M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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海外の空港たちー10 仕事のUS

2019-09-29 | エッセイ・シリース

  

 <北アメリカ飛行場マップ> 

 これまで取り上げていない空港を見ておこう、トランジットも含めて、全部仕事での発着だ。地図の表示にしたがって、北から見ていくと、 

・アンカレッジフェアバンクス

  <フェアバンクス空港>

  その昔、日本から北アメリカ、例えば、J.F.K.には直行便が飛べなく、ガソリンがもたないので途中での給油の必要があった。アンカレッジは、このシリーズの最初で書いたから省くとして、フェアバンクスはとても珍しい着陸だった。予定にはなかったのだが、アンカレッジの代わりにアメリカ空軍の基地、フェアバンクスに降りたことがある。アンカレッジが何かの理由で使えなかったのかも知れない。

 <マッキンリー山> 

 どちらに降りても、北アメリカ最高峰のマッキンリー山(今は改称してデナリ、6,194m)がよく見えたのが印象に残っている。機長が、必ず案内してくれていた。 

・ヴァンクーバー

 

<ヴァンクーバー空港> 

 ここは正確にはカナダだが、アメリカ出張の帰りに許されていた「ワン・ナイト・ストップオーバー:一泊」で寄ったところだ。一言でいうと、街も地形も、サンフランシスコに、よく似たところだった。カナダには、いろいろな民族がいるから、アメリカ人のように自分のペースで米英語を話すのではなく、分かりやすく、少しゆっくり、しゃべってくれる親切さを感じた。アメリカ人の多くは、英語は自分の言葉だから、外国人も当然、同じように英語がしゃべれるものと勘違いしているようなところがある。そういうことで、ヴァンクーバーの人たちの優しさを感じたのかもしれない。

 

 <ヴァンクーバーの街> 

 帰りのエア・カナダでは、日本人の学生が強制送還されているのに出くわした。なぜ強制送還だったのかは、分からないままだ。そういえば、ヴァンクーバーは僕が日本脱出を計画した時の候補の一つだったが、寒さと、雨が多いのでやめた記憶がある。 

・シャーロット

 

<シャーロット空港> 

 ミネアポリスから、ローリーに行くためにここで乗り換えた。その飛行機が滑走路に出ようと誘導路で待っていたら、目の前で、タッチ・アンド・ゴーを見た。民間航空機が、こんなことをやるとは思っていなかったから、他の乗客と一緒に声を出して、「エーッ」と叫んでいた。ランウエイへのタッチダウンが遅すぎたったのだろう。軍用機のタッチ・アンド・ゴーは見るけど、大型の民間の航空機が目の前でこれをやるとは思わなかった。こちらが、怖くなった。 

・ダラスとオースティン 

 多品種、少量生産の電子回路基板の組み立て工程支援のために、何か良いシステムはないかと調べていたら、テキサスの州都オースティンのIBMに、そんなシステムがあると聞いた。こういう時には、ベテランSEを連れて、実際を見るしかない。

 

 <でかいダラス空港> 

 ダラス経由でオースティンに飛んだ。コンセプトは、今では日本でもよく見かける、5~6段のコンべアー式のカルーセル型の倉庫のような筐体に、組み立て用のステーションをいくつでも自由に組付けられるラインだった。このステーションをコンピューター制御で、組立てる製品は個別に動いていく。こんな生産形態は見たことがなく、とても面白いと興味が湧いた。これなら、ユーザーの要望にも応えられると踏んで、日本への導入を支援してくれるように、オースティンのマネジメントに話をつけた。

 

 <オースティン空港> 

 日本のマネジメントの了承を得て、日本への導入のため、システムを細かく調査し、検証をしてもらうため、二人のSEを連れて訪れた。日本へのピックアップ作業の開始のための準備だった。このプロジェクトのため、信頼していたベテランSEの一人を3か月も、オースティンに張り付けた。

 

<IBMアオースティン> 

 楽しいことは、たくさんあったが、いくつか挙げてみると、

  ・テキサスの女性は、とても女らしく、フェアリーな存在だったと発見したこと

  ・下町のダン・マクロスキーのステーキハウスが、生肉の注文から、始まって、サービスまで、

   素敵なレストランだったこと(いまはもうなくなっている)

  ・テキサス州都オースティンには、昔の南軍の連邦旗が堂々と掲げられていたこと 

・サンフランシスコ 

 サンノゼへ行くには、仕事の場合は大体サンフランシスコに降りて、そこからレンタカーでルート101を南下して、サンノゼに向かうのが常だった。そのころのシリコンバレーの中心的なIT産業の存在の一つがIBMだった。いまは、GAFAにお株を奪われて久しい。

