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M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

海外の空港たちー13 アジア

2019-11-10 | エッセイ・シリース

 

 アジアには、あまり降りた空港はないのですが、数少ないいくつかを話しをします。

 

 <イタリアからの南周りBy Google Maps> 

 

 ミラノ → アテネ → ベイルート → ボンベイ(今のムンバイ) → サイゴン(今のホーチミン)→ 香港 → 東京という、とても長い(30時間越え)、しかも熱さと湿気に満ちた飛行でした。昔、イタリアから南回りで帰る時に、ガソリンを補給するためと途中の利用者の乗降のために着陸した空港で、僕は機内に閉じ込められていたか、ターミナルで休憩していたかのどちらかでした。外に出たことはありません。あまり快適的な旅の記憶はありませんでした。 

 アテネでは、飛行場からパンテオン神殿が、ライトアップされているのを見て感動でした。 

 ベイルートは、美しい街という印象でした。今の戦禍はなく、静かなアラブの夜を見た記憶があります。 

 ボンベイでは、乗ってくる人たちが、必ず自分の毛布を機内に持ち込むので、不潔なにおいと、埃がすごかったのにはまいりました。

 

サイゴン 

 一番印象的だったのはサイゴン。いまではホーチミンと名前が変わっている南ヴェトナムの街でした。


 

 <ヴェトナムの米軍の枯葉攻撃> 

 ヴェトナムの上空に高度10、000メートルぐらいで入って、飛行機の窓から見降ろすと、下のほうでアメリカの飛行機の編隊が密林に次々と爆弾を落としているのが見えました。「今、この瞬間に、地上ではベトコンとアメリカ軍が戦っているんだ」という事実に、ゾワッとしました。その編隊が飛ぶに従って、爆弾の煙が、ポッツ、ポッツと密林の中続いて破裂するのが見えました。自分は安全なところで、この戦争のリアルな光景を見降ろしていることが不思議に思えました。サイゴンへの着陸は、問題なくできました。しかし、そこでの滞在は短いもので、ガソリンを満タンにする時間だけ、僕たちは飛行機の中に閉じ込められ外には出られませんでした。これが唯一、戦争を目撃した飛行となりました。


 香港

 

 <カイタック飛行場> 

 香港には何度か出かけましたが、今の大きなランタウ島の飛行場ではなく、昔のカウルーン(九龍)の狭い飛行場、カイタックでした。山を越えて降下した先の滑走路は短く、その先は海でした。オーバーランして、海に落ちる事故が何度もありました。

 

 <街の上を飛ぶ飛行機> 

 その危険な着陸をみようと人々が集まって、カメラを構えていたのを思い出します。僕自身も、うしろの山を、すれすれで超えて急降下してくる飛行機が、うまく短い滑走路に着陸できるかなと、興味本位で見ていたことを思い出します。そんな意味で、カイタックは有名な場所でもありました。空港からバスに乗ってスター・フェリー乗り場へ行くとき、右手に、九龍城と呼ばれたスラム街の高層建築が固まったところがありました。

 

 <今はない九龍城>*  

 非常に危険な所だといわれていたので、好奇心が強い僕でも、入ったことはありません。カウルーンに行ったこと何度もありますが、常に昼間の外出に決めていました。宿は、もっぱら、香港島、セントラルのマリオットでした。ここで、IBMのマネージメントコンサルタントの教育が、缶詰教育で行われ、合計5週間を過ごした思い出があります。中国に返還されてからは、まったく興味がわかず、行ってみようという気も起きません。

 

ソウル 

 これは私用でした。今は、仁川に成田・羽田を超える大きなハブ空港が作られていますが、僕が下りたところは、金浦空港でした。漢江(ハンガン)を超えて、ソウルまでのバスの中から見た風景は印象的でした。各々の家の庭に、大きな瓶が転がっていました。後で聞くと、これは、朝鮮民族には欠かせないキムチをつける瓶で、毎年、一年分のキムチを仕込むのだと聞きました。

 

<仁川空港 by Google> 

 ホテルはシッラ(新羅)でしたが、ここで、大きな間違いをしてしまいました。タクシーを頼んで、一日、利川で青磁の現場を見ようとしたのですが、タクシーの運転手には、仁川と伝わったようで値段が大きく違いました。僕の発音のichon(利川)とinchon(仁川)が間違って伝わったためでした。謝って金額を変え、利川を一日、楽しんだ記憶があります。

 

 <利川の登り窯> 

 やはり、高麗青磁が一番と、確信する旅でした。楽しい旅でした。


 

 <我が家の青磁と白磁>

 

 これで、「海外の空港たち―X」シリーズは終わります。 

 

P.S.

