M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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ハドソン川に沿って

2017-08-27 | エッセイ



 最近、友達との会話にパリセーデスという名前が出てきたので懐かしくなって、古い、古い“New York City and Vicinity”というAAA(American Automobile Association)の地図を出して眺めてみた。懐かしい名前が続々と記憶に蘇ってきた。1973年ころからの4年間で訪れたIBMのサイトの名前だ。それぞれ、特別な時間を過ごした記憶があるので、それを綴ってみようと思う。



<ハドソン川>

 ニューヨーク州は南北に長い州で、北はカナダ国境に接し、南は大西洋だ。その真ん中をハドソン川がアディロンダック山脈からマンハッタンまで、500㎞くらい流れて大西洋にそそぐ。

 この川のほとりにIBMのサイトが作られた歴史がある。ハドソン川に沿って、訪れたサイトを並べてみると、エンディコットから始まる。



<エンディコット>

 エンディコットは、1911年のIBM発祥の地、北の端。パンチドカードの時代からの小さな町だ。カナダ国境や五大湖のも近いから、寒い村であることは間違いがない。

 1973年11月の初めに雪が降り始めて、僕は雪のアメリカの高速道路なんて運転したくないから、雪に追われてレンタカーを駆って南に逃げ帰った覚えがある。初めてX-Rated(アメリカでは、アダルト映画の過激さをXマークで表していた)の映画を見たのは、隣町のビンガムトン。日本では見ることはできないものだったから、印象的だった。びっくりしたのは、秋の落ち葉を庭で燃やすことが禁じられていた。エンディコットにIBMサイトは、もう存在していない。



<キングストン>

 ハドソンに沿って下っていくと、キングストン。ハドソンの西岸にあるレンガの建物が印象的な街だった。芸術家たちにも愛された町だと聞く。イギリス風のパブが、懐かしく残っていた。このサイトも閉鎖された。1990年代にIBMがハードウエアーから、ソフトウエア、サービスのビジネスに転換したからだ。



<ポーキープシー>

 次は、東岸のポーキープシーだ。ここは絶対的な信頼性を持つIBMメインフレームの開発・製造の拠点だ。今も(2017年)、System Zメインフレームの開発と製造をやっている唯一のサイトだ。僕が、1976年に日本に導入した世界共通のアプリケーションシステムの実証工場だったから、何度も訪れた。この名前を聞いた時、IBMのサイトの名前としては、違和感があった。聞いてみると、ネイティヴアメリカンの「岩に水のある場所」だという。大きな木のタイルで作られたフロアーは、広大なものだった。そこに組み立て中の、昔の巨大なメインフレームがごろごろ転がっていた。



<イーストフィッシュキル>

 下るとイーストフィッシュキル。これも変な名前だと思った。オランダ語で「魚がいる河」という意味らしい。ここはIBMの半導体工場で、親しい人の家がすぐ近くにあった。彼らは、手作りで家を造っていた。一年に、一部屋か二部屋ずつ、完成していくのを見た。西部開拓時代のスピリットが健在なのだ、負けたと思った記憶がある。



<ホワイトプレーンズ>

 次は、ホワイトプレーンズとマウントプリーザントのヘッドクオーター(本社)。ここでの、2か月にわたる1~2月の厳冬期の記録は、別の本「父さんは、足の短いミラネーゼ」に書いているから省略しよう。マウントプリーザントの建物は、ロックフェラー保護区の中にあったから、建物の高さ制限があって保護区の高木よりも高い建物は立てられず、ある意味、贅沢な二階建てだったのにおどろいた。庭を歩いていくと、目の前にハドソンが見えた。



