M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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伊豆高原へ #2

2019-08-18 | エッセイ

 

 カスケットリスト(棺桶リスト)にある、くたばるまでに達成しておきたい項目の一つ、伊豆高原への旅が終わった。その1に続き、残り二つの目的を書いてみる。 

<伊東・リエティ友好パネル>

 旅の目的の三つ目は、僕のボランティア活動の原点を訪ねてみることだった。 

 イタリア人から学んだ「家庭・仕事・社会的活動」の三つをやると決めて、僕はそれをずっと実行してきた。しかしIBMを早期退職して、もとは「社会活動」だったカウンセラーが「仕事」になったから、代わりの三つ目の世界を持ちたいと探していた。 

 僕が移り住んだ伊東市は偶然にも、イタリアのリエティ市との国際交流が活発だった。伊東のタライ乗りの競技と、リエティ市のワイン樽の急流下りが取り持つ縁で、リエティとの国際交流が行われていた。僕は、ミラノに住んだこともあり、英語のほかにイタリア語が少し話せたから、語学を使って何かボランティア活動をやってみようと、伊東国際交流協会に飛び込んだ。これが、僕の新しい三つ目の世界、ボランティアの原点になった。

 <オリーブオイル搾油機モニュメント> 

 2001年の「イタリア年」と重なり、リエティ市が、国際交流のモニュメントとして、本物の「石臼のオリーブ搾油機」をイタリアから持ってきて、伊東に寄贈することになった。このためにリエティからいろいろな専門家7名が、ボランティアで2週間にわたって伊東で作業することになった。このイタリアチームの支援が、僕にとっての、ボランティアとしての大きなプロジェクトになった。モニュメントは完成したのは、暑い7月のことだった。完成式典にはイタリア大使も出席され、盛大なものとなった。

 

 <イタリア大使と記念式> 

 今回、リエティ広場を訪れてみると、18年の風雨が記念プレートを少し汚してはいたが、オリーブオイルの石臼は健在だった。僕にとっては懐かしいモニュメントだ。記念プレートの言うように、この国際交流は「永遠」のものになるだろう。いい経験をさせてもらった。この経験は、次の仙台市での僕のイタリア交流ボランティア活動への自信にもつながったと思う。

 

 最後の四つ目の目的は、IBM開発製造のアプリケーション・システム責任者として、何度もお客様マネジメントの2泊3日の研修を担当したIBM天城ホームステッドを訪ねることだった。

 

 <ホームステッドのマーク> 

 天城山の中腹、海抜800mにあるここは、天候に敏感だ。少し南からの低気圧が近づくと、雨や霧になることが多い所だった。今回も雲の多い天候だったが、3度目の正直で、遠笠山道路を小さなレンタカーで登って行った。幸い、曇りで、晴れる可能性もあるようだった。 

 久しぶりのホームステッドは、ほとんど昔のままだった。声をかけて、責任者に話を聞くことができた。30年以上も、この仕事をしていらした方だから、きっと僕も直接お目にかかったこともあるはずだが、思い出せなかった。。ドーミトリー(個人の客室)も相変わらずで、テレビもないという。Wi-Fiが使えるようになっているのが、40年ほど前からの変化なようだ。

 

 <ドーミトリー> 

 話していて懐かしかったのは、IBMはアルコールを社内では禁じていたから、ホームステッドでも、お客様にもアルコールは出していなかった。これが、お客様には大不評だった。夜の食事を共にしてても、ワインもない食事は、お付き合いする僕たちにとっても、辛いものだった。日本IBMが本社にねじ込んで、OKが出たのは少したってからだった。こんなことを話していたら、昔からの有名なコーンブレッドも変りなく、ホテルから取り寄せて、好評だという。もうこんな昔のことは、話す相手はいないようで、彼も懐かしがっていた。

 

 <富士山の頭が見えた> 

 帰りにミニゴルフのグリーンに出てみたら、富士山が、ちょこっと、雲の中に頭を出してくれていた。ほかの従業員の人たちにも、頑張ってくださいと声をかけて、訪問を終えた。懐かしさと嬉しさがあった。 

 東急ハーヴェストまで登ってみたが、天城ベコニアガーデンはなくなり、客も激減していた。帰りに降る道を一本間違えた。気がつかずに別荘地の中をどんどん降りて行ったら、突然、道が無くなった。おかげで、天城山の野生の鹿を写真に撮ることになった。

 <野生の鹿がコンニチハ>

 

 これで今回の旅の目的は終わったが、少し町や食べ物についても書いておこう。 

 ホテルは3泊、朝食付きで、夜は町に出て飲める、食える所を選んだから、伊東駅の近くだった。伊豆高原、天城高原、一碧湖あたりでも感じていたのだが、15年前に比べると、伊東市の町中も、人が少なくなっていた。あんなに夜は賑やかだった町中も、寂しくなった。

 

