M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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アメリカでの運転(その2)

2014-10-29 | エッセイ

 ニューヨーク州以外の運転歴だと、場所はいくつかのまだら模様に散らばっている。

・フロリダのマイアミからキーウエスト: 片道260km

 快適な海の上のハイウエイ。アメリカのキーウエストから始まる1号線。運転していると、大西洋とメキシコ湾が左右に開けて、車の窓の高さから見ると海しか見えないから、水面を走っているような錯覚を持つ。海の上を飛んでいる感じだ。

 ヘミングウエイの愛したキーウエスト。キーとはサンゴ礁の小島のこと。200㎞に点在する島の上をすっ飛んでいく。ヘミングウエイの棲家のあとは、猫屋敷。みんなにかわいがられて、幸せそうだった。

・コロラド州の旅
:約1000km

 I社の仲間で、コロラド州のボルダーの出身の優秀なシステムエンジニアと3か月間、一緒にシステムデザインの仕事やったことがある。彼が、ボルダーをこよなく愛していて、あんなすばらしいところはないと僕に吹き込んだ。それ以来、コロラドは僕の憧れの地だった。



 <この写真は、flickr からBo Insognaさんの Boulderをお借りしました>
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。

 数年前、コロラド州を旅することが実現。デンバー→ジャンクション→アスペン→パイクスピーク→コロラドスプリングス→ボルダー→デンバー。

 パイクスピークは4000m超え。ハイスピードクライムレースでも知られている。ボルダーは、日本のランナーたちの高地トレーニングンも使われて、日本でもなじみの名前だろう。確かに美しい町だった。しかし、たった3分間の駐車違反で20ドル取られた悔しい町でもある。お気を付け下さい。

 ・カリフォルニア・ネヴァダ州のタホ湖周辺:500km

 第二の仕事の始まりに、決定的な力をくれたTAのインターナショナルワークショップで3週間を過ごした所。カリフォルニアとネバダにまたがる美しい湖。

 タホ湖→カーソンシティ→レノの往復を二回。カーソンシティは砂漠のなかの温泉。温水プールをつかってTAのフィールドワークが行われた。



 <カーソンシティの温泉プール>

 タホ湖から3000m超えのシェラネヴァダ山脈の山の中。森の温泉でフィールドワーク。フォードのボロ車を転がした。ネバダでは、アクセルといくら踏み込んでいても、まったく風景が変わらない。

 ・カリフォルニア州シリコンバレーとカーメルの旅:600km

 I社のサンノゼには何度か行った。怖かったのは、サンフランシスコ空港からの夜中のインターステート101号のドライブ。カーナビなんかない頃で、大雨の中、道を探しながらの運転で、冷汗びっしょり。

 サンフランシスコの町を走り、ケーブルカーに道を譲りながら郊外へ。憧れのモントレーとカーメルを訪れた。ペブルビーチの美しいグリーン、ラッコの泳ぐ巨大なケルプの海の森。17 Miles Drive のドライブ、素朴なカーメル。忘れられない。



 <モントレーのシュナウ>

 アメリカのインターステートハイウエイの怖い所は、本線から出る「出口」が、本線に入る「入口」のすぐ先にあること。出る車と入る車が、同じ車線を同時に走る。入る車はアクセルをふかして、スピードを上げている。一方、出る車は同じレーンで出るために減速している。出口が先ではありません。ご注意!


 I社さんのおかげで、アメリカのいろんなところに旅をさせてもらった。

 リストアップして見ると、みんなユニークな場所。
  Westchester N.Yのホワイトプレーン、スターリングフォーレスト。
 
  Suffern N.J. Rochester M.S.  Lexington K.Y.  Raleigh N.C. 
  Austin TX.  Boca Raton FL San Jose CA など。

 そう、忘れてはならないところがある。

 それはI社のマンハッタンの本社。今回のエッセイを書くために、検索してみたら、ちゃんと元の場所にあった。



 <竹林の写真>

 Madison Ave. 56th St. にある建物の内部には、アトリームが作られていて、竹林が健在でした。美しい。

アメリカでの運転(その1)

2014-10-15 | エッセイ

 僕はアメリカには住んだことはない。
 でも長期出張や、個人的なワークショップの参加などの期間を含めると、トータルで一年半位はUSに滞在したことになる。

 最初の出張は、ニューヨーク州の3か月。ニューヨークと聞くと、マンハッタン島のイメージが強いと思う。しかし、ニューヨーク州は広く、北は国境を接してカナダ。カナダの首都、モントリオールはすぐそば。