<タッパンジーブリッジ>

 さらに下がるとタリータウン。ここは、全長約5㎞のタッパンジー橋のたもとにある町だ。インターステート87号線と287号線が通る橋で、週末ニューヨーカーが一斉に郊外に出かけるために、大混雑の名所になっている。僕も何度か走ったが、週末のジャムは、とても耐えられない。今、2018年の開通を目指して、“new New York橋”として架け替え工事中だと聞く。不思議なことに、タッパンジー橋には、西から東に渡る車線にしか料金所がない。東から西へは無料ということだ。アメリカ人に聞いてみたら、東側に渡った奴らは、そのうちに西に帰るさという答えが返ってきた。納得した。新しい橋ではどうなるのかなぁと思う。

 ニューヨークからタッパンジーブリッジを渡ると、スプリング・ヴァレー。ここには、延べ5か月近く暮らしたことになる。宿はモーテル、ヒルトンだった。なぜこんなところに…ともいう疑問を持たれるかもしれない場所だ。IBMのサイトはないし、何か有名なものもない。理由はスプリング・ヴァレーが、IBM USAのスターリングフォレスト・システムセンターに一番近い、モーテルとショッピングモールのある町だったからだ。今は、お客様のシステムのバックアップ・リカバリーセンターになっているらしい。



<スターリング フォレスト>
 
 ここに3か月間通い詰めたのは、スターリングフォレストのシステムセンターが、S/360から始まったIBMの世界戦略を支援するツール、今でいうERP(CMIS: Copicsの原型))を開発、保守していたからだ。アメリカはもちろん、ドイツ、フランス、イタリア、日本で同一のシステムを導入することが決っていた。これに乗り遅れたら日本IBMは製造は出来なくて、すべてのマシンは輸入になるという瀬戸際だった、高い関税を払って。

 でもこのプロジェクトは簡単なものではなかった。

 最大の問題は、日本の大蔵省が管轄する税関の問題だった。もちろん裏では、経済産業省が、日本の国産メインフレームの開発、製造を、IBMを敵とみなして支援していたことも絡んでいた。日本国外からの注文は、日本で製造して海外に再輸出するなら、全く別の場所で輸入部品を管理して、再輸出まで追跡できなければ、保税工場としては認められない難題を突き付けられた。

 この要求を満たすには、システムの認識の基本になる「部品番号」のほかに、保税、非保税の属性を識別させる必要があった。しかもあるプロセスでは合計の数を、あるプロセスでは別々に扱うという複雑な要求を満たす機能が必要だった。これを満たすため、部品表管理から、在庫管理、必要量計算、製造への払い出し、個別製品原価計算まで、必要に応じてこの属性に従い、基本は合計で処理するという、システムの基本設計をやる必要があった。

 アメリカの原型のシステムには、このような機能は当然用意されていない。部品番号だけで、すべての処理が行われるように設計されていた。

 僕とアメリカ人のアーキテクト(システム構造設計責任者)の2人で、製造プロセスの頭から完結するまでの、すべてのシステムの処理コントロールのロジックを、データベースを含めて設計していった。簡単に言うと、システムの再設計が必要だったわけだ。これに、3か月がかかった。最終的な、ウォークスルーを、ユーザーを巻き込んで完了したのは5か月後だった。あとは、スペックを書いて、プログラミングに落としていく。

 プログラムが完成すれば、片端から、機能テスト。サブシステムごとの3段階に分けて開発が進んだ。導入テストも、3段階に分けて、順次行っていき、カットオーバー(供用開始)していった。もちろん、システム設計上の問題が発見され、またプログラムのバグも発生した。アメリカ人のSEと日本のSEとの共同作業で解決した。

 サブシステムとして、「部品表管理」、「必要量計算と発注管理」、そして「部品の必要量払い出しと部品在庫管理、個別原価計」の三つに分けて、3年間で、すべてのプロセスを完了した。これが、僕のIBMでの最大の、最も困難なプロジェクトだった。

 この間、スターリングフォレストに滞在したり、出張したり、アメリカ人のSEを日本常駐させたりと、仕事自体がすごい広がりを持っていた。関連ユーザーも多岐にわたった。製品技術、生産技術、製造技術、生産管理、購買管理、原価計算、そしてお役所との交渉にあたる法務の連中と多岐にわたった。

