M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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男の会話かな

2015-05-20 | エッセイ

 寒い冬の間は身を細め、家に籠りがち。3月に入って、久しぶりの人に、久しぶりに会った。僕が大学時代、アルバイト先の一つだったところでプロジェクトを担当されていたIKさん。一年半ぶりにお会い出来た。

 この人には、本当にお世話になった。学生の僕を信用して、重要なプロジェクトのメンバーとして使って下さった当時の課長補佐だった人。どこかで書いたかもしれないが、首都高・横羽線の工事費の三分の一は、このプロジェクトが世界銀行から調達しものだ。そのころ、ドルの準備高が不足していた日本にとって、当時の大蔵省の意図で始まったものだった。



 <橋梁>

 彼とはもう50年間も付き合っていただいている。時々あって、酒を飲み、語り合える10歳年上の人だ。前回は池袋、その前は渋谷。その前は板橋。その前は伊豆で2回。

 今回は、銀座で会おうと提案し、3月中旬、銀座三越のライオンのところで…と約束をした。近くなって電話したら、自宅でと言われた。奥さまは外出予定なので、一人だという。だから、自宅にいらっしゃいといわれた。ご自宅には、何十年も行ったことがない。

 ちょっと気が重かったけど、お伺いすることにした。個人のお宅にお邪魔するのは、やはり気が重い。家人の誰かが客人を招くために、いつもよりきっと頑張ってくださると思うからだ。

 近くのバス停まで出迎えを受けて、久しぶりのご自宅へ。まあ、あがれと、リビングのテーブルには、沢山の料理が並んでいた。みんなIKさんの手作りだという。僕も、料理はやるけど、こんなに品数を作くったりは出来ない。恐縮した。

 先ずはとビールを開けて、ワインを飲みながらの、早い花見の会になった。一番のごちそうは、築地でだしまき卵を焼いている人から教わったという、卵焼き。しっとりとして美味しかった。秘密はオリーブオイルを少し生地に混ぜるのだという。

 昔、お世話になった課長さんの話や、お偉いさんの話や、アメリカまで世銀の交渉にいった時の逸話だとかを、呑みながら話していた。

 その頃はまだ、テレックスもファックス入っていなかったので、世界銀行からの契約書の草案は、興銀からの出向のUKさんがアメリカから電話で読み上げる。それを、僕が聞き取って、僕がタイプライターでドラフトして、大蔵省の外務参事官室に届けて了解をとりつけるのだ。そのやり取りが、何回も続いた。今から思えば、大変な仕事だったのだと思う。

 僕がトイレに立って戻ってきたら、側の机の上にY新聞がのっている。へぇ、Y紙ですかときいた。もともとはA紙だったのだけれど、ある日、その新聞の記事に傲慢さを感じて、新聞を変えたのだと言われた。



 <新聞>

 Y紙は政府の言いたいことを書いているようで、ちょっと…と僕が話した。そんな話の中で、彼はT紙がとてもまともだと言われた。わぁお、T紙を評価している人がいるんだと思った。T紙はどちらかというとマイナーな新聞だ。

 5紙の社説を読んでいると、その新聞社の立ち位置が見えてくる。ジャーナリズムの心を忘れていないものから、中間的な、そして政府の代弁者的なものまで、いろいろだ。

 こんなことを話せるのは男の会話。奥さまがその席にいらしたら、こんな話題にはならなかったかも。新聞、政治、隣国との関係の話、アメリカとの関係や、日本の将来の俯瞰図などを話しているうちに、時間が過ぎて行った。まあ、男の会話だ。馬鹿な野郎の会話とも言えるだろう。

 ワインを2グラス飲んで、おいしい手料理を食べさせてもらった。楽しい昼餉の時間だった。

 帰りに、出し巻卵を持っていくかと聞かれたから、お願しますとお願いした。彼が前の日から準備してくれた赤大根の浅漬けと一緒に、タッパウエアに入れていただいてもらって帰ってきた。

 僕は、男の会話で楽しかった。IKさんも、久しぶりに男の会話を楽しまれたのではないかと、帰りの山手線の中で勝手に思っていた。今度、何時会えるか分からない。何しろ、お互いに歳を感じ始めている現実があるからだ。



