M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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「ジェンダー・クオータ」にびっくり

2021-01-24 | エッセイ

 

 大体、週日はNHK のイタリア語講座を朝15分間、聞くことにしている。

 目的は二つある。一つは「ボケ対策」。二つ目は昔習ったイタリア語を忘れないためだ。結構、真面目にやっている。

<NHK イタリア語テキスト>

 先日の講座でびっくりしたことがある。みんなにも知ってもらいたいと思って、この文章を書いています。それは「ジェンダー・クオータ」という言葉があるということです。

 ここからNHKテキストを引用します。(イタリア語は読まなくていいです)

イタリア語/日本語

Sempre più donne nelle posizioni chiave 重職に就く女性ますます増える

Le normative sulle quote di genere, che promuovono la presenza delle donne nelle posizioni decisionali delle aziende, stanno ottenendo i loro frutti. Dai dati di marzo del 2019 risulta, infatti, che nei board delle società pubbliche il 32,6% è costituito da donne. Nei CdA delle grandi società quotate in borsa, invece, la presenza delle donne è passata dal 5,9% del 2011 al 32,9% del 2017

女性が会社の重職に就くことを推進するジェンダー・クオータに関する規定はその成果が実りつつあります。2019年3月のデータによると、実際、公営企業の役員会は32.6%が女性で構成されています。上場している大企業の取締役会において、女性の比率は2011年の5.9%から2017年の32.9%になりました。

引用終わり。

 女性の社会進出、ないしは女性の活躍という内容なのだが、それが本当に具体化され、身近なところに実際に現れているということにびっくりしたのだ。男性に交じって、女性の参加者が、30%以上という具体的な目標が建てられていて、それを政府が、民間や公益法人を含めて、フォローしているというのだ。素晴らしい。

  結構、封建的なこともあるイタリアの社会において現実に具体的に達成されていることは素晴らしいと僕の心を 打った。日本では、こんな比率を考えてみたこともない。

 少し調べてみると、日本では「第5次男女共同参画基本計画」などという、難しいお役所の言葉で、時々聞く内容だ。平たく言うと男女が基本的には平等に、各分野において活動できる環境を整えると言うことだ。しかし、「ジェンダー(性別)への割り当て」という具体的な目標として迫ってくる表現ではない。政府の好きな単なるキャッチフレーズのようなものだとしか思えない。

 この「ジェンダー・クオータ」ということは、基本的に民主主義の究極の姿を表したものだと言われている。 基本的な考え方はノルウェーから始まったもので、今や世界の大多数の国が参加している国際条約でもある。世界経済フォーラムが2019年(令和元年)に公表した「ジェンダー・ギャップ指数(GGI)」では、日本は 153 国のなかで121 位となっている。ほとんどビケに近い。

<ジェンダー配分をイコールへ:三田評論 慶応大学よりお借りしました>

 日本の普通の人は、この「ジェンダー・クオータ」という言葉をほとんど知らないと思う。知らないわけだから、浸透しているかどうかは見えないのはあたりまえ。日本では、掛け声だけは常に現れてくるが、実施がされているかどうかのフォローアップがないから、国民に実状をフィードバックするという機能は全く動いていない。 だから、この言葉を聞いたことはないし、話題にも上らない。

『国際労働機関(ILO)が2019年に発表した「ジェンダー平等動向レポート」ではG7諸国の大手上場企業の女性取締役比率を比較している。それによると、2016年の女性取締役比率は、フランス37.0%、イタリア30.0%、ドイツとイギリスが27.0%、カナダ19.4%、アメリカ16.4%であるのに対し、日本は3.4%と極端に低い』<このフレーズ部分は「日本大百科全書」より引用

<役員会議:by Alberto Nevi EU をおかりしました。Creative Commons 4.0>

 日本の会社の重役会で、1/3は女性だという会社は非常に少ないと思う。 女性の参加は、男性主導型の日本において、本当に必要なことだと思う。心理学の「ビッグ・ファイブ」*注 という特性で男女を図った結果、女性は、一般的にはマルチタスクで、仲間と一緒になって快感、思いやり、衝動的な面もあるが、男性は好奇心、自己主張とか、アイデアの開放性が高いと報告されている。

 男性のこうした性格のトレンドでは、柔らかな具体的な施策はなかなか実現できないのは当たり前なのかもしれない。何かを一緒に決めるということには、女性の方が、はるかに能力があるようだ。

 男性だけの会議ではなくて、女性を入れて問題を考え議論してみると、エッと思う新しい発想を感じたことがある。そんなことを考えてみると、女性と一緒に物事を考えるということは、今の日本には特別に必要ではないかと思う。

 先日、夫婦別姓で婚姻届が出せるという案が自民党の女性議員から一度出てきたが、自民党の中の昔の日本に憧れるグループの意見で潰されてしまったようだ。残念。

 

<内閣府の第5次男女共同参画基本計画の目標 2025年>

 

 このように、日本の民主化の基本は、世界から本当に遅れているということを強く感じたわけです。 皆さんはどうですか? 「ジェンダー・クオータ」という言葉を聞いたことがありますか? 皆さんの役所や、会社はこういう方向に向かっていますか?