 

 <サンフランシスコの上空マップ Google> 

 サンフランシスコは何度行ったか分からない。アメリカで住むとしたら、サンフランシスコが一番だと思っている。理由は簡単、車がなくても生活できるからだ、人間は、歩いているのが一番。サンフランシスコはバートもあるし、ケーブルカーもあるし、人間が歩いて生活できるように作られている。 

 <サンフランシスコのケーブルカー:ライセンスはCFDL 1.2>

 ニューヨークのマンハッタンも、車なしでも生活できるが、あまり好きではない。人がせかせかし過ぎている。サンフランシスコンは、ゆとりを感じていた。 

 これで、ビジネスで使ったアメリカの空港は終わりだ。あとは私用での空港だ。


海外の空港たちー9 USの長い旅

2019-09-15 | エッセイ・シリース

 

 アメリカには何度も行っているが、こんな長い旅は他に記憶がない。

 

 <飛行図> 

 一応、書いておくと、成田→ミネアポリス、ミネアポリス ⇔ ミネソタ州ロチェスター。ミネアポリス → ケンタッキー州レキシントン → ノースカロライナ州ローリーへ。さらに、そこからフロリダ州マイアミへと下って、帰りはニューヨーク経由成田という、長い長い旅だった。 

 足してみると、ざっと25,000㎞にもなる飛行距離だ。わかりやすく言えば、成田~JFKが10,000㎞だから、日本とアメリカを往復し、さらにアメリカ国内を5,000㎞の旅をやったということになる。 

 目的は二つあったから、こんな旅になったのだ。 

 一つ目の目的は、IBM社内のシステム論文に選ばれて、ロチェスター(北部)とローリー(南部)の2か所で発表することになったこと。 

 もう一つの目的は、大量生産のオートメーション・ライン管理システムを調査することだった。これは、IBMの製品ラインが大きく変ったことに対応したもので、日本IBMの製品開発製造部門にとっては、大変な問題だった。当時、日本IBMには、大量生産のオートメーション製造ラインを制御するアプリケーションは無かったので、アメリカの大量生産姉妹工場を訪ねることになったのだ。プリンターのレキシントンと、パーソナルコンピューターのフロリダ州ボカレイトンを選んで、オートメーション管理システムを調査、研究するためだった。

 

 <ミネアポリス空港> 

 ミネソタ州ミネアポリスは、ノースウエスト航空(今はデルタに吸収された)のハブで、ミネソタ州の州都でもあり、大都市だった。ロチェスターに行くために、ここで1万キロの旅の時差ぼけを調整するため、一泊した。よせばいいのに、スペイン・レストランで、冷製スープの辛いガスパチョを食べたのが悪くて、胃が痛くてよく寝られなかった記憶がある。ガスパチョはとてもホット(辛くて)で胃がやられた。その後、ずっと敬遠している。


 

<ロチェスター空港> 

 ロチェスターは、システム38という小型コンピューターを開発製造していたサイトだった。広大な敷地にThe Big Blue Zoo(大きな青い動物園)というニックネームで呼ばれるTech Campusに、ピーク時には6,000人もの技術者がいた。システム38は、その後、AS400となり、今のIBM i(アイ)シリーズに発展した。

<IBM Rochester>  

 ロチェスターの地域経済は、IBMと全米で有名なメイヨー・クリニックでもっていたと言われた時期があった。 

 ここでは、アメリカ北部のサイトのIT技術者の前で、日本での「CIM:Computer Aided Mfg」を紹介した。僕たちは、いわば客人だった。そのコンファレンスで、同時に紹介されたのが、ローリーの「PC生産コントロールシステム」だった。ローリーでは、南部のサイトのIT技術者を集めて、同じく藤沢とローリーのシステム発表会をやった。

 <ミネソタブルーと呼ばれたサイト> 

 いろい質疑応答があって、どこかで、二つのシステムの評価のような話になってきたので、僕は立ち上がって、目的の違うシステムを比べて評価しても意味はないと意見を述べて、議論を打ち切った記憶がある。珍しい日本人だということになったと、駐在の日本人エンジニアが、後になって僕に知らせてくれた。彼に言わせると、ミネソタは、数えきれない湖と地べたの州だと、半分、ぼやいていたのが鮮明だ。

 