 これが、僕にとってのスターリングフォレストとの関わり合いだった。だから、特別懐かしい。40年もたっているから、このアーキテクトの名前は残念ながら思い出せない。



<IBM マンハッタン>

 ハドソンをさらに下ると、もうマンハッタン。マディソンアベニューと57番ストリートの交差するところにあるIBMのマンハッタンオフイス(41階建て、600フィート)は持ち主が変わっているようだ。でも昔からのアトリユーム(中庭)の美しい竹林は、今でも健在のようだ。

 懐かしい、ハドソン川下りの物語はこれまで。



 追記:U.S.A.各地のIBMサイト:訪れたところをリストアップすると

  ・ロチェスター MN:AS/400開発サイト テクニカルコンファレンスで発表
  ・レキシントン KY:タイプライタ→プリンター開発 オートメーションシステム調査
  ・オースティン TX:オートメーションシステムをピックアップ 藤沢に導入
  ・ボカレートン FL:PC オートメーションシステムの調査
  ・ラレー    NC:PCの開発製造 テクニカルコンファレンスで発表
  ・サンノゼ   CA:ディスク開発支援システムの調査

 今も活動中のサイトは、オースティン(Watsonの開発)、ラレー(ソフトウエア)、そしてサンノゼ+アルマデン研究所くらいだ。



クレジット情報

トップのハドソン川は、Wikipediaからお借りしました。ライセンスは、Creative Commons BY-SA 4.0 です。

「エンカウンター・グループ」で、僕は本当の僕になった

2017-08-13 | エッセイ



 何回か前の、「紅葉坂とモラトリアム人間」の延長線上で、TA(交流分析・心理学)の周辺領域の本を読んでいる。現役は退いたとはいえ、やはり、この領域には依然として興味がある。

 読書の記録リストにある170冊の中で、改めて読み直してみると、あたかも僕の実体験の記録ではないかと思うような本に出合った。



 <本とパンフレット>

 本は、カールロジャースの日本名、「エンカウンター・グループ」(人間信頼の原点を求めて)だが、原題の方がぴったりとくる。“Carl Rogers on Encounters Group”:カールロジャースのエンカウンター・グループ理論”という方がいいと思う。(人間信頼の原点を求めて)という副題は、ちょっとミスリードしそうだ。カールロジャースは、人間の信頼の原点に、人間がいると言っているだけで、方法論的に原点を求めているわけではない。



 <タホ湖>

 僕が、このエンカウンター・グループを体験したのは、TAの創始者、エリック・バーンの数少なくなった直系の弟子、ミュリエル・ジェームズ博士のカリフォルニアのタホ湖でのワークショップの中だった。1週間単位の独立したワークショップがあって、僕はその3つに連続して出席した。



 <ミュリエルと>

 この4週間の休暇は、IBMの25年勤務のサバティカル(Sabbatical:研究休暇)として与えられ、ワークショプの費用も会社が持ってくれるという幸運に恵まれたからだ。ちょうどその頃、僕はIBMを退職してからのセカンド・ライフの設計中だった。僕自身が、日本人の故岡野先生の指導に影響を受けて、20年くらい前からTAの勉強を独自に自費でやっていた。

 岡野先生の薦めもあって、僕はこのワークショップに3週間を当てることにして、休暇を取ったのだ。



 <ワークショップ風景1>

 ワークショップには、世界中から、20名強の人が参加していた。目的はTAの研究、勉強と、各々の持つ自分の問題の解決という、二つの主流の命題だった。参加した人たちは、人種、国籍、宗教、性別、言語、年齢、職業、金持ちか否か、肌の色、などなどのすべての個人の持つ属性を超越して、世界中からの参加者がいた。