 

注:

パーソナリティを構成するビッグ・ファイブ因子 Creative Commons 4.0 by Anna Tunikova

 

P.S.

僕がこのカラムを書いている時、偶然ですが朝日新聞(2020年12月26日)に、こんなタイトルの記事が載りました。「遅れに遅れた日本のジェンダー 130カ国がクオータ制」やっと来たかという感じです。朝日新聞のURL(リンク済み): https://digital.asahi.com/articles/ASNDT4GJ4NDSULFA03N.html

 


月を買った男 : L’uomo che compro la luna イタリア映画祭2020

2021-01-10 | エッセイ

 

 リアルでは中止になった、2020イタリア映画祭がオンラインで行われた。数少ないチャンスとストリーミングで参加した。72時間で100分の映画を見るのは結構疲れる経験となった。

 まずは、映画祭の作品紹介を読んでもらおう。

 ズッカ監督の第2作目。自身の生まれ故郷であるサルデーニャ島をテーマに、奇抜な設定と小気味よいリズムでスラップスティックな笑いが炸裂するコメディ。サルデーニャ島の誰かが月を所有したという未確認情報が世界中の諜報機関を駆け巡った。真偽を確認するために、イタリアの諜報機関はサルデーニャ島出身のケヴィンを島に送ることを決める。だが、彼は島の言葉や慣習を完全に忘れていて、島に溶け込むために特別なレッスンを受けることになるが…

 ・[2018年/103分] 原題:L'uomo che comprò la luna

 ・監督:パオロ・ズッカ Paolo Zucca

 ・出演:ヤコポ・クッリン、ベニート・ウルグ、ステファノ・フレージ

 この映画のジャンルはコメディと言われているが、単なる喜劇ではない。実際には、「詩」のようなリズムがある。作家の発想が豊かで、普通では思いつかないシュールな世界を作り上げている。まるで古代人の歴史のような話だ。

 サルディニアはイタリアの中でも、ユニークな土地、文化的に地方色を持っている。サルディニアに住む人間はサルドと呼ばれ、サルディニアは、イタリアの自治州の一つとなっている。とりもなおさず、非常にユニークな人柄と社会、慣習そのものと重なった舞台になっている。

 舞台はこのサルディニア。ここに月を買った男が住んでいると、国際諜報機関からイタリア政府に連絡があった。アメリカが先に月に到達したのに、サルディニアの個人が月を持っているのは許せないとクレームが来たわけだ。

 物語

 物語の大部分の舞台は、サルディニア島のクックルマル 村という小さな村。

 ここに、調査のために派遣されるのは、自称ミラネーゼ、北イタリアの男と言っているケヴィン ピレッリ(本名はガヴィーノ)。本当はサルディニア生まれの男で、イタリア軍の空挺部隊の一人だ。

 彼はサルデーニャに派遣される前に、サルド、つまりサルディニア人としての気質、行動、生活様式を身につけるための特別な教育を受ける。ズマルギネス・バドーレという名前の先生から、1対1で厳しく教えられる。

  例えばサルド風じゃんけん、羊を扱うための口笛、酒の飲み方、歩き方、チーズの味わい方、レスリングの仕方、鉄砲のたしなみ、女性の取り扱いなどを、時間をかけて、いやいやながら学ぶ。実は、この先生は7歳の子供を殺してサルデーニャ島をにげだした経験 を持つ男だった。

 ケヴィンの ミッションは、月を持っているという男を見つけ出し、アメリカに返すということだ。 訓練の結果、サルド(サルディニア人)として合格と認定され、ピレッリはサルデーニャ島に派遣される。 目的のクックルマル村 に入り、島独自の生活様式を持つ人たちに、いろいろと試されている。辛い思いをして学んできたことを使って、サルドとしての証拠を見せることができた。そして村の仲間として認められる。

 しかしながら、強烈なリキュールを飲まされて、ある一人の男に自分のミッションを明かしてしまう。「月を持っている男」の問題を解決するために、サルデーニャに来たと。

 この話は村の重鎮の老人たちの耳に入り、なんとかこの男を始末しなくてはならないと村人たちは考えて彼を襲う。サルデーニャは、外部からの侵攻に悩まされた歴史を持つから、外部の人はスパイかのように怪しいと見えるのだ。