<ローリー・ダーハム空港 by Google> 

 ついでにローリーでの話を終えておくと、ローリーにはトライアングルパークという研究や製品開発の地域ができていて、地元ノースカロライナのTech Parkとして位置づけられていた。この三角形は、デューク大学、ノースカロライナ大学、州立NC大学が一緒になって、プロジェクトを始め、先端企業を呼び込んだようだ。そこにIBMも加わって、当時のIBM PCと最先端ThinkPadの開発を、日本の大和研究所と一緒にやっていたのだ。

 

<リサーチ・トライアングル・パーク> 


 もう一つの目的で、僕たちはオートメーション化された製造を管理しているシステムを見に、ミネソタから、ケンタッキー・ダービーとバーボン・ウイスキーで有名なケンタッキー州のレキシントンへ飛んだ。空港は、Blue Grass Airportと呼ばれるだけあって、草原の真ん中に、空港が小さく見えた。

 <Lexington 空港>  

 元々ここは、IBMタイプライター工場だったが、その頃には、プリンターを大量生産していた。キーボードのボタン成型から、プリンター本体までの水垂直統合の生産をやっていた。こんなシステムは、今までIBMでは見たことがなかった。まさに現場の状態を管理し、データを取っていた。僕たちには、新しい経験だった。その後、Lexmarkの工場になっている。

 

<大西洋に面したマイアミ空港 By Google> 

 僕たちは、ローリーでのCIMシステムの発表会を終わって、フロリダ州のマイアミに飛んだ。ここは、アメリカ人が、退職後にはゴルフをやって、ゆっくり過ごすのだと憧れている州だ。地図でも分かるとおり、ここはアメリカ合衆国の最南端。マイアミは年寄の多い、すべてがゆっくり動いている街だった。どこか、日本の熱海を思わせる、大西洋に面した街だった。 

 さらにマイアミから車で、ボカラトン(彼らはボカレイトンと呼んでいた)を訪れた。ここは、ロボットを使ったIBM PCの組み立て工場で、これも、オートメーションと一体化したロボットの挙動管理、データの管理をやっていた。全く人のいない工場は、IBMでは、まれな光景だった。

 

<IBM ボカラトン> 

 休みの日に、キューバに近いキーウエストまで、大西洋とメキシコ湾に挟まれたハイウエーのSeven Miles Bridgeを260㎞、日帰りで走った。 水の上を低空で飛行しているような感じのドライブだった。ここは、アメリカの東海岸をニューヨークまで走るルート001の起点だった。ちなみに、キーウエストから、ハバナまで170kmだから、マイアミより断然キューバに近い。

 

<セブンマイルズ橋> *

 マイアミから1300㎞を飛んで、JFKに戻り、そこで一泊して、成田に飛び立った。

 とにかく長い長い旅だった。そして、アメリカのデカさを体感して疲れた旅だった。


 

P.S.*

 

7 Miles Bridgeの絵は、AveretteさんのCreative Commons 3.0をお借りしました。



 

 

 



海外の空港たち–8 ジョン. F. ケネディ

2019-09-01 | エッセイ・シリース

 

<J.F.KからJFKへの飛行図> 

  日本からのJFK(ジョン・F・ケネディ空港)への着陸は、大西洋に面したロングアイランドの沖まで迂回してから、陸に向かってアプローチするのが普通だ。しかし僕たちは、マンハッタンの高層ビル群をかすめながら、北のほうから直接、JFKに近づいたことがある。しかもふらつききながら。 

 僕はその日、東京への直行便をゲートで4時間以上も待っていた。メカニカル・トラブルというやつで、鼻先のあたりのペンキがはがれた、疲れたような搭乗機DC-8を恨めしそうに見ながら、ボーディングのアナウンスを待っていた。

 

<JFK 上空から by Joe Mobel>*1 

 やっと離陸して水平飛行に移り、カナダ上空に入ったなと思った時、急に大きく機体が揺れた。別に音はしない。しかし機体の揺れは落ち着かない。主翼の上についている機体を安定させる小さな板が、小刻みに動いて機体の左右への揺れを防いでいる。しかし、いつもと安定度が違う。ちょっと変だなと思った。 

 そんな状態がしばらく続いたあと、機長のアナウンスがあった。この飛行機は、オイル圧力コントロールの機能が正常に働いていないので、機体の安定をうまく保てない状態にある。手動で機体の安定を保って飛んでいる、とのこと。乗客の間にざわめきが起こった。一方の翼が反対側の翼より上に行ったり、逆に下に行ったりして水平が保たれていない。 

