M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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銀座をぶらりと歩いてみると 

2017-01-29 | エッセイ



 昨年の暮れ近く、2017年のカレンダーを買う目的で、有楽町から銀座へ歩いてみた。目標は2丁目のイトー屋だ。大体、毎年、ここでリビングのカレンダー、二か月カレンダーを買うことにしている。それと、高橋の手帳がセットだ。
 


 <イトー屋>

 二か月先までわかるカレンダーは、もうせん、結構たくさんあったのだが、最近は探してもなかなか見つからない。横浜の有隣堂をチェックしたことがあるが、品ぞろえが貧弱だった。そこで、気晴らしを兼ねて銀座まで足を延ばすことにした。

 有楽町についたのが11時過ぎで、昼飯の時間でもあったので泰明小学校の前を歩いて、僕の好きな蕎麦屋に向かった。この店は、元は銀座7丁目にあったのだが、最近、5丁目に移った。だから初めての店。グーグルを片手に店を探すが、なかなか見つからない。外堀通りを超えるはずはないのだが、手前には見つからない。仕方がないので、外堀通りを渡ってみる。

 しかし、これがすばらしい発見のきっかけだった。

 蕎麦屋は、本当にわかりにくい所に入り口があった。看板も貧弱で、見過ごすのは当たり前。なんとかたどり着いて女将に文句を言ったら、申し訳ありません、建物の構造が…と返ってきた。仕方がないかと、つぶやいた。心の中では、この店は、あまり喧伝したくないという気持ちもあった。うまい、鴨せいろは健在だった。久しぶりにせいろを食べた。これが僕の大好物。7丁目の店では問題だった喫煙も、新店舗では昼飯時は禁煙になって、居心地はよくなっていた。

 蕎麦を食べて、先程の発見の話に戻ると、外堀通りを超えて、交詢社通りを銀座・中央通りに向かって進むと、右手にギャレリー・タメナガ(為永画廊)がある。その窓に「ルオー展」とある。最初に見たときには、エッと驚いた。でも、その時は蕎麦屋の方が大切だったったから、後回しにした。何しろ、お腹がすいていた。そして、鴨せいろに、心は奪われていたからだ。

 人心地がついて、銀座の中央通り(昔は中央なんて言わなかった)に向かって歩いていく。そしてルオー展の看板を見る。なんと本当にルオー展をやっているようだ。僕は結構、東京の展覧会の情報を見ているけれど、ルオー展なんて、どこにも書いていなかった。半信半疑だった。しかし、ルオー展だった。



 <ルオー1>

 人気のない画廊に入るのは、ちょっと緊張する。いわんや、初めての画廊だから余計だ。僕が入った時には、他に客はいなかった。店には、女性一人と男性二人の店員がいた。ちょっと、高級感のある画廊だった。女性の店員に、ちょっとみせてくださいと声をかけて、最初の部屋の絵を見始めた。



 <ルオー2>

 すばらしいルオーの油彩だった。奇妙なことに気が付いたの少し経ってからだった。絵の表題のプレートの下に値段がついていた。えっと驚いた。見ると、500万ほどの値がついていた。驚いた。ここは売り絵の画廊だったのだ。しかも、ルオーの作品を50点以上集めている。こんな贅沢は経験がないし、こんな展覧会が開かれているなんて知らなかった。

 まあ、場違いなところに足を踏み入れたのが分った。僕のような、ジーンズで、ふらりと立ち寄るような店ではなかったのだ。高級車で乗り付け、店員がすっ飛んできて、ご機嫌を伺うのが当たり前のような店だったのだ。おそらく、客には、前もって、パンフレット等の資料を送って、購入を勧めていたのだろうと思う。



 <ルオー3>

 僕にはルオーは買えそうにもないが、ルオーの絵が好きなことは間違いない。親父が一時期、ルオーにはまって、濃厚なマチエールをクトーを使って作っていたことを思い出す。僕自身も、汐留のパナソニック美術館を訪ねて数点のルオーの館蔵品を二回ほど見ている。絵を買いそうにもない客には、店の責任者も、店員も寄っては来ない。場違いな画廊に入り込んだわけだ。こちらは逆に、マイペースだ。



 <パナソニック美術館のルオー>

 この展覧会は素晴らしかった。こんなにルオーを一堂に集めたことは、日本ではないことだろうと思う。一枚一枚、楽しんで観た。見慣れた絵もあった。まったくルオーらしからぬ若い時代の絵も集めてあった。

 男性の店員に、絵は撮らないから、展覧会の紹介パネルを写真にとっていいかと尋ねたら、丁重に断られた。でも、絵はタダで楽しめた。画廊にしたら、どうでもいい客だったのだろう。僕が入って絵を見ていたら、ウインドー越しにそれが見えたのか、やはり、高額な絵は買えそうにない中年の女性が入ってきて、ちょろりと見て、すぐに出て行った。やはり、ルオーの看板に惹かれたのだろう。