九龍城の写真は、Jidanniさんによるもので、 Creative Commonsライセンス BY-SA 3.0です。


海外の空港たちー12 オーストラリア

2019-10-27 | エッセイ・シリース
  オーストラリアは、僕にとっては大切な思い出の場所だ。日本を脱出して、生涯をそこで過ごそうと考え、一度は具体的行動に移した場所だからだ。結果としては、それができず、今も悔しい思いで日本にいるわけだが…。
 

<飛行図> 

 オーストラリアには、数えてみると、3回行っている。

 

  最初は、IBMオーストラリアからコンサルタントとしてよばれた3週間。二度目の1週間は、CIM(Computer Aided Mfg.)の論文を、オーストラリアの学会に応募したら選ばれて、シドニーとメルボルンで論文発表することになり、過ごした楽しい時間。そして、最後の2週間は、永住許可が下りたら住む場所と決めていたメルボルンに、具体的な居住地を探す旅だった。合計6週間だが、だいたいはメルボルン近辺で過ごしたことになる。

 

 最初に飛んだのはシドニー。そこから乗り換えて、クライアントのいる首都キャンベラに向かったのだが、各々の空港で不思議な体験をした。

 

<シドニー空港 By Mathiuemcquire Creative Commons  BY-SA 3.0> 

 一つ目は、シドニーで入国手続きをするためにカンタス機から降りる際、全く考えられない扱いを受けたことだ。機内にすべての乗客を閉じ込めておいて、そこにオーストラリアの防疫官がやってきて、乗客の頭上から薬品を噴霧したのだ。説明もなく行われた、とんでもない仕打ちだった。確かにオーストラリア大陸は、他の大陸とは切り離された独立した大陸だから、オーストラリア特有の動植物の保護のために、他の大陸からの細菌などの検疫を厳しくする必要があるが、まるで乗客を保菌者のように扱かったのは、非常に不愉快だった。二回目以降は、そんなやり方ではなくなっていたが…。

 

<キャンベラ空港> 

 次に疑問だったのは、キャンベラ空港に着いたら、空港の屋上からたくさんの人が手を振ってくれるのが見えた。こんなに歓迎を受けるのは変だなあと思ったが、僕たちも、まどから手を振って応えておいた。しかし、後になってオーストラリア人にこの話をしたら、ゲラゲラと笑われた。聞いてみると、人間の人口の8倍ほどの羊がいて、それにたかるハエが多いらしい。キャンベラで手を振っていたのは、自分の目や鼻にたかるハエを払っている仕草だったのだ。これには、“オーストラリアン・サルート(Australian Salute:オーストラリアの敬礼)”というあだ名がついているとのことだった。苦笑しながらも納得。

 

<スパナー蟹>

 メルボルンとシドニー(710km)の中間に、二都市の綱引きの結果の妥協の産物として作られた人口の町、首都キャンベラにクライアントの本社はあった。コンサルタントとして、クライアントの要求を聞き、その後、結果を報告するためにキャンベラに行ったのだが、印象に残ったのはスパナー蟹だ。皆さんは、ご存じですか?形がスパナー(モンキーレンチとも呼ばれる)のような形をした蟹で、うまかった。人工的なキャンベラという街には全く興味はなかったが、この蟹だけは、今でも覚えている。日本では見たことがない。

 

<メルボルン空港> 

 メルボルンの郊外に散在するクライエントのサイトを5か所ほど回って、現状調査を行ったのだが、その足がエア・タクシーだった。150キロも離れたところには、車では時間がかかる。そこでオーストラアでは、エア・タクシーといって、小型機をチャーターするシステムがある。

 