 彼は月の持ち主を探すために、”マルヴァージョ”と呼ばれる月の風景に非常によく似た山地にたどり着く。 村人に追いかけられ、怪我をした彼は、砂漠のような平らなところで、ぶっ倒れてしまう。そこまで逃げられたのは、ロバの助け。3輪トラックに乗るロバの飼い主に発見され、助けられる。タネッドウッという彼は、海人で漁師。爆弾を使って魚を取るという乱暴な漁法を使っている。洞窟の中の家に住むテレーザの旦那である。

 テレーザの薬草のおかげで、彼は命を取り止める。 昔、タネッドウッが若者だったころ、テレーザを彼女の家から夜中に連れ出すとき、テレーザの親父に打たれて死にそうになった時に助けてくれた薬草だった。この薬草をテレーザに教えてくれたのは、月だった。彼らにとって月は母である。さらにケヴィンは魚を食べて元気になる 。

 問題の月だが、妻テレーザにタネッドウッが月を 贈ったという事実が語られる。しかし最初に月に到達したアメリカのアームストロングに10%の所有権があるとも言う。先に土地登記をしたのは、自分だとタネットウッは主張する。 土地登記後、50年間もどこからも文句が出ないから、自分の物だと言はっている。

  国際条約では、月はどこの国の所有でもないということになっていると、ケヴィンは彼に言う。しかし、彼は国ではない、個人なのだから問題はないと言い切る。国際条約は国が従うものだから、個人の自分は所有できるというロジックだ。アームストロングに10%を譲るように連絡を取ったけれども、返事は来ないとのことだ。月は、3億ヘクタールもあるから、まあ十分だ。妻にはアームストトロングの話は内緒だという。

 ケヴィンは本部に連絡する。アメリカには返しそうにもないと。

 村の長老の指示を受けた村人は、ケヴィンを殺しに集団でやってくる。イタリア軍は、ケヴィンをゴムボートで助けにくる。軍隊が乗っていて、武器的には軍の方が強そう。

  ケヴィンは戦いを止めようと立ちはだかる。軍はアメリカの潜水艦の応援を頼んだ。大きな潜水艦がヌッと浮上し、軍のゴムボートに並んで睨みを利かせる。

 その時、テレーザが笛を持って、砂漠のような山頂で笛を吹き始める。すると大きな月がその山の向こう側から、上がってくる。 月の引力で海面が下がり、ゴムボートも潜水艦も砂地に横たわる形になってしまう。 もう戦えない。更には大きな津波が岸へと襲ってくる。 ゴムボートの連中は逃げ惑い、島に上がろうとする。そこで、テレーザは高潮をおさめ、そこで戦いは終わる。

 村人たちは引き上げて行く時に、テレーザに彼をどうすると訊く。テレーザは、彼は私の客人ですと答える。

物語は終 (私の和訳だから、正確ではない部分もあるかもしれない。お許しを) 

 タネッドウッはある意味、詩人だ。テレーザはこの物語のヒロインだ。月を自由に操ることができるスーパーパワーを持っている。

 この物語のシンボルとしては、月と月面のような山、そしてロバと言えると思う。 月の世界のような荒涼とした岩と砂の山。これもこの物語のユニークな状況を作り出している。

 見終わって感じるのは、この物語は決してコメディではなく、日本人には発想不可能な物語であり、詩であると思う。マルヴァージョ≒ 月の世界には、亡くなった正義の人たちが何世代にもわたって暮らしている。正義の人は必ず、この月世界に行けるとサルドは信じている。

 後でネットで調べてみると、サルディニアはイタリア本国とは別の歴史と風土と人種と文化を持った場所であるという。 それをうまく使った映画だとも言える。サルディーニァは、本土のイタリアとは全く違った歴史を持つのだと分かった。 BC.8世紀ぐらいからフェニキア人、カルタゴ人、ローマ人、アフリカのヴァンダル人、サラセン、東ローマ帝国と目まぐるしく支配者が変わってきた島だった。それだから、イタリア本土とは違った文化が今に伝わっているのだろうと推測できる。

 

 今年(2020年)は、COVID-19で「イタリア映画祭」は見られないとあきらめていたが、ストリーミングとはいえ、最後の最後に「月を買った男」を見ることができた。おそらく、これが唯一の、今年の重要な出来事になるだろうと思う。素晴らしい時間だった。

 

P.S. 絵は映画祭サイトと、ストリーミング、イタリアのGoogle サイトからお借りしました