KNさんが工場長をやっていたI社ワンガラッタ工場のコンピュータシステムと、オペレーションの構築という仕事を頼まれていた。KNさんに頼まれたのだから、やるっきゃない。生産技術の専門家と一緒に、短期間でPCの製造の為のシステム概要を設計した記憶がある。今、調べてみると、ワンガラッタにはもうI社の工場は無い。

 僕のオーストラリアへの移住計画は没になったが、オーストラリアは、やはり行ってみたい国だ。シドニーよりメルボルンのほうが、よりやはり懐かしい気がする。

もう一度行ってみるか…と思ったりもするが、9時間のフライトは避けたい気もある。心が揺れている。


P.S.
「住めなかった街 メルボルン その1」は、下記のアドレスから
http://blog.goo.ne.jp/certot/e/b580b5560d9ab51fdbf1b8bd822d3ff7
「住めなかった街 メルボルン その2」は、下記アドレスから
http://blog.goo.ne.jp/certot/e/6e9b463d610daa29b866ff5165532753


注:<ハーバーブリッジの写真は、flickrからGreg O’Brieneさんの“Harber Bridge”をお借りしました>
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスこの 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 2.5 一般 ライセンスの下に提供されています。

モダンアートと浅草

2015-06-03 | エッセイ

 毎年、必ず見ている公募展がある。それは、モダンアート展。もうモダンという言葉が古く感じるのだが…。

 上野公園の都美術館で、毎年2週間公開されている。昔はもっと会期が長かったと思うけど、最近はどの公募展も短くなっているらしい。親父が生前やっていた新構造社展などは、一週間しか会期がない。美術館の方針なのだろう。それとも、公募展そのものが衰退の方向に向かっているとも言えそうだ。



 モダンアートを見に行くのは、目的は一人の画家の絵を見るためだ。モダンアート展、全体を見る目的ではない。ここ何年、欠かさず見ているのは、僕には楽しい意義があるからだ。彼女の絵はどう変化し続けるのだろうかという興味があるのだ。

 タネを明かせば、彼女は僕の本当の初恋だった人。本当という意味は、単なる恋愛ごっことか、初恋にあこがれるというようなものではなく、僕にとっても、彼女にとっても、人生を生きている限り、忘れ去ることができない出会いと時間だったからだ。

 手短に言うと、彼女が女子美生で僕が大学生のころ、1年半ぐらいの生活を共に送ったからだ。1962~3年のあの時間は、南こうせつが1973年に発表した大ヒットの「神田川」の歌詞の内容と、そっくりそのままだった。神田川が、神田川の支流、桃園川だったぐらいが違いだ。「小さな石鹸、カタカタ鳴った」のだ。三味線橋のぼろアパートだ。

 無用な傷つけあいで、二人は別れた。彼女の生活は荒れた。僕も、心の襞の中にその傷をとどめながら、今日までやってきた。思い出は、見上げる夜空の銀河の彼方に飛び去ったことはない。別れてから彼女とは、一度だけ銀座資生堂パーラーのグループ展であっただけだ。

 僕は会いたいと思うけれども、彼女に拒絶され続けている。もう昔のことですから…と。 だとすると、あとは僕が、彼女の絵を見続けるしかない。

 彼女の絵は、前回同様、第一室の最初の壁面に展示してあった。まあ、贔屓目だとしても、モダンアート展の中で、現役会員として活躍しているのがわかる。

 絵はまた少し変わった。同じ色、同じモチーフなんだけれども、少しずつ、具象を思わせる、物語が画面に現れていた。えんじ色に近い赤と、青、そしてラインは黒と黄色。その中にいろいろなものに見える形が描かれている。ああでもない、こうでもないと、悩みながら、美しい顔を歪ませながら、描いている彼女を感じる。彼女の絵は進化し続けている。絵が生きている証拠だと思った。

 彼女の絵を見れば、もう後はさっと各室を回ってみるだけだ。興味がわいて足を止めたのは数点のみ。モダンアートの魅力が少しずつ失われていくようだ。モダン=先端性が薄れていきつつある。考えてみれば、この会も古い。結局、30分ぐらいで出てきてしまった。



 外に出ると、緑と暑さが押し寄せてくる。緑はきれいだ。少し歩いてみようと、動物園の前の小さなメリーゴーランドの前を通り、久しぶりに鶯団子をのぞいて見る。入る気はしない。東洋からの外国人が興味を持ったようで、アジサイ花の間の石段を登って行った。

今日は、ぜったいに浅草に行ってやろうと思っていた。昨年、偶然見つけた台東区が運営するバス、「めぐりん」で上野公園口から直接浅草に出られるのだ。100円。台東区役所や、河童橋、どぜうの飯田屋さん、ロックを巡って、雷門まで20分くらいだ。下町ののんびりバスの旅も面白い。



 浅草に来た目的は、二つ。一つは蕎麦を食うこと。もう何十年も通っている蕎麦屋TDに入ってみる。改善されたかと思っていた、入り口正面のキャッシャーマシンはそのまま、でんと構えている。最初から、金を払えと主張しているように見えるのだが。

 ここも代がわりで、メニューが変わった。手打ちのそばを食わす、酒を飲ますっていうことから、おのぼりさん相手に、見映えのいい天せいろとか、金ぴかの大きな器にもったそばが主流だ。もはや酒は飲めそうにない。いつものように、鴨せいろをさっと食べて、出てきてしまった。隣には、僕が入った時からメニューを眺めて品選びをしていたご夫婦が、やっと決まったその日のおすすめ、天ぷらそばを待っていた。

 後、もう一つの目的は、やげん堀の大辛を買うこと。店でないとできない、山椒と苧の実(麻のみ)をちょっと多くしてもらうことだ。目の前で、手際よく調合してくれるのがうれしい。もちろん、出来上がった香もかがせてくれる。こういうのがうれしい浅草だ。



 ちょっと足を延ばして、季節外れのシトーレンを買いに、アンジェラスへ。新仲見世も、仲見世も、学生と外国人だらけだ。スカイツリーが出来て、落日の感じだった浅草も、元気になったようだ。でも、古くからの浅草を好んでいる者にとっては、いらぬことをしてくれたと、高いだけが取り柄で、浅草のシンボルにはならない塔を見上げて、地下鉄の駅に向かう。