 僕がウロウロしていたのは、ニューヨーク州ウエストチェスター郡とロックランド郡。そして、隣接するニュージャージー州の田舎だ。


<ホワイトプレーン>

 町の名前で言うとホワイトプレーン、もっと北に行くとポキープシイ、さらに北上するとエンディコットなど。ハドソン川を3マイルのタッパンジー橋を渡ってスプリングバレー、スターリングフォレスト、隣接のニュージャージーで仕事をしていた。アメリカI社とのジョイントシステム開発で、アメリカのエンジニアと共にプロジェクトを進めていた頃だ。

 一番長く継続して滞在したモーテルは、スプリングバレーだった。ここには2か月は滞在したと思う。
インターステート287のすぐそばで、ニューヨークからのアクセスも、ウエストチェスターのオフイスへも、プロジェクトオフイスの置かれたスターリングフォレストにも近かった。


<スターリングフォレスト>

 その頃は若かったから、JFKに着いてすぐレンタカーを借りて、そのまま突っ走ったりした。ヴァンウイック・エクスプレスウエイ(R678)を走って、ホワイトストーン・ブリッジを渡り、ブロンクスでハッチンソン・パークウエイに入り、ホワイトプレーンまで50kmを駆け抜けた。

 今から考えると、12時間位のフライトの直後に慣れない道を、左ハンドル車で高速を走ったのだから感心する。車だって、日本車に比べたらデカさが違う。馬力も違う。しかも片側5車線もある高速を走っていると、グランドを走っているみたいで、どこから車が現れるか分からない。視野が広く要求され、とても怖かった記憶がある。

 日本ではブルーバードを運転していたけれど、6000㏄もあるOHVの車の力強さには圧倒された。そして、全体的にスピードが速く、130㎞位で走っている。時差ボケの頭には酷だったはずだ。でも、そんなことが出来る若さだった。

 スプリングバレーのモーテルから、スターリングフォレストのオフイスまで片道30kmを通った。冬は雪で峠を越えるのに苦労した。オフイスは山の中にあるのだ。

 僕のニューヨーク州での主なドライブはこんな感じだ。

 JFK→ホワイトプレーン:50Km JFK→スターリングフォレスト:90Km

 そのころのI社はコンピューター・メーカーで、世界中で活動をしていた。今では、業種もソフトウエアとコンサルタントに集約されている。結果として、僕が走ったハドソン川の近くの事業所はみんな売却されてしまって、今や存在しない。
キングストン、ポキープシイ、イーストフィッシュキルなど、I社の中心的存在だったサイトたちはもうない。

 最初はハーツのレンタカーだったから、結構、料金が高かった。勧められて、月極め契約での地元のレンタカーに変えた。そこで借り出したのが、クライスラーの小型のスポーツタイプの車。名前はもう覚えていない。かなりじゃじゃ馬で、でかいエンジンにバン広のタイヤを履いた車だった。

 この車で仲間と一緒に、北のエンディコットに行ったドライブは忘れられない。インターステートハイウエイではなくて、ルート17を走った。スプリングバレーから、片道270kmくらいのドライブだった。この17号線が曲者だった。ガスステーションが道には隣接してなくて、一度Exitを下りて、近くの村まで下りないとガスも入れられない山の中の道だった。


<ルート17>

 中間点くらいまで走っただろうか、車の水温計がどんどん上昇し始めた。普通の高速道路だったら、ちょっと沿線のガスステーションに入ればいいのだが、17号ではそうはいかない。どの出口を出れば、ガスステーションがあるか分からない。オーバーヒートしては困るので、えいやっと、17号を下りて、ガスを探した。

 あった。良かった。早速状況を説明して点検してもらった。すると、オジサンは、水が入っていないよと言って、ラジエーターに水を補給してくれた。その車を借り出して、まだ一週間にもならない時だった。十分メインテナンスされていない車を借りたのだ。怒ってみたって仕方がない。水を補給されて、車は順調に走り始めた。本当の冷や汗ものだった。安かろう、危険だろうだった。

 帰りは、もっと怖かった。ニューヨーク州の北部に雪が降り始めた。僕の車は夏タイヤ。雪から逃げながら南下して、やっと雪から逃げきった時は、本当に冷や汗が出た、冬の迫る11月だった。

散文詩 「しなの」 

2014-10-01 | エッセイ

(信濃にて)