<エア・タクシー> 

 はっきり覚えているのは、Bendigoというメルボルンから140㎞程離れた田舎町に行ったのがエア・タクシーでの日帰りだった。チャーター機だから、エア・タクシーは空港で、客の帰りを待っている。

 

<ベンディゴの飛行場> 

 オーストラリアIBMの仕事のほかに、日本からWangarattaに工場長として赴任された、藤沢の恩人Nさんの要請で、キャンベラから定期便だけど必ずしも飛ばない(客がいないと飛ばない)という定期便に乗った。それが、エア・タクシーより小さな、単発の乗客定員4人の飛行機だった。僕たち二人と、子牛のようなでかい若い女性客一人の飛行だった。彼女はでかくて、二座席でやっと収まるくらいのヒップの持ち主だった。この単発機にしては重くないか…と思ったが、単発機はエンジンを全開にして、ふらふらと飛び上がった。キャンベラらから280キロの飛行だった。途中には、結構高い山もあり、不安な飛行だった。

 

<ワンガラッタの飛行場> 

 

 論文発表は、シドニーではダーリング・ハーバーのコンファレンス・ホールで、メルボルンでは、スインバーン工科大学のホールで行われた。

 

<スインバーン工科大学でのパーティー> 

 オーストラリアの真冬のクリスマスのシーズンだった。ホットパンツの、女性のサンタさんがいて、びっくりしたのを覚えている。南半球の真冬は経験したことがなかったから、日本に帰ってきたら真夏。時差がないのはいいのだけれど、その温度差は30度近くて、大変な思いをしたのを覚えている。 

 

 最後は、メルボルンに住むと決めていたから、どの地域に住むかを探す旅だった。メルボルンにひかれたのは、トラムでどこにでも行けるということ、四季が明確にあること、そして彼らの話す英語が、日本人が学校で学んだキングスイングリッシュ(?)で、分かりやすかったことにある。大きなクイーンヴィクトリア市場もあり物価も安く、さらには世界中の国の人たちが暮らすから、いろいろな国の食べものが簡単に食べられることも魅力の一つだった。オーストラリア人の友人とも話して、メルボルン郊外のF1でおなじみのアルバートパークの先、南極海に面したセントキルダ地区と決めた。

 

<メルボルンのトラム>

 

 その後、東京のオーストラリア大使館にVisa Applications Form1025iを出すことになって申請に行ったら、指定のクリニックでの健康診断が要求された。そこで、ぼくの心臓の病気が明らかになり、オーストラアリアに住むという夢は砕けてしまった。

 

<ウオンバット> 

 もう一つ、オーストラリアでなくてはできない僕の夢、ウオンバットを飼うという夢もかなわなかったのだ。残念無念だ。

 

P.S.

メルボルンについては別途、「住めなかった街 メルボルン」として2編のエッセイを書いてます。

https://blog.goo.ne.jp/certot/e/b580b5560d9ab51fdbf1b8bd822d3ff7


海外の空港たちー11 タホ湖

2019-10-13 | エッセイ・シリース

 

 <飛行図> 

 これが唯一のプライベイトなアメリカ行きだった。ハワイには、たくさん日本人が行くようだが、ハワイ諸島がアメリカの州であるだけで、アメリカとは言えない気がする。何十回もアメリカ大陸には渡ったが、ハワイには寄ったことはない。余談です。 

 この時は自費の旅だったから安い航空券を探したら、当時は日本ではなじみの薄かったアメリカンのサン・ノゼへのチケットが取れた。目的は、カリフォルニア州とネバダ州に跨るタホ湖での2週間のインターナショナル・TA・ワークショップへ参加するためだった。その前後に、1週間ずつサンフランシスコ滞在を加えたから、合計4週間弱の旅になった。

 

 <タホ湖 Google> 

 これはIBMが、勤続25年の社員にサバティカルとして、1か月の有給休暇と学費を負担してくれるというチャンスに恵まれたからだった。僕にとっては、早期退職して、次の仕事、カウンセラーに就くための必須のワークショップだった。 

