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M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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イタリア映画祭2016年をみて

2016-06-19 | エッセイ


 数寄屋橋マリオンで、楽しみのイタリア映画祭の一作を見て来た。

 昨年(2015)の新作、12編をまとめたイタリア映画祭だ。なかなか日本では見られないイタリアの作品で、ピアでのネット販売の日時をメモしておいて、時間になったらすぐに応募する。今年は、幸運にも、F18の一番いい席。

 昨年までの流れで、今年も喜劇を選んだ。これまで、喜劇は最終的には喜悲劇の終わるものが多かったが、今年の作品は、最初から最後まで喜劇だ。喜悲劇とは、喜劇で笑って見ているが、最後まで見終わると、心に深いペーソスを感じさせるもの。でも今年の映画は違った。純粋に喜劇で、ペーソスは全く感じなかった。

 観てきたのは、「俺たちとジュリア」。原題は、Noi e la Giulia。監督はレオ。



 <俺たちとジュリア>

 主人公は、車のセールスマンで客との応対に辟易しているディエゴ、長い歴史を待ったデリカテッセンをつぶしたクラウディオ、TV通販の司会者、日本でいえばタカタの通販の宣伝屋のファウストの三人。この三人とも落ちこぼれ者。それに加わった元共産党員のセルジオ、おなかに子供を宿したエリーザの5人。さらに、カモッラ(マフィア)の中間管理者のヴィトが加わったコメディ。

 役者のほかに大切な主役がいる。それはアルファロメオ ジュリア1300という1977年まで作られた車。35年以上も経ったポンコツ車。

 5人で、廃屋の農家をリノヴェートして、ホテルを作るろうと力を合わせる。そこに「ジュリア」に乗ったカモッラ(ナポリのマフィア)の中間管理者のヴィトが現れる。やくざとして、みかじめ料を要求して乗り込んだのだが、セルジオの腕力に負けて地下室の閉じ込められてしまう。ヴィトが来たことを隠すには、「ジュリア」を何とかしなくてはならない。そこで「ジュリア」を、建物の前のプール予定地の穴に埋め込む。



<アルファロメオ ジュリア>

 これが、喜劇の大きな仕掛け。「ジュリア」はポンコツで、カセットデッキの調子が悪い。が、バッテリーは新品だった。ヴィトはステレオのコンソールをひっぱたいて、それを黙らせていたのだが、他の仲間はそれを知らない。車のキーをつけたまま、穴に埋めてしまう。

 カモッラの組織の中で嫌気がさしていたヴィトは、5人組と仲間になって生きようと考える。ヴィトは知恵者だ。

 レストランを開業すると客が来た。庭の地中からクラシックの大音響がきこえる。「ジュリア」のカセットが、自動的に回り始めたのだ。客は驚き、感心し、喜んで友達たちにそのホテルを紹介した。客はどんどん増えて、ホテルは大繁盛。地中からのクラシックは鳴ったり、時には鳴らなかったりして、摩訶不思議な感じが魅力になって、客に受けだ。

 そこに、カモッラの重役がやってきて彼らを脅した。彼らは、今度は逃れられないと、金を持って逃げ出すことを決めた。だが荒野の真ん中から逃げる手段はない。そこで、土の中から「ジュリア」を掘り出して、元の5人で逃げ出す。ヴィトは残った。

 ハンドルを持っていたディエゴは、いまさら元の生活には戻れないと、運転していた「ジュリア」に急ブレーキ。逃げるのは止めよう、あのホテル、自分たちの生きがいを大切にしようと皆に宣言する。心の中に、今の生活を楽しんでいる自分がいたから、皆で留まろうと決心した。

 映画は終わる。余韻として、カモッラのことも含めて、前向きにやって行こうという空気が暗示される。

 この映画には、笑わされた。楽しかった。特にアルファロメオの「ジュリア」の役割が大役を果たした。監督は良く考えたものだとマリオンを出てきた。



<スポンサー>

 イタリア映画祭、もう6年ぐらい連続してみているが、どうも観客の数が減ってきているように思えてならない。この映画の乗客は、定員の7割ぐらいだったか。昔と比べると、信じられないくらいスッカスカ。毎年、楽しみにしていたスポンサーのフェラガモのリーフレットの質も下がったようだ。それに、昨年、一人500gのスパゲッティを呉れた、バリッラもスポンサーから降りたようだ。残念。

 バカ受けするアメリカ映画に比べて、ちょっと地味な、しかし人間を、人間の心情を丹念に描いているイタリア映画を、もっと多くの日本の人に見てもらいたいと思う。



<東急プラザ 銀座>

 ゴールデンウイークの晴れあがった五月の空に、寄屋橋のTOUKYU PLAZA GINZAに観光客があふれていた。売りの切子ガラスはあまりにも威圧的だった。

 築地の方まで足を伸ばしたが、新しい良い店は発見できなかった。ビストロで、まずい鰯のマリネと、まずい蛸のサラダを、うまいピノグリッジョで飲込んで、早々に店を出た。




<アストンマーチン>

銀座には、何千万もするアストンマーチンが止まっていたりする。チャンスはそうないから、一枚撮って置いた。

一番古い恩師を亡くしました

2016-06-05 | エッセイ

 僕の一番古い恩師を91歳で亡くしました。僕が高校2年の頃の担任で、卒業までお世話になった、58年前の恩師です。

 親父の都合で、僕にとっては唐突にも、淡路島の洲本高校に転校試験をうけて転校し、奥野先生のクラスに入ったことがきっかけ。彼は、若くて、英語の先生でした。県立洲本高校で、1年と2学期を過ごしましたが、この間、密度の濃い付き合いをいただきました。