朝の空気の中を走る汽車のデッキで、
 はく息も白く、白く千曲川が見える


①千曲川

 
何一つみのがすまいとして目をみはる。
 君には容易に想像できるだろう

もう信州は取り入れが終っている。
 険しい山肌を、水が削って下りるのだ。
  まずしい農家の姿。
   そのたたずまいに、やわらかなわら屋根に、
    深い故郷が見える。
     朝まだき火の見やぐらに灯がついている

さといもと、桑とリンゴが広い盆地に広がって、
 取入れの済んだ田畑を朝の雀がとぶ 


②りんご

高い信濃の山々と、えだまめの赤き田畑とが、
 一つの世界にある

ひなびた小さな駅
 朝の汽車がつく。 
  子らが手を振る

信濃の農家の屋根とおなじような山々、
 そしてけわしい峰。
  深く刻まれた山肌。
   これらの環境に生まれた人々の心は、
    どんなに深く、また美しいのだろう

ぶどう園、千曲川ぞいの村々をとりかこんで、
 ちっぽけな屋根、屋根をしかと抱いて、
  この信濃の山々にいかに多くの人々が近づき、
   また別れていったのだろう

朝の踏切のカネが列車の後ろに消えるころ、
 コスモスの咲く「さかき」についた


③さかき

カボチャの葉っぱが広くなっている。
 おふくろが茎を
  煮つけてくわせてくれた

ひとり、軽井沢から碓氷峠への道を、
 ザックをしょって歩く。
  秋の軽井沢、もうだれも帰ってしまって、
   そばとリンゴと落葉とくるみ

しずかな木立を落ち葉をふんで歩けば、
 視界をさえぎる木々の中を歩めば、
  沢の水音がきこえる。
   さわさわという音のみが

もみじの葉をとおして高い空が見える。
 雲もない筒抜けた空が

目の前の道に目を落として歩く。
 ちっちゃな吊り橋が、
  揺れて山にかかっている。
   流れの滝に、ちっちゃな滝に、
    かえでが赤い

風の音、沢の水音、そして私の足音のみの道、
 唄うのをやめた私の耳に、
  枯葉が風に舞うさらさらという音が聞こえる。
   木漏れ日が、白いチラチラした斑点を作る。
    吹く風ごとに、後ろを振り返る私

からまつの林を行けば、
 かえでや木つたの舞台を行けば、
  スポットライト色の舞台を行けば、
   しみじみと落葉松を見れば、
    白樺が近づく。
     白い肌に手を触れて、
      そのごわごわしたものをめくってみる

妙義の見える峠に立って、
 浅間の見える峠に立って、
  秋の日差しの温かさを背に感じる


④碓氷峠

高い空が、しろい薄の原の上に広がる。
 辰雄の「いい匂い」の風が、赤い屋根のちっちゃな小屋が、
  からまつとススキの間に

リンゴをかじったその口に、そばをはむ。


 ⑤蕎麦の花


(信濃の続き、大阪なんばにて)


⑥なんば

コーヒーはもう冷たく、上からながめている私たち。
 ガラスの向こうに三百万の人があゆむ
  同じ町を、街を、市を、
   同じ信号で、たった一人で深い木立に
    あゆみこんでいく。
     暗い深い谷に入り込んでいく。
      三百万ものちっちゃな世界の存在が
       風音と沢の水の音とともに

偶然あなたとお茶を飲むからといって、
 りんごを食ったその口に、
  エクレアを甘く感じても、
   二つの世界は一つにならない。


この散文詩についての説明

 この散文詩、「しなの」は、僕が大阪市立大学1回生(なぜだか、関西ではこういう)だった頃に、卒業した高校の冊子、「ささぶえ」に書いたものです。おそらく、記録の残っている一番古い文です。

 この年は、60年安保の年。市大は全学ストに入り、学長をはじめとした教職員と、学生とが一緒になって、御堂筋でフランスデモをやった年。民衆の意向がはっきり現れた、日本最後の時代だったかも…。

しかし、結果は僕に挫折感だけが残り、その秋、夜行列車で名古屋経由、中央本線から篠ノ井線、信越線で、信濃を歩いた時のもの。メランコリックな感じが、若さを感じさせてくれます。今はもう書けないものだとも思います。

その後の学生運動になじめず、市大を離れ、生まれ故郷、東京・谷中に舞い戻ったきっかけにもなった旅でもありました。

 若かった自分を思い出します。


使用した絵:下記はflickerから、Creative common License のものをお借りしました。借用したものをクレジットします。

①: Flickrから Puffyjetさんの千曲川

クリエイティブ・コモンズ・ライセンスこの 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。

④: Flickr からJun Taekuchiさんの碓氷峠
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスこの 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。