 アメリカンはなぜか、成田~サン・ノゼしかルートを持っていなかった。タホ湖に行くには、サンフランシスコ空港が便利で、サン・ノゼ空港は決してそうではなかった。サンフランシスコ空港からは、タホ湖までの小さなプロペラ機へ乗れるのだが、なぜかサン・ノゼだった。アメリカンとしてのバス・サービスはなく、一般のバスでサンフランシスコ空港まで戻るしかなかった。そこから、更にサンフランシスコ市内へのリモの利用も必要だった。

 

<有名なケーブルカー> 

 ビジネスでは、いつものサンフランシスコのヒルトンとかを使えるのだが、ホテル代も自費だから、場末のホテルを探した。普通はあまり観光客のいかない、サンフランシスコ市役所の近くに安宿をとった。そこで、ジェットラグを消して、普通の調子に戻して、タホ湖に入ることにした。 

 サンフランシスコ空港の片隅から、30名くらいの客を乗せる小さなプロペラ機で、シェラネヴァダ山脈に囲まれたタホ湖に向かった。

 

<アメリカンのプロペラ機で着いたタホ湖空港> 

 タホ湖の飛行場は、海抜1900mだから、パイロットに対する注意書きが面白かった。「空気が薄いから、離陸にはエンジンの出力を最大に!」とあった。確かに、空気が薄いと抵抗が減り、上昇力が落ちる。納得。 

 世界中から集まった20名程のメンバーが、“Born to Win”で、世界庁中に影響を与えてたミュリエル・ジェームズ博士の主催するTAワークショップに参加した。

 

<ミュリエルの著書“Born to Win”:TAの名著> 

 コンドミニアムに、5名程の疑似家族が何組か、別々に泊まり込んだ。そして全員での講義やフィールドワーク以外は、24時間、その家族と過ごすことになっていた。これには、ミュリエルの意図があった。24時間、人は仮面をつけてはいられない。素(す)の自分が、他のメンバーに見えてしまうのだ。それが狙いだった。

 

<タホ湖の林の中のコンド> 

 その一軒のコンドの中では、自然と役割ができあがる。親父、お袋、長男、長女、二男、二女などと、自分と他の関係ができてくるのだ。それが、ミュリエルの狙いの一つだった。自分の性格が、国際的なグループでも自然に浮き上がるのだ。僕の場合は、ネブラスカから来たジュディという妹と、スペインのイグナチオという弟ができあがった。

 <ジュディとイグナチオ> 

 ワークショップには、TAの講義や論文解説などや、ロールプレイなどもあるが、根っこには自分をより深く知るという目的があり、僕自身の行動を常に客観的に見てくれるメンバーが必要だったのだ。周りのみんなが、本人の知らない自分をフィードバックしてくれ、結果として自分自身を新たに発見するというメカニズムだ。ジョハリの4っの窓を知っていれば、意味が分かると思う。

 

<美しいタホ湖> 

 一番印象的だったのは、「人を信頼しないとプールに沈む」というプーリングと言うフィールドワークだった。二人がペアになって、一人がプールに上向きに寝る。もう一人が、それを補助するというワークだった。浮く人が、サポートをする人を信頼できないでいると、体のどこかに力が入って、本来的には水に浮く人間の体が浮くことが出来なくて沈んでいくのだ。僕は、簡単に浮けたが、イグナチオは、何度か沈んだ。ミュリエルの指示があって、何度目かに、僕の前で浮いた。感激だった、

 

<プーリングで浮く僕とイグナチオ それを見守るミュリエル> 

 楽しいワークショップの2週間はあっという間に経っていた。僕自身の発見は、僕の中には、いつも母を探している小さな子供のキャラクターが存在するが、いつもそれを隠しているという心理的な画だった。この小さな子を解放してあげることが、僕の人格を修正できるとミュリエルのお陰で知った。 

 スペイン・サラゴサの歯科医、イグナチオとは、その後もずっと付き合いがあったが、6年前に、交通事故で突然死するまで友達だった。何度もスペインへ来たらと言ってくれたが、それができぬうちにくたばった。 

 ミュリエルとはずっと交流が続き、日本に来た時には必ず会っていたし、カルフォルニアまで電話して声も聴いていた。クリスマスカードも束になって残っているが、去年の1月、102歳で天国に召された。僕は心の母を失ったのだ。

 

