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M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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岡野先生の墓参り

2019-11-24 | エッセイ

 

 僕を精神的に再構築してくれた岡野先生の13回忌の知らせが飛び込んだのは、8月の始めだった。1995年以前からの付き合いのある、先生の生徒の一人、Kさんからだった。岡野先生は2007年9月2日に沖縄で亡くなられた。その年の9月24日に市ヶ谷のアルカディアで開かれたお別れ会には、僕はそのころ、仙台で心臓君の病気との戦いの最中で、とても上京できる状況ではなかった。欠席した。結果として、ちゃんとお別れはしていなかった。

 

<岡野先生の遺影> 

 Kさんとの往復書簡(E-Mail)を中心に書いてみる。 


Kさんより 

 岡野先生十三回忌の案内です。予定日は8月31日です。残暑が厳しい状況でしたら、ご無理をなさいませんように。  

 

僕より 

 岡野先生の13回忌の件ですが、Kさんの情報と、僕の持っている1994~6年の研究会リストで、僕の印象に残っている方々の名前をマッチングしてみました。

 残念ながら、Nさんだけでした。彼が亡くなったと聞いて寂しくなりました。Iさんには、その後も研究部会で、何度か会っていますが、特に…ということはありません。リストにはありませんが、KJさんやUZさん、SKさんなどが記憶にありますが、今回の招待リストには入っていないようです。

 今の形での「研究部会」への移行について、検討会が2000年に大井町の「きゅりあん」で行われたのをよく覚えています。そして、僕は自主ベースの研究部会には、反対だと、先生の前で話したことを記憶しています。先生の「属人性のカリスマ性」があってこその研究部会でしたから。それに、昔は深い勉強もしていました。TA論文もオリジナルの原稿(英文)で沢山読みましたね。

 FさんとKさんが頑張っている自主運営「研究部会」にも、何度か出ましたが、カルフォルニア、タホ湖のミュリエル・ジェームスの主催する二週間のワークショップの同級生が、講師になって出ています。SCさんとか、亡くなったNKさんとかです。彼らのことは、よく知っています。彼女たちから、得るものは??となったので、出席しなくなりました。

 こんなことを考えている今日、正式なメールをYさんから頂きました。電話でも話したように、僕一人で岡野先生の墓参りは済ませようと決めました。あまりよく知らない人たちと一緒に、僕の「父」、岡野先生を語りたくないというのが本音です。体力的にも、ちょっと自信がないので、「欠席」のメールをだしておきます。Kさんが、誘ってくれて嬉しかったのですが、こういうことにします。

 I社の早期退職後、1995年に始めた、TAベースのパーソナリティ&コミュニケーション・カウンセラーの仕事は、心臓君の機嫌が予測できないので、アポイントメントが取れなくなり、ドタキャンでクライアントに迷惑をかけることもあったので、2007年で新しいクライアントを取るのはやめました。古い人が数人、今も付き合いがありますが、もうボランティアベースです。

Kさんより

 お一人での墓参、了解です。私も一人で...駅から向かいのモールへ渡り、花店でバラを買って、あれこれと昔を思い出しながら、ゆるゆると坂道を上っていく…。時間も気にせず、ゆるゆると時を過ごすほうが好きなのですが…。

 あれから四半世紀、OHさん、Sさんも旅立たれてしまいました。一緒にご冥福を祈っておきます。まだ猛暑が続きそうです。ご自愛ください。また、時おり勝手な生存連絡メールします。

 以上が、8月のメールのやり取りでした。 

 僕は、8月10日に一人で、岡野先生の墓参にまいりました。戸塚の静かな墓苑で、よく手入れされていました。 

<墓苑> 

 先生には、本当に感謝しています。今思い出すと、とても鼻持ちならない、若い僕の性格と行動を見て、僕に対するコーチングをひき受けていただきました。

 

<先生の研究所リーフレット> 

 徐々に、僕自身が、僕自身の行動をモニターししながら、相手の受け取りかたを推測できるようになりました。そして、リアルな自分と、行動に現わしている自分とのギャップを埋める努力を続けました。そんな時間が十年ほど経過し、そのギャップが消えていったのは幸せでした。自然体で生きることができるようになっていました。 

 僕は、自分自身の意識から自由になったわけです。そんな変化を、僕の部下達も認めてくれているというデータも取れました。本当に岡野先生に救われました。

<岡野先生の墓> 

 9月が終わり10月の秋、僕の単独墓参の報告がてら、合同の墓参りはどうだったのかとKさんにメールしました。 

Kさんより

 合同墓参の件、司会と進行係りで、ゆっくり岡野先生との時間も持てず慌ただしい流れでした。

<合同墓参の写真 Tさん撮影>

 生きているうちに、どこかでKさんとは会っておこうと思っています。


 僕にとっては、心の「父」、岡野先生を2007年に、そして、心の「母」のミュリエル・ジェームス博士を、昨年(2018)のバレンタインに102歳で亡くしました。

<ミュリエル 99歳当時>

 これで、実母、実父のみならず、心の父母を亡くしたことになりました。わがままな僕を見守ってくれる人たちを失って、ちょっと、空っぽの気持ちです。 

P.S.