 さらに機長からアナウンスがあった。安全のためJFKに引き返すとのことだった。太平洋を横断するのだから、安全は重要だ。 

 ここから異常な経験が始まった。大きく片方の翼を上げてUターン。着陸時の安全のために満タンの燃料を空中放出するという。主翼の先から霧になって燃料が空中にばら撒かれていく。もちろん禁煙のサインは出ている。空は曇りだ。燃料が白く流れ出て行くのを見ていた。その間も機体は小刻みに左右にゆれている。しかし直接的な危険を感じてはいなかった。カナダの、どこかの飛行場でもいいじゃないかとも考えた。  

 とても長く感じられた時間が過ぎて、飛行機はニューヨークに近づいた。JFKに着陸するのに、その飛行機はマンハッタンの上空を超低空で低速で飛行しているのを知った。機体はいぜんとして、左右に揺れて安定しない。高層ビルが、すぐ目の下にある。こんなところは、普通は飛べないなあと思った。ロングアイランドの姿はない。太西洋に出るようなそぶりはない。ああ、真っすぐ入っていくんだなと思った。

 

<すぐ足の下に、マンハッタンが見える>*2 

 着陸用のフラップが、ゴリゴリと音を立てて主翼から出て行く。アナウンスがあって、僕たちは、眼鏡、時計、腕輪とか、身につけた金属をすべてはずし、皆自分のひざの上に上半身を突っ伏し、緊急着陸に備えた。エンジン音が大きく聞こえる。突っ伏しているのだから外の様子は見えない。音と振動だけが僕たちへのフィードバックだ。高度を下げエンジン音が急に小さくなる。ゴゴゴオーンと足元から振動がきた。着地だ。エンジンの逆噴射が異常に大きく響く。滑走しているのが、とても長い時間に感じた。止まった!突然、皆が拍手した。よかったなーと、やっと顔をあげた。 

 窓の外を見ると、消防車が何台も僕たちを取り囲んでいる。化学消防車やアンビュランスも何台もやって来ている。消防車たちは、放水銃を僕たちの方に向けて、何時でも放水するぞ、と待ち構えているのが見える。すべての車両が赤と青のランプを回転させている。非常事態なのだ。僕たちはすっかり取り囲まれていた。

 

<消防車>*3 

 その時、僕は始めて恐怖を感じた。僕たちは本当に危険なのだ!エンジンは滑走路の真ん中で、シャットダウンされたままだ。飛行機はタクシーをして、ターミナルには行けない。空港は閉鎖されているようだ。 

 タグの車が来るのが見える。曇り空のJFKは、僕たちの飛行機を取り囲んで静かなように見える。静まり返っているように見える、何かが起こることを予想してか?

 恐怖だ。やっとタグがやって来て、僕たちは彼に引かれてターミナルに向う。

 

<タグ> 

 ゆっくりと機体が動いた。ほっとする。ところが、僕たちの機体がゆっくりとターミナルに向かう間も、緊急自動車たちは、僕たちに放水銃の銃口を向けたまま、そのままの陣形で、僕たちを取り囲んだまま、飛行機について来るのだ。機体が発火する危険はまだ消えてはいないのだ。ゆっくりゆっくり飛行機は、タグに引かれてターミナルに近づいて行った。 

 僕たちは、それからさらに待たされた。すぐに変わりの飛行機が準備され、それに乗り換えて日本へ飛び立てると思っていたのだが、航空会社は代替の機体は準備できないので、同じ機体を修理して日本まで飛ぶというのだ。「ちょっと待ってくれ!」ってことになる。何人かはキャンセルしたり、他の航空会社に便を変更したりしていた。僕たちはそれもできず、ロビーでぐったり疲れて、修理が終わるのを待っていた。おいおい、またこんなボロ飛行機で13時間も太平洋を越えるのかよと思いながら僕たちは待ちつづけた。 

 僕たちが、その同じ機体に乗って東京に到着したのは予定の20時間遅れ。最悪のフライトだった。

  

P.S.

クレジット情報:

*1:Joe Mobel さんのJFKを借用。Creative Commons Alike 3.0

* 2::Audlrey Julienneさんのマンハッタンを借用。Creative Commons 2.0

* 3:Kathleen MaherさんのFire Enginを借用。Creative Commons 2.0

 注:このエッセイは、単行本、「父さんは足の短いミラネーゼ」にあるものを、再校したものです。読んでいた方がいらしたら、ゴメンナサイです。