<100歳のミュリエル>

 タホ湖の帰りは、サンフランシスコでイグナチオと遊び、その後一人で、モントレー、カーメルを車で回り、サン・ノゼ空港から日本に帰ってきた。僕が時間の予測が間違って、車をすっ飛ばして、ぎりぎりでアメリカンに乗った記憶がある。

 

<帰りのアメリカン> 

 このワークショップへの出席で、物理的に得たことがある。それは禁煙。乾燥したカリフォルニアでは、屋外での喫煙は厳禁だし、コンドも禁煙だった。出席を決めて、一日2箱くらい吸っていたタバコをあっさりやめた。 

 これが、アメリカへの最後の旅になった。


海外の空港たちー10 仕事のUS

2019-09-29 | エッセイ・シリース

  

 <北アメリカ飛行場マップ> 

 これまで取り上げていない空港を見ておこう、トランジットも含めて、全部仕事での発着だ。地図の表示にしたがって、北から見ていくと、 

・アンカレッジフェアバンクス

  <フェアバンクス空港>

  その昔、日本から北アメリカ、例えば、J.F.K.には直行便が飛べなく、ガソリンがもたないので途中での給油の必要があった。アンカレッジは、このシリーズの最初で書いたから省くとして、フェアバンクスはとても珍しい着陸だった。予定にはなかったのだが、アンカレッジの代わりにアメリカ空軍の基地、フェアバンクスに降りたことがある。アンカレッジが何かの理由で使えなかったのかも知れない。

 <マッキンリー山> 

 どちらに降りても、北アメリカ最高峰のマッキンリー山(今は改称してデナリ、6,194m)がよく見えたのが印象に残っている。機長が、必ず案内してくれていた。 

・ヴァンクーバー

 

<ヴァンクーバー空港> 

 ここは正確にはカナダだが、アメリカ出張の帰りに許されていた「ワン・ナイト・ストップオーバー:一泊」で寄ったところだ。一言でいうと、街も地形も、サンフランシスコに、よく似たところだった。カナダには、いろいろな民族がいるから、アメリカ人のように自分のペースで米英語を話すのではなく、分かりやすく、少しゆっくり、しゃべってくれる親切さを感じた。アメリカ人の多くは、英語は自分の言葉だから、外国人も当然、同じように英語がしゃべれるものと勘違いしているようなところがある。そういうことで、ヴァンクーバーの人たちの優しさを感じたのかもしれない。

 

 <ヴァンクーバーの街> 

 帰りのエア・カナダでは、日本人の学生が強制送還されているのに出くわした。なぜ強制送還だったのかは、分からないままだ。そういえば、ヴァンクーバーは僕が日本脱出を計画した時の候補の一つだったが、寒さと、雨が多いのでやめた記憶がある。 

・シャーロット

 

<シャーロット空港> 

 ミネアポリスから、ローリーに行くためにここで乗り換えた。その飛行機が滑走路に出ようと誘導路で待っていたら、目の前で、タッチ・アンド・ゴーを見た。民間航空機が、こんなことをやるとは思っていなかったから、他の乗客と一緒に声を出して、「エーッ」と叫んでいた。ランウエイへのタッチダウンが遅すぎたったのだろう。軍用機のタッチ・アンド・ゴーは見るけど、大型の民間の航空機が目の前でこれをやるとは思わなかった。こちらが、怖くなった。 

・ダラスとオースティン 

 多品種、少量生産の電子回路基板の組み立て工程支援のために、何か良いシステムはないかと調べていたら、テキサスの州都オースティンのIBMに、そんなシステムがあると聞いた。こういう時には、ベテランSEを連れて、実際を見るしかない。

 

 <でかいダラス空港> 

 ダラス経由でオースティンに飛んだ。コンセプトは、今では日本でもよく見かける、5~6段のコンべアー式のカルーセル型の倉庫のような筐体に、組み立て用のステーションをいくつでも自由に組付けられるラインだった。このステーションをコンピューター制御で、組立てる製品は個別に動いていく。こんな生産形態は見たことがなく、とても面白いと興味が湧いた。これなら、ユーザーの要望にも応えられると踏んで、日本への導入を支援してくれるように、オースティンのマネジメントに話をつけた。

 

