M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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海外の空港たちー12 オーストラリア

2019-10-27 | エッセイ・シリース
  オーストラリアは、僕にとっては大切な思い出の場所だ。日本を脱出して、生涯をそこで過ごそうと考え、一度は具体的行動に移した場所だからだ。結果としては、それができず、今も悔しい思いで日本にいるわけだが…。
 

<飛行図> 

 オーストラリアには、数えてみると、3回行っている。

 

  最初は、IBMオーストラリアからコンサルタントとしてよばれた3週間。二度目の1週間は、CIM(Computer Aided Mfg.)の論文を、オーストラリアの学会に応募したら選ばれて、シドニーとメルボルンで論文発表することになり、過ごした楽しい時間。そして、最後の2週間は、永住許可が下りたら住む場所と決めていたメルボルンに、具体的な居住地を探す旅だった。合計6週間だが、だいたいはメルボルン近辺で過ごしたことになる。

 

 最初に飛んだのはシドニー。そこから乗り換えて、クライアントのいる首都キャンベラに向かったのだが、各々の空港で不思議な体験をした。

 

<シドニー空港 By Mathiuemcquire Creative Commons  BY-SA 3.0> 

 一つ目は、シドニーで入国手続きをするためにカンタス機から降りる際、全く考えられない扱いを受けたことだ。機内にすべての乗客を閉じ込めておいて、そこにオーストラリアの防疫官がやってきて、乗客の頭上から薬品を噴霧したのだ。説明もなく行われた、とんでもない仕打ちだった。確かにオーストラリア大陸は、他の大陸とは切り離された独立した大陸だから、オーストラリア特有の動植物の保護のために、他の大陸からの細菌などの検疫を厳しくする必要があるが、まるで乗客を保菌者のように扱かったのは、非常に不愉快だった。二回目以降は、そんなやり方ではなくなっていたが…。

 

<キャンベラ空港> 

 次に疑問だったのは、キャンベラ空港に着いたら、空港の屋上からたくさんの人が手を振ってくれるのが見えた。こんなに歓迎を受けるのは変だなあと思ったが、僕たちも、まどから手を振って応えておいた。しかし、後になってオーストラリア人にこの話をしたら、ゲラゲラと笑われた。聞いてみると、人間の人口の8倍ほどの羊がいて、それにたかるハエが多いらしい。キャンベラで手を振っていたのは、自分の目や鼻にたかるハエを払っている仕草だったのだ。これには、“オーストラリアン・サルート(Australian Salute:オーストラリアの敬礼)”というあだ名がついているとのことだった。苦笑しながらも納得。

 

<スパナー蟹>

 メルボルンとシドニー(710km)の中間に、二都市の綱引きの結果の妥協の産物として作られた人口の町、首都キャンベラにクライアントの本社はあった。コンサルタントとして、クライアントの要求を聞き、その後、結果を報告するためにキャンベラに行ったのだが、印象に残ったのはスパナー蟹だ。皆さんは、ご存じですか?形がスパナー(モンキーレンチとも呼ばれる)のような形をした蟹で、うまかった。人工的なキャンベラという街には全く興味はなかったが、この蟹だけは、今でも覚えている。日本では見たことがない。

 

<メルボルン空港> 

 メルボルンの郊外に散在するクライエントのサイトを5か所ほど回って、現状調査を行ったのだが、その足がエア・タクシーだった。150キロも離れたところには、車では時間がかかる。そこでオーストラアでは、エア・タクシーといって、小型機をチャーターするシステムがある。

 

<エア・タクシー> 

 はっきり覚えているのは、Bendigoというメルボルンから140㎞程離れた田舎町に行ったのがエア・タクシーでの日帰りだった。チャーター機だから、エア・タクシーは空港で、客の帰りを待っている。

 

<ベンディゴの飛行場> 

 オーストラリアIBMの仕事のほかに、日本からWangarattaに工場長として赴任された、藤沢の恩人Nさんの要請で、キャンベラから定期便だけど必ずしも飛ばない(客がいないと飛ばない)という定期便に乗った。それが、エア・タクシーより小さな、単発の乗客定員4人の飛行機だった。僕たち二人と、子牛のようなでかい若い女性客一人の飛行だった。彼女はでかくて、二座席でやっと収まるくらいのヒップの持ち主だった。この単発機にしては重くないか…と思ったが、単発機はエンジンを全開にして、ふらふらと飛び上がった。キャンベラらから280キロの飛行だった。途中には、結構高い山もあり、不安な飛行だった。