P.S.
過日、IKさんから、男の会話を楽しんだとのフィードバックをいただきました。

逝っちまった2人

2015-05-06 | エッセイ

 毎年の年賀状は、ご存命の証。

 この4月、たてつづけに訃報に接した。うれしいものではないが、神様の考えられた計画だから、「造られたもの」から文句を言っても始まらない。その人がこの世界にいないことを思い、自分との接点を考える時間を持つしかない。


 一人は、I社の大和研究所で僕がIT部門の責任者だった頃の上司、当時の研究所長のYさん。

 

 フェースブックの「友達」でもあり、賀状のやりとり以外にもメールでコンタクトしていた方。I社を離れれてから、外資のIT関係の会社の社長をいくつかやってらしたが、ある日突然、大阪の音楽SA大学の教授としての挨拶状が来た。とても、普通では考えられない転身だった。なんだ…と思った。

 クラシック音楽の専門家は、総じてITの世界からは遠いもののようだ。一方、才能はありながら、それだけでは生活していくには世界が狭すぎるようだ。彼は、アメリカのビジネススクールも出ているから、新しいジャンルを音楽の世界に持ち込んだ。それは、音楽家とビジネスとをITを使って結びつけ、音楽家の生活の基盤を広げようという新しい考え方だった。

 4年ほど、「ITを利用して音楽家がビジネスをする」にはどうやって行けばいいのかを自分で考えられて、学科を立ち上げた。そして、初代の教授になった。若い学生たち(とくに女子学生)と楽しく、時には羨ましく思う世界を切り開かれて、音楽家がITを使ってビジネスを起業するケースも出てきた。そう、新しいジャンルを築かれた。

 直接会って話したのは、一昨年(2013)の銀座の十字屋さんで開かれたビオラの演奏会に招待された時だった。若い人たちに囲まれ、老いを知らないエネルギッシュな動きをされていた。もちろん、若い人との接点を失いつつあった僕は、本当に羨ましかった。

 今年は、年賀状がないなと思った。フェースブックの近況も少なくなっていた。どうしたのかなと思ってはいた。メールを打ったけど、返事は来なかった。僕より若い方だから、また別のプロジェクトでも立ち上げるのに忙しいのかなと思いながら、時間が経った。4月になって、奥様から、一年以上の闘病の末、3月に亡くなられたと知らせが来た。やはり…と思った。

 彼は、仕事上のみならず、私的にもお世話になった人。僕の亡くなった親父も…だ。親父の遺作となった500号油絵、櫻を研究所の社員ルームへ寄贈するのを快諾して頂いた方でもある。自分でも楽器をやられたから、芸術に対する考え方が、柔らかく広かったのだろう。

 

<老櫻 常照皇寺>

 奥様に、Sympathy Card を書いて、お礼とお悔みを言うしかなかった。友人リストの一人が消えた。



 続いて届いたのは、いとこの節ちゃんの訃報だった。妹のWKちゃんが、しょっちゅう、大津まで出かけて面倒を見ていた。ホームに入って、ヘルパーさんの手を借りながらひとりで生活していらした。

 彼女のことを詳しく知ったのは、妹のWKちゃんが「聞き書き」というボランティアの活動として、節子ちゃんのことを一冊の小冊子に書き残して発行していてくれたからだ。僕と同じころに、節ちゃんは若い時期を東京で過ごし、若手ファッションデザイナーとしての経歴を踏み始めたのが1968年とある。1964年にいとこ会があり、そこで直接会ったのが最後だった。

 「聞き書き」を読んでWKちゃんに話を聞いてみると、竹節子は若手デザイナーの登竜門、日本デザイナークラブ ヌーベルコレクションで「伊藤茂平賞」と、「装苑賞」を1968年にダブル受賞し、日本での女性用ファッションデザイナーとして「最高に輝いた時」(聞き書きのタイトル)を持ったようだ。

 

 その後、同じコレクションで大賞の「NDC賞」も取られ、日本のデザインの開花を助ける貢献をされたようだ。土佐人の開放的な、活動的な活躍の成果だったのだろう。

 WKちゃんが企画している今度のいとこ会、「節ちゃんとのお別れ会」が節ちゃんとの最後の接点になるだろう。元気だったら、生きた本人との再会を楽しめたかもしれないのに、神様は別の決断をされたようだ。

 この拙文を節子さんにささげるとしよう。



 明日は我が身。準備は万端整っている。

 カスケット・リスト(棺桶リスト)にのっけた、やりたいことをどんどん進めよう。会いたい人にドンドン会っておこう。神様は、どういう計画を持たれているのかは知る由もないのだから。