 <オースティン空港> 

 日本のマネジメントの了承を得て、日本への導入のため、システムを細かく調査し、検証をしてもらうため、二人のSEを連れて訪れた。日本へのピックアップ作業の開始のための準備だった。このプロジェクトのため、信頼していたベテランSEの一人を3か月も、オースティンに張り付けた。

 

<IBMアオースティン> 

 楽しいことは、たくさんあったが、いくつか挙げてみると、

  ・テキサスの女性は、とても女らしく、フェアリーな存在だったと発見したこと

  ・下町のダン・マクロスキーのステーキハウスが、生肉の注文から、始まって、サービスまで、

   素敵なレストランだったこと(いまはもうなくなっている)

  ・テキサス州都オースティンには、昔の南軍の連邦旗が堂々と掲げられていたこと 

・サンフランシスコ 

 サンノゼへ行くには、仕事の場合は大体サンフランシスコに降りて、そこからレンタカーでルート101を南下して、サンノゼに向かうのが常だった。そのころのシリコンバレーの中心的なIT産業の存在の一つがIBMだった。いまは、GAFAにお株を奪われて久しい。

 

 <サンフランシスコの上空マップ Google> 

 サンフランシスコは何度行ったか分からない。アメリカで住むとしたら、サンフランシスコが一番だと思っている。理由は簡単、車がなくても生活できるからだ、人間は、歩いているのが一番。サンフランシスコはバートもあるし、ケーブルカーもあるし、人間が歩いて生活できるように作られている。 

 <サンフランシスコのケーブルカー:ライセンスはCFDL 1.2>

 ニューヨークのマンハッタンも、車なしでも生活できるが、あまり好きではない。人がせかせかし過ぎている。サンフランシスコンは、ゆとりを感じていた。 

 これで、ビジネスで使ったアメリカの空港は終わりだ。あとは私用での空港だ。


海外の空港たちー9 USの長い旅

2019-09-15 | エッセイ・シリース

 

 アメリカには何度も行っているが、こんな長い旅は他に記憶がない。

 

 <飛行図> 

 一応、書いておくと、成田→ミネアポリス、ミネアポリス ⇔ ミネソタ州ロチェスター。ミネアポリス → ケンタッキー州レキシントン → ノースカロライナ州ローリーへ。さらに、そこからフロリダ州マイアミへと下って、帰りはニューヨーク経由成田という、長い長い旅だった。 

 足してみると、ざっと25,000㎞にもなる飛行距離だ。わかりやすく言えば、成田~JFKが10,000㎞だから、日本とアメリカを往復し、さらにアメリカ国内を5,000㎞の旅をやったということになる。 

 目的は二つあったから、こんな旅になったのだ。 

 一つ目の目的は、IBM社内のシステム論文に選ばれて、ロチェスター(北部)とローリー(南部)の2か所で発表することになったこと。 

 もう一つの目的は、大量生産のオートメーション・ライン管理システムを調査することだった。これは、IBMの製品ラインが大きく変ったことに対応したもので、日本IBMの製品開発製造部門にとっては、大変な問題だった。当時、日本IBMには、大量生産のオートメーション製造ラインを制御するアプリケーションは無かったので、アメリカの大量生産姉妹工場を訪ねることになったのだ。プリンターのレキシントンと、パーソナルコンピューターのフロリダ州ボカレイトンを選んで、オートメーション管理システムを調査、研究するためだった。

 

 <ミネアポリス空港> 

 ミネソタ州ミネアポリスは、ノースウエスト航空(今はデルタに吸収された)のハブで、ミネソタ州の州都でもあり、大都市だった。ロチェスターに行くために、ここで1万キロの旅の時差ぼけを調整するため、一泊した。よせばいいのに、スペイン・レストランで、冷製スープの辛いガスパチョを食べたのが悪くて、胃が痛くてよく寝られなかった記憶がある。ガスパチョはとてもホット(辛くて)で胃がやられた。その後、ずっと敬遠している。


 

<ロチェスター空港> 

 ロチェスターは、システム38という小型コンピューターを開発製造していたサイトだった。広大な敷地にThe Big Blue Zoo(大きな青い動物園)というニックネームで呼ばれるTech Campusに、ピーク時には6,000人もの技術者がいた。システム38は、その後、AS400となり、今のIBM i(アイ)シリーズに発展した。