 <ワークショップ風景2>

 TAの命題は、このエッセイの目的ではないから、もっぱら、エンカウンター・グループ体験について書いてみる。(TAの研究の中身、体験については、僕の本「父さんは足の短いミラネーゼ」の「タホ湖」を参照ください。http://forkn.jp/book/1912/)

 エンカウンター・グループが行われたのは、最初の1週間のワークショップの、3日か4日目だったと思う。それまで同じコンドミニアムで、5つの模擬家族で活動していたから、エンカウンター・グループの15のプロセス(過程)の中の、「6:グループ内における瞬時の対人感情の表出」までは、終わった状態になっていた。つまり、ワークの準備は完了していた。



 <ワークショップ風景3>

 このグループワークの目的は、「個人をひも解くこと」と「孤独を和らげる方法」ということにミュリエル博士が定義した。これは、ロジャースが言っている命題でもある。

 そして、具体的な導入部としての切っ掛けを語った。

 “あなたの記憶している一番古い思い出、悲しい思い出を思い出してごらんなさい”だった。そして、20人位のグループの中で各自、一人だけで、自分の過去の古い思い出を探した。そして、簡単なメモに取った。

 僕は、自分の過去を紡いでみた。思い出したのは、“小さな僕が、暗い大きなガランとした映画館に一人で座っている姿”だった。周りには、父も母も、だれもいなかった。それは、間違いなく、寂しさだった。“そうか、僕は一人ぼっちで、さみしかったのだ”と思った。それまで、僕は、僕の心の奥深く潜んでいたこの寂しさを、認識していなかった。ちっちゃな子供の心が、そう感じていたのだ。

 順番に、皆が、自分の話を始めた。僕の順番が回ってきた。その思い出を話し始めた。話していくうちに、突然、涙が込み上げてきた。僕は、他の人の前では涙を見せたことがなかったが、話していると、止めようもなく涙が、大粒の涙がこぼれ落ちてきた。止めようはなかった。何時か大声で泣いていた。

 それは僕のさみしい姿を自分で見つけたからだ。自分で、自分がさみしがり屋だと自覚したからだった。後は、グループみんなからの慰めと、好意的なフィードバックを受けた。それは、“みんなに、あなたの寂しさは伝わってきた”とか、“状況を客観的に話していた”とか、“もうだいじょうぶだよ”とか、僕がそこで追体験したさみしさを慰め、僕を励ましてくれるグループの力だった。



 <グループ>

 それは、ロジャースの言う、グループの持つ自然な治癒力そのものだった。と同時に、僕自身が、そのような自分をそのまま受容することだった。従来身に着けていた、仮面を脱ぎ去ることだった。大きな変化の始まりだった。

 ロジャースの理論でいえば、自己を「不適応状態」から、「適応状態」へ転換することが、皆の力を借りて出来たということだった。つまり、自分を自由にする、素直にするグループの治癒力の発揮だった。



 <自己概念の形成>

 僕は許されたと安心した。自分をさらけ出せると、好意的なフィードバックが教えてくれた。僕は、新しい自分をさらけ出せると自信がついた。そして、自由になったと実感した。

 その後、僕の生き方は、変わった。家族への接し方、友達への接し方、同じTA研究会のメンバーへの接し方、会社の人たちとの接し方が、自然のままでよく、自分で楽ちんになった。

 体験したことは、まさにロジャースが言う、クライアント中心療法(Client Centered Therapy)の、“人間は成長するもの、人の性格は本能であり、成長可能なもの”とみる考えそのものだったと認識した。ロジャースの言っている“孤独が和らげられる方法としてのグループ経験”であり、僕は“ありのままでいいのだ”と安心したのだ。

 タホ湖のワークショップの終わりに、皆で、お互いへのメッセージを交換した。添付の寄せ書きは、今でも僕の宝物。


 <フィードバック1>


 <フィードバック2>

 P.S.
 個人を意識した“クライアント中心療法”が発展して、グループ力による治癒、“エンカウンター・グループ”理論に発展したのだと、確信している。