 <人っ気のなくなった、湯の花通り> 

 伊東駅に続く、活気のあった湯の花通も、ウイークデーとはいえ、確かに人影が少ない。あの人たちはどこに消えたのだろうと、不思議だった。 

 伊豆高原も、「伊豆ガラスと工芸美術館」の閉館や、よく通った洋菓子店「葡萄の実」や、流行っていたイタリアンレストランなどもなくなっていた。あんなにたくさんの、脱都会派の人が住んでいた別荘地も閑散として、人の気配がない。二軒ほど、昔の知人宅をのぞいてみたが、人気は無かった。 

 あの頃は低かった木々が高く伸びて、住宅を太陽から覆い隠しているようにも見える。これでは住めないなと思ったのは、天城高原の別荘地だ。もう、廃墟に近い林の中にうずもれる住宅を見ると、人が減り、人が近づかなくなったのがよくわかる。 

 帰って調べてみると、伊東市の人口は、この数年で5千人ほど減って、今は6万5千人とある。少子高齢化の波も、伊東を襲っているようだ。ホテルの送迎バスの人も、ここ数年で、人がガタッと減りましたと言っていた。あの人たちはどこに行ってしまったのだろうと、混乱した寂しさを感じた。 

 食べ物については、大満足だった。伊東出身のHさんに教えてもらった居酒屋や寿司屋、干物屋さんなど、すべて当たりだった。特に良かったのは、ジャズを聞かせながら、海の幸を、ちょっとひねって食わせてくれたカウンターバーS。

 

 <カウンターバーの居酒屋> 

 昼飯にと勧められた、オレンジビーチの杉国商店の焼き魚、カマス、キンメダイ、肉の厚いアジは、本当にうまかった。あまりうまくて、夢中になって食ってしまったので、写真はありません。ゴメンナサイ。

   競争相手の熱海は、若い人たちが中心になって、このところ大勢の客を呼んでいるようだ。ぜひ伊東も、客を135号線でバイパスさせないで、市内に引き込む知恵を出してほしいと願っている。元気になってほしい土地だもの。


伊豆高原へ #1

2019-08-04 | エッセイ

 伊豆高原への旅が、15年ぶりにやっと実現した。カスケットリスト(棺桶リスト)にある、くたばるまでに達成しておきたい項目の一つだった。

 

 <大室山> 

 実は、今回が3度目の正直。2017年の春に計画し、ホテルも、スーパービュー踊り子も、レンタカーも予約していたのだが、大雨の天気予報でキャンセル。2018年秋にも、同じ準備をしたのだが、天候が悪く中止となってしまっていた。今回(2019・5)の旅も、3泊3日の旅のうち、1.5日は雨の予報だったが決行、やっと達成できた。 

 旅の目的は、大きく言って、4つ。

  ・姉の句碑を、もう一度、城ケ崎の蓮着寺で見ておくこと

  ・7年間暮らした、伊豆高原の我が家のその後を見ておくこと

  ・僕のボランティアの原点、伊東・イタリアの国際交流モニュメントの確認

  ・IBM時代、10回以上も訪れたお客様研修の天城ホームステッドの訪問 

 天城ホームステッドは、天城山の中腹、812mの高さにあるから、雨だと霧が巻いてとても近づけたものではないから、天候は大切な条件だったのだ。 


さて、1つ目 

 亡き姉、徳山暁美は、俳句に生涯傾倒し、晩年、女流作家としてちょっと有名になった俳人だった。作品は、牧羊社の「現代俳句女流シリーズ」、「紀の山」で発刊され、有名な、河野多希女が序文を書いている。そんな彼女の句碑が、伊東市・城ヶ崎海岸にある蓮着寺の庭の、つつじに囲まれた句碑群の中心にある。 

<徳山暁美の句碑>

 句は、「かの世にて 花の曼荼羅 描きたまえ」という、洋画家だった父への献歌だ。

 親父にかわいがられた暁美の、天国にいるおやじへの、やさしい句だった。とてもいい句だと僕は思っている。全部で10個ほどある句碑たちは、蓮着寺の一角、つつじの群れの中に立っている。少し字がぼけているか、苔むしていないかと心配だったが、どっこい、暁美さんの字はやさしく美しく彫られていて、しかも彫が少し柔らかくなって、小雨の中に立っていた。久しぶりと、声をかけた。 

 この暁美には、僕はよく面倒を見てもらったと思っている。彼女が長津田のマンションで、心筋梗塞によると思われる孤独死の身元確認を僕がやって、葬式を仕切った。だから、僕がくたばるまでに、この句碑の安否は確認しておきたかったのだ。宿題がやっと終わった。 

 

2つ目 

 横浜脱出の地として選んで、7年間住んだ伊豆高原の家の状況を知っておきたかった。本当は、オーストラリア・メルボルンへの移住を予定して、準備を進めていたのだが、最後になって、僕の心臓君の問題が発覚してヴィザ申請ができなくなった。

<城ケ崎海岸 大室山の溶岩が作り出した風景>

 そこで、日本国内の移住先として決めたのが伊豆高原だった。後で述べる天城ホームステッドへの出張の際、伊東や城ケ崎を知っていたから、ここになったとも言える。仕事の関係で、東京へのアクセスが大切だったことが決