<IBM Rochester>  

 ロチェスターの地域経済は、IBMと全米で有名なメイヨー・クリニックでもっていたと言われた時期があった。 

 ここでは、アメリカ北部のサイトのIT技術者の前で、日本での「CIM:Computer Aided Mfg」を紹介した。僕たちは、いわば客人だった。そのコンファレンスで、同時に紹介されたのが、ローリーの「PC生産コントロールシステム」だった。ローリーでは、南部のサイトのIT技術者を集めて、同じく藤沢とローリーのシステム発表会をやった。

 <ミネソタブルーと呼ばれたサイト> 

 いろい質疑応答があって、どこかで、二つのシステムの評価のような話になってきたので、僕は立ち上がって、目的の違うシステムを比べて評価しても意味はないと意見を述べて、議論を打ち切った記憶がある。珍しい日本人だということになったと、駐在の日本人エンジニアが、後になって僕に知らせてくれた。彼に言わせると、ミネソタは、数えきれない湖と地べたの州だと、半分、ぼやいていたのが鮮明だ。

 

<ローリー・ダーハム空港 by Google> 

 ついでにローリーでの話を終えておくと、ローリーにはトライアングルパークという研究や製品開発の地域ができていて、地元ノースカロライナのTech Parkとして位置づけられていた。この三角形は、デューク大学、ノースカロライナ大学、州立NC大学が一緒になって、プロジェクトを始め、先端企業を呼び込んだようだ。そこにIBMも加わって、当時のIBM PCと最先端ThinkPadの開発を、日本の大和研究所と一緒にやっていたのだ。

 

<リサーチ・トライアングル・パーク> 


 もう一つの目的で、僕たちはオートメーション化された製造を管理しているシステムを見に、ミネソタから、ケンタッキー・ダービーとバーボン・ウイスキーで有名なケンタッキー州のレキシントンへ飛んだ。空港は、Blue Grass Airportと呼ばれるだけあって、草原の真ん中に、空港が小さく見えた。

 <Lexington 空港>  

 元々ここは、IBMタイプライター工場だったが、その頃には、プリンターを大量生産していた。キーボードのボタン成型から、プリンター本体までの水垂直統合の生産をやっていた。こんなシステムは、今までIBMでは見たことがなかった。まさに現場の状態を管理し、データを取っていた。僕たちには、新しい経験だった。その後、Lexmarkの工場になっている。

 

<大西洋に面したマイアミ空港 By Google> 

 僕たちは、ローリーでのCIMシステムの発表会を終わって、フロリダ州のマイアミに飛んだ。ここは、アメリカ人が、退職後にはゴルフをやって、ゆっくり過ごすのだと憧れている州だ。地図でも分かるとおり、ここはアメリカ合衆国の最南端。マイアミは年寄の多い、すべてがゆっくり動いている街だった。どこか、日本の熱海を思わせる、大西洋に面した街だった。 

 さらにマイアミから車で、ボカラトン(彼らはボカレイトンと呼んでいた)を訪れた。ここは、ロボットを使ったIBM PCの組み立て工場で、これも、オートメーションと一体化したロボットの挙動管理、データの管理をやっていた。全く人のいない工場は、IBMでは、まれな光景だった。

 

<IBM ボカラトン> 

 休みの日に、キューバに近いキーウエストまで、大西洋とメキシコ湾に挟まれたハイウエーのSeven Miles Bridgeを260㎞、日帰りで走った。 水の上を低空で飛行しているような感じのドライブだった。ここは、アメリカの東海岸をニューヨークまで走るルート001の起点だった。ちなみに、キーウエストから、ハバナまで170kmだから、マイアミより断然キューバに近い。

 

<セブンマイルズ橋> *

 マイアミから1300㎞を飛んで、JFKに戻り、そこで一泊して、成田に飛び立った。

 とにかく長い長い旅だった。そして、アメリカのデカさを体感して疲れた旅だった。


 

P.S.*

 

7 Miles Bridgeの絵は、AveretteさんのCreative Commons 3.0をお借りしました。