 そういえば、ミュリエル・ジェームズのワークショップへの参加は、岡野先生の紹介で実現したものでした。


海外の空港たちー13 アジア

2019-11-10 | エッセイ・シリース

 

 アジアには、あまり降りた空港はないのですが、数少ないいくつかを話しをします。

 

 <イタリアからの南周りBy Google Maps> 

 

 ミラノ → アテネ → ベイルート → ボンベイ(今のムンバイ) → サイゴン(今のホーチミン)→ 香港 → 東京という、とても長い(30時間越え)、しかも熱さと湿気に満ちた飛行でした。昔、イタリアから南回りで帰る時に、ガソリンを補給するためと途中の利用者の乗降のために着陸した空港で、僕は機内に閉じ込められていたか、ターミナルで休憩していたかのどちらかでした。外に出たことはありません。あまり快適的な旅の記憶はありませんでした。 

 アテネでは、飛行場からパンテオン神殿が、ライトアップされているのを見て感動でした。 

 ベイルートは、美しい街という印象でした。今の戦禍はなく、静かなアラブの夜を見た記憶があります。 

 ボンベイでは、乗ってくる人たちが、必ず自分の毛布を機内に持ち込むので、不潔なにおいと、埃がすごかったのにはまいりました。

 

サイゴン 

 一番印象的だったのはサイゴン。いまではホーチミンと名前が変わっている南ヴェトナムの街でした。


 

 <ヴェトナムの米軍の枯葉攻撃> 

 ヴェトナムの上空に高度10、000メートルぐらいで入って、飛行機の窓から見降ろすと、下のほうでアメリカの飛行機の編隊が密林に次々と爆弾を落としているのが見えました。「今、この瞬間に、地上ではベトコンとアメリカ軍が戦っているんだ」という事実に、ゾワッとしました。その編隊が飛ぶに従って、爆弾の煙が、ポッツ、ポッツと密林の中続いて破裂するのが見えました。自分は安全なところで、この戦争のリアルな光景を見降ろしていることが不思議に思えました。サイゴンへの着陸は、問題なくできました。しかし、そこでの滞在は短いもので、ガソリンを満タンにする時間だけ、僕たちは飛行機の中に閉じ込められ外には出られませんでした。これが唯一、戦争を目撃した飛行となりました。


 香港

 

 <カイタック飛行場> 

 香港には何度か出かけましたが、今の大きなランタウ島の飛行場ではなく、昔のカウルーン(九龍)の狭い飛行場、カイタックでした。山を越えて降下した先の滑走路は短く、その先は海でした。オーバーランして、海に落ちる事故が何度もありました。

 

 <街の上を飛ぶ飛行機> 

 その危険な着陸をみようと人々が集まって、カメラを構えていたのを思い出します。僕自身も、うしろの山を、すれすれで超えて急降下してくる飛行機が、うまく短い滑走路に着陸できるかなと、興味本位で見ていたことを思い出します。そんな意味で、カイタックは有名な場所でもありました。空港からバスに乗ってスター・フェリー乗り場へ行くとき、右手に、九龍城と呼ばれたスラム街の高層建築が固まったところがありました。

 

 <今はない九龍城>*  

 非常に危険な所だといわれていたので、好奇心が強い僕でも、入ったことはありません。カウルーンに行ったこと何度もありますが、常に昼間の外出に決めていました。宿は、もっぱら、香港島、セントラルのマリオットでした。ここで、IBMのマネージメントコンサルタントの教育が、缶詰教育で行われ、合計5週間を過ごした思い出があります。中国に返還されてからは、まったく興味がわかず、行ってみようという気も起きません。

 

ソウル 

 これは私用でした。今は、仁川に成田・羽田を超える大きなハブ空港が作られていますが、僕が下りたところは、金浦空港でした。漢江(ハンガン)を超えて、ソウルまでのバスの中から見た風景は印象的でした。各々の家の庭に、大きな瓶が転がっていました。後で聞くと、これは、朝鮮民族には欠かせないキムチをつける瓶で、毎年、一年分のキムチを仕込むのだと聞きました。

 

<仁川空港 by Google> 

 ホテルはシッラ(新羅)でしたが、ここで、大きな間違いをしてしまいました。タクシーを頼んで、一日、利川で青磁の現場を見ようとしたのですが、タクシーの運転手には、仁川と伝わったようで値段が大きく違いました。僕の発音のichon(利川)とinchon(仁川)が間違って伝わったためでした。謝って金額を変え、利川を一日、楽しんだ記憶があります。

 

 <利川の登り窯> 

 やはり、高麗青磁が一番と、確信する旅でした。楽しい旅でした。


 

 <我が家の青磁と白磁>

 

 これで、「海外の空港たち―X」シリーズは終わります。 

 

P.S.

九龍城の写真は、Jidanniさんによるもので、 Creative Commonsライセンス BY-SA 3.0です。