 転校生(つまり島外からのよそ者)の僕に対して、先生は積極的にかかわってくださいました。部活では、自分では想像もしていなかった演劇部に誘われ、まごまごしていた僕を、育てっていただきました。僕も、それに乗り、自分で太宰治のむずかしい芝居を演出するまでに、積極的な行動をとれるようにもなりました。つまり、それまでの暗い思春期の真最中の僕を、そのメランコリックな世界から開放してくださったといってもいいでしょう。

 先生は、僕が来る前から「ポチ」とあだ名がついていました。何故だかわかりませんが、「ポチ」と親しみを込めて、生徒に呼ばれていました。決して、馬鹿にした呼び方ではなく、ユーモラスなあだ名として呼ばれていたと思います。

 その年の秋の体育会では、組対抗の応援のため、高さ15mほどの張りぼてを作るのが洲本高校の伝統でした。もともとの旧制洲本中学のバンカラな伝統が、こんなところに現れていたのでしょう。前年の1957年、ロシアの衛星、スプートニク2号にのせられて地球を周ったライカ犬からヒントを得て、スプートニクとポチの張りぼてを作ることになりました。

 夜、暗くなるまで、皆で作業し、竹の骨組みを作り、紙を張り、ポチの絵を描いたスプートニクを作りあげたのです。雨の日には、体育館まで張りぼてを避難させました。



 <1958年のスプートニクとポチ>

 この張りぼてを作る作業の中で、その頃、男子生徒のあこがれだったマドンナ、STさんと親しくなることができました。それは、この張りぼてを作っていて夜、遅くなり、誰かが彼女を大浜海岸に近い自宅まで送り届けることになりました。真っ先に手を挙げたのが僕だったのです。その後、何度か彼女をチャリの荷台に横乗りで乗せ、彼女は僕につかまって、チャリで帰宅したものです。その後、彼女とは東京で再開し、一緒の部屋に泊まるという重要なじゃんけんに負けて、友達付き合いが続きました。

 奥野先生の影響は、僕だけではありませんでした。僕が洲本高校で最初の友達になった炬口勝弘の変化にもかかわっていらっしゃいました。その変化には、僕もかかわっていたと思います。はじめの彼の印象は、がり勉で、暗い印象で、一人ぼっちで洲本に下宿していました。その彼を、彼が憧れていた東京の空気を持つ僕の親父、姉、そして僕の世界に引き入れたのです。彼の性格は明るくなりました。そして、どんどん、がり勉から離れていきました。淡路島の西海岸、都志の出身で、ご両親の期待を背負って、有名大学に入ってもらいたいとの希望から、少しずつずれていったのです。 こうして、炬口勝弘は、僕の大の親友になったわけです。根暗のがり勉の彼が、演劇部に入って芝居を始めたなんてことは、画期的な出来事でした。

 炬口とは、彼が早稲田の仏文にいたころ頃から、さらに親しくなりました。彼のかみさんを口説き落とすための体の良い道具に使われ、彼はその女史とねんごろになり、結婚しました。そして、生まれてきた男の子に、炬口名前の一文字と、僕の名前の一文字をとった「炬口炬人」という名前を付けました。彼は僕に恩義を感じていた表れでした。

 炬口からの情報で、奥野先生の住所を知り、それからずっと賀状のやり取りが続きました。年賀状は、生きているしるしです。そんな付き合いが何十年も続いていました。 
 
 奥野先生と再会するきっかけは、皮肉にも、炬口の脳梗塞の発作でした。炬口は、将棋界の写真を撮り始め、有名な写真家になり、羽生さんを主に追っかけていました。しかし、独り暮らしのお袋さんの看病のため、単身、仕事の量を減らして、淡路に帰って行きました。

 そこに、脳こうそくの発作です。意識がなくなり、訪ねても仕方がないので、様子見をしていました。僕自身も、心臓に病気を持っていて、フットワークは軽くはなかったのです。彼に意識が戻ったと聞いたのは、2011年の末。翌年1月、僕はリスクを冒して、神戸空港まで飛びました。そして、レンタカーで、炬口が収容されていた病院を見舞いました。その時、奥野先生とも51年ぶりの再会を果たしました。



 <入院中の炬口>

 結果的には、炬口が僕の奥野先生との再会を段取りしてくれたといってもいいでしょう。洲本で、同窓会の世話役をやってくださっている沢井女史と一緒にミニミニ同窓会をやりました。奥野先生はお元気でした。それが、2012年1月。



 <ミニ同窓会>

 2013年には、淡路で同窓会があり、その際、奥野先生ともお目にかかりました。もちろん炬口とも。その後、炬口は脳梗塞の後遺症で、昨年、5月10日に天国に。大の親友を亡くし、僕は寂しくなりました。



 <奥野先生:2013年>

そして、この2016年5月、奥野先生の訃報に接しました。しかも、亡くなったのが、炬口と同じ、5月10日でした。奥野先生は、91歳でしたから、大往生と言えるでしょう。しかし、炬口と同じ日に亡くなるとは、炬口が呼びに来たのかもしれません。

 こうして、僕の一番古い恩師を亡くしました。それでなくても、友人、知人をどんどん亡くしている今日この頃、僕の生きられる時間も確実に短くなっているのを感じます。

 恩師といえば、大学時代の恩師、桂田利吉先生も1993年、91歳で他界。大学の教養の頃、これもお世話になり、迷惑をかけた、松太郎先生も、ほかの大学を1993年に退官され、消息は不明です。おそらく今、94歳。ご無事かどうか案じています。

 カスケットリスト(棺桶リスト)の乗っている、友達、先輩には、できるだけ早く会っておこうと、心がせかされる出来事でした。合掌。