 <ギャラリーと僕>

 どちらにしても、楽しんだわけだ。稀有な機会でもあった。わかりにくい蕎麦屋さんのお陰でもある。後で調べたら、エコール・ド・パリ派の絵を1960年くらいから、パリで買いつけ始めたのが、この画廊の誕生になったようだ。パリと大阪に支店がある。

 目的のイトー屋は、数年かけた改装で、店の雰囲気ががらりと変わっていた。店に入る前から、感じが悪かった。正面の真ん中にガラスの壁があって、お客の入り口は、その左右にある。お客は、左右の狭い入り口から頭をかがめて、店に入ることになる。もっと残念だったのは、中に入ると、改築前は上層階まで吹き抜けの空間が客を迎え入れてくれたのに、その吹き抜けが無くなって天井が頭上に迫っていた。前だったら、2階から、3階から、1階も見え、人の目線の揺らぎがあった豊かな空間だったのに、それをダメにしていた。見通しが悪いから、開放感がないのだ。がっかりだ。イトー屋の長年のファンとしては、この改造は完全な失敗に見えた。

 狭い3階で二か月カレンダーを物色して、番号を控えて、引き換えカウンターに足を運んで、商品を受け取り、高橋の手帳を購入して、遅いエレベータを不機嫌に待って、そそくさと店を出てきた。これで、また一つ、僕の楽しい店が銀座から消えた。


P.S. クレジット情報
ルオーの絵は、1、2、3は、為永画廊のHPからの借用です
4は、汐留、パナソニックピュージアムで買った絵葉書です


「逃げるは恥だが役に立つ」の考察

2017-01-15 | エッセイ



 TBSの久しぶりのヒットとなったドラマ、「逃げるは恥だが役にたつ」が高視聴率で終わり、影響を受けた若者から懐かしがられていると聞く。



 <TBS 逃げるは恥だが役に立つ HPより借用>

 僕は全部ではないが、見ていた部分から感じたこと、思ったことを、僕の解釈で書いてみる。

 結論からいうと、現在の若者たちに対して、このドラマの持つ意味は、「恋愛教則本」とでもいえるハウツー・マニュアル、恋愛教本と理解した。つまり、出会いから恋愛結婚に至る基本的技法を、初歩から段階を追って学ぶ教科書なのだ。

 昔は普通に経験した異性との接触、経験、苦悩、挫折、再チャレンジなどの身体的接触で、生身の人間として学んでいた。もちろん心的衝動に押されて。しかし今の若者は、その両方を無くして、ヴァーチャルの世界に住んでいるようだ。昔でいえば、オタク、一歩手前にいる大多数の若者へのテキストではないのだろうか。

 僕の接する若者たちは、表面的には人間関係を作ってはいるが、非常にあいまいな距離を持っていると感じている。それは、おそらく、感情を体で表現することの怖さに怯えているのだ。たとえばハグ。もっとも入門的な肉体的接触で得られる繋がり。さらには、汗っぽさ、温かさ、柔らかさ、跳ね返る弾力、熱っぽさ、息きづかいなどの感触に裏打ちされた経験は、まれなようだ。

 おそらくは、感情的な、もしくは動物的な衝動で行動すると、相手が傷つく、また自分が傷つく。それが怖いのだろう。結果として、トライ アンド エラーを試す勇気がない。端的に言うと、失敗が怖いのですくんでいるのだ。

 あるデータを見ると、そのあたりが見えてくる。特に男の子に見られる傾向は、いわゆるママゴンの支配下に置かれるのに慣れてしまったのだろう。何しろ、大学の卒業式、入社式まで親がついてくるのが、恥ずかしくない世の中になってしまっている。僕たちの頃だったら、精神的に独立していて、恥ずかしいから「やめろ」と親に言っただろう。

 こんな驚くようなデータがある。それは男性の童貞率だ。

 男性の20歳代のそれは40%、30歳代で25%(四人に一人)、40歳代でも10%というから驚きだ。生身の女性との付き合いができない結果の数字だと解釈できる。セックスなんて怖いのだ。セックスはできないのだ。昔は自分で本を読み、自分で想像を膨らませ、やってみる勇気を持ったものだ。しかし、こういう行動がなくなったようだ。

 女性を知る方法が、生身の体験ではなく、ヴァーチャルの世界になって、本物の身体を持った生身の女性を知らなくなったのだろう。一方、女性の方が行動的だと言えるかもしれない。

 特に団塊の世代の子供たちは、父親との接触が少なく、母親に育てられたから、男の視点で女を見ることを知らないようだ。女性はある意味、怖い存在なのだろう。

 そんなことから、知り合ってから、結婚に至るまでの、教則本=このドラマが歓迎されたのだと思う。



<進展のステップの図>

 ドラマの流れで見ていくと、女性が契約社員として、童貞の男の世界にかかわり、♂♀の関係に入っていく。しかもそれは、内からではなく、外からの進行設定になっている。つまり、衝動ではなく、環境設定から始まって、自分自身の感情の分からない男が、物理的なハグに初めての接触を体験する。そして、同居人の関係まで育つ。さらには、他の男と彼女の仕事のシェアで感情が刺激され、恋人同士の関係が深まる。