 

<ワンガラッタの飛行場> 

 

 論文発表は、シドニーではダーリング・ハーバーのコンファレンス・ホールで、メルボルンでは、スインバーン工科大学のホールで行われた。

 

<スインバーン工科大学でのパーティー> 

 オーストラリアの真冬のクリスマスのシーズンだった。ホットパンツの、女性のサンタさんがいて、びっくりしたのを覚えている。南半球の真冬は経験したことがなかったから、日本に帰ってきたら真夏。時差がないのはいいのだけれど、その温度差は30度近くて、大変な思いをしたのを覚えている。 

 

 最後は、メルボルンに住むと決めていたから、どの地域に住むかを探す旅だった。メルボルンにひかれたのは、トラムでどこにでも行けるということ、四季が明確にあること、そして彼らの話す英語が、日本人が学校で学んだキングスイングリッシュ(?)で、分かりやすかったことにある。大きなクイーンヴィクトリア市場もあり物価も安く、さらには世界中の国の人たちが暮らすから、いろいろな国の食べものが簡単に食べられることも魅力の一つだった。オーストラリア人の友人とも話して、メルボルン郊外のF1でおなじみのアルバートパークの先、南極海に面したセントキルダ地区と決めた。

 

<メルボルンのトラム>

 

 その後、東京のオーストラリア大使館にVisa Applications Form1025iを出すことになって申請に行ったら、指定のクリニックでの健康診断が要求された。そこで、ぼくの心臓の病気が明らかになり、オーストラアリアに住むという夢は砕けてしまった。

 

<ウオンバット> 

 もう一つ、オーストラリアでなくてはできない僕の夢、ウオンバットを飼うという夢もかなわなかったのだ。残念無念だ。

 

P.S.

メルボルンについては別途、「住めなかった街 メルボルン」として2編のエッセイを書いてます。

https://blog.goo.ne.jp/certot/e/b580b5560d9ab51fdbf1b8bd822d3ff7


海外の空港たちー11 タホ湖

2019-10-13 | エッセイ・シリース

 

 <飛行図> 

 これが唯一のプライベイトなアメリカ行きだった。ハワイには、たくさん日本人が行くようだが、ハワイ諸島がアメリカの州であるだけで、アメリカとは言えない気がする。何十回もアメリカ大陸には渡ったが、ハワイには寄ったことはない。余談です。 

 この時は自費の旅だったから安い航空券を探したら、当時は日本ではなじみの薄かったアメリカンのサン・ノゼへのチケットが取れた。目的は、カリフォルニア州とネバダ州に跨るタホ湖での2週間のインターナショナル・TA・ワークショップへ参加するためだった。その前後に、1週間ずつサンフランシスコ滞在を加えたから、合計4週間弱の旅になった。

 

 <タホ湖 Google> 

 これはIBMが、勤続25年の社員にサバティカルとして、1か月の有給休暇と学費を負担してくれるというチャンスに恵まれたからだった。僕にとっては、早期退職して、次の仕事、カウンセラーに就くための必須のワークショップだった。 

 アメリカンはなぜか、成田~サン・ノゼしかルートを持っていなかった。タホ湖に行くには、サンフランシスコ空港が便利で、サン・ノゼ空港は決してそうではなかった。サンフランシスコ空港からは、タホ湖までの小さなプロペラ機へ乗れるのだが、なぜかサン・ノゼだった。アメリカンとしてのバス・サービスはなく、一般のバスでサンフランシスコ空港まで戻るしかなかった。そこから、更にサンフランシスコ市内へのリモの利用も必要だった。

 

<有名なケーブルカー> 

 ビジネスでは、いつものサンフランシスコのヒルトンとかを使えるのだが、ホテル代も自費だから、場末のホテルを探した。普通はあまり観光客のいかない、サンフランシスコ市役所の近くに安宿をとった。そこで、ジェットラグを消して、普通の調子に戻して、タホ湖に入ることにした。 

 サンフランシスコ空港の片隅から、30名くらいの客を乗せる小さなプロペラ機で、シェラネヴァダ山脈に囲まれたタホ湖に向かった。

 

<アメリカンのプロペラ機で着いたタホ湖空港> 

 タホ湖の飛行場は、海抜1900mだから、パイロットに対する注意書きが面白かった。「空気が薄いから、離陸にはエンジンの出力を最大に!」とあった。確かに、空気が薄いと抵抗が減り、上昇力が落ちる。納得。 

 世界中から集まった20名程のメンバーが、“Born to Win”で、世界庁中に影響を与えてたミュリエル・ジェームズ博士の主催するTAワークショップに参加した。

 

<ミュリエルの著書“Born to Win”:TAの名著> 

 コンドミニアムに、5名程の疑似家族が何組か、別々に泊まり込んだ。そして全員での講義やフィールドワーク以外は、24時間、その家族と過ごすことになっていた。これには、ミュリエルの意図があった。24時間、人は仮面をつけてはいられない。素(す)の自分が、他のメンバーに見えてしまうのだ。それが狙いだった。

 

<タホ湖の林の中のコンド> 

 その一軒のコンドの中では、自然と役割ができあがる。親父、お袋、長男、長女、二男、二女などと、自分と他の関係ができてくるのだ。それが、ミュリエルの狙いの一つだった。自分の性格が、国際的なグループでも自然に浮き上がるのだ。僕の場合は、ネブラスカから来たジュディという妹と、スペインのイグナチオという弟ができあがった。

 <ジュディとイグナチオ> 

 ワークショップには、TAの講義や論文解説などや、ロールプレイなどもあるが、根っこには自分をより深く知るという目的があり、僕自身の行動を常に客観的に見てくれるメンバーが必要だったのだ。周りのみんなが、本人の知らない自分をフィードバックしてくれ、結果として自分自身を新たに発見するというメカニズムだ。ジョハリの4っの窓を知っていれば、意味が分かると思う。

 

<美しいタホ湖> 

 一番印象的だったのは、「人を信頼しないとプールに沈む」というプーリングと言うフィールドワークだった。二人がペアになって、一人がプールに上向きに寝る。もう一人が、それを補助するというワークだった。浮く人が、サポートをする人を信頼できないでいると、体のどこかに力が入って、本来的には水に浮く人間の体が浮くことが出来なくて沈んでいくのだ。僕は、簡単に浮けたが、イグナチオは、何度か沈んだ。ミュリエルの指示があって、何度目かに、僕の前で浮いた。感激だった、

 

<プーリングで浮く僕とイグナチオ それを見守るミュリエル> 

 楽しいワークショップの2週間はあっという間に経っていた。僕自身の発見は、僕の中には、いつも母を探している小さな子供のキャラクターが存在するが、いつもそれを隠しているという心理的な画だった。この小さな子を解放してあげることが、僕の人格を修正できるとミュリエルのお陰で知った。 

 スペイン・サラゴサの歯科医、イグナチオとは、その後もずっと付き合いがあったが、6年前に、交通事故で突然死するまで友達だった。何度もスペインへ来たらと言ってくれたが、それができぬうちにくたばった。 

 ミュリエルとはずっと交流が続き、日本に来た時には必ず会っていたし、カルフォルニアまで電話して声も聴いていた。クリスマスカードも束になって残っているが、去年の1月、102歳で天国に召された。僕は心の母を失ったのだ。

 

<100歳のミュリエル>

 タホ湖の帰りは、サンフランシスコでイグナチオと遊び、その後一人で、モントレー、カーメルを車で回り、サン・ノゼ空港から日本に帰ってきた。僕が時間の予測が間違って、車をすっ飛ばして、ぎりぎりでアメリカンに乗った記憶がある。

 

<帰りのアメリカン> 

 このワークショップへの出席で、物理的に得たことがある。それは禁煙。乾燥したカリフォルニアでは、屋外での喫煙は厳禁だし、コンドも禁煙だった。出席を決めて、一日2箱くらい吸っていたタバコをあっさりやめた。 

 これが、アメリカへの最後の旅になった。