 巧まれた社員旅行で疑似恋人を経験し、ハグから、キスへと入り込んでいく。つまり、感情の世界へ、幸せの世界へやっと足を踏み入れる。そして、恋人同士の甘い生活になり、最終的にはセックスにたどり着き、結婚のプロポーズへと進む。

 こう見てくると、やはり教則本だ、マニュアルだといっても、あながち、見当外れではないと思う。

 今のままでは、日本は衰亡の方向に、確実に向かっている。

 総務省の統計局のデータ(平成25年10月)がそれを物語っている。





 

<データx3>

 今から30年後には、人口は1億人を切り、100年後には、4千万人まで落ちていくという推定がある。先に述べた、童貞率の高さを思うと、この問題はかなり厄介だ。

 大人の人口が増えるには、最低30年はかかるとみるべきだろう。それは、今、結婚していて、すぐ子供が誕生するという想定での話だ。こうしてみると、日本の人口が1億人を切るのは、避けて通れないようだ。

 教則本が効果を題してくれればいいのだが…。
 若い皆さん、自分で考えてみてください。


親父の描いた教会

2017-01-01 | エッセイ


1903年生まれの親父が87歳でくたばってから、もう26年になる。

 若いころは、僕と確執のあった親父だったけれど、自分のカスケットリスト(棺桶リスト)を作って自分の歴史を整理していると、やはり親父の絵のことを書いておかなくてはならないと思う。

 所用があってアメリカ大使館に行ったついでに、親父が描いた「霊南坂教会」の絵の写真を持って、霊南坂教会を訪ねたことが始まり。アメリカ大使館のスペイン風の白い壁を右手に見て、霊南坂を登りきった丘のてっぺんにある教会で、建て替え中のホテル・オークラにも近い。



 <霊南坂教会1935年>

 1935年に親父が描いた霊南坂教会堂はモダンなレンガ造りになっていた。中に入って、親父絵の写真を見せて、この絵があるかどうかを聞いてみた。残念。いろんな倉庫を探してくださったけれど絵は無かった。親父の絵は、建て替えられる前の、辰野金吾が1917年に設計した木造の霊南坂教会を描いていた。

 そんなことがあって、東京に残っている親父の絵を訪ねてみうようと思い立った。横浜でも描いたらしいけど、データがない。親父は戦前、「教会の德山」と洋画壇で教会の名手として知られた存在だったようで、いくつか写真が残っている。

 そのなかに本郷の教会がある。訪ねてみることにした。秋の空が広がった本郷。ここは、僕が生まれた物理的な故郷でもある東京大学医学部付属病院に近い。

 小ぶりな教会だった。尖塔は親父の絵のような形をしていた。ここに間違いないようだ。教会だから、開かれた世界だ。玄関ホールで靴を脱いでスリッパに履き替えて頭を上げたら、その正面に僕が探していた親父の絵があった。

 あっと息をのんで近づいてみる。思ったより小さな絵だった。ダウンライトに照らされて、その絵は80年の歴史を僕に見せてくれた。



 <本郷の教会 1934年>

 この教会の建立者、アメリカ人の司祭が東大生への布教を目指して1903年に建てられたと聞く。それは、ちょうど親父が生まれた年だ。そして、1934年に当時の牧師から「教会の德山」と呼ばれていた親父に絵にしてほしいと依頼があったようだ。

 親父の巍(たかし)の“tacashi“のサインも見え、探していた絵だと確認できた。僕の鼻に熱いものがフッと湧いてきた。僕自身が驚いた自分の反応だった。うれしかったのだろう。

 この絵は戦前の建物で、奇跡的に残った十字架以外、すべて東京大空襲で燃え落ちたという。その後、再築されたのが今の教会だ。デザイン的に戦前の面影を残した美しい木造建築だ。

 なぜ、親父の絵は戦火から逃れたのだろうか。資料によると、この絵を、アメリカに帰国されるアメリカ人司祭に記念として日本の牧師が贈られたとある。そして、戦後、教会の再築の時に、アメリカから逆にお祝いとして送り返されたという。この絵は、アメリカと日本の間を、戦火を逃れて往復したわけだ。数奇な幸運の運命を刻んできた絵だった。



 <現在の教会>

 会堂の扉を開けると、パイプオルガンの響き、心が落ち着く懐かしい音色だった。自分の世界に浸れると、演奏者は自分自身の時間を紡いでいらした。やわらかな音色は、教会にふさわしい。

 秋の銀杏の特異な臭いに満ちた本郷通りを歩いて、東大の正門からキャンパスに歩み入った。目的は、僕が生まれた東京大学医学部付属病院の一番古い建物を、写真に撮っておきたかったからだ。



 <東大付属病院>

 しかし、残念。その古い小さな煤けた色のコンクリートの別館は取り壊され、工事用のプレハブ小屋にとってかわられていた。残念。もうせん見たときに写真を撮っておくべきだった。

 でも気持ちのいい一日だった。


 P.S.
 親父は、飯倉の鳥居坂教会も描いたと言っていた。しかし、手掛かりはない。これはあきらめるしかないだろう。



 <現在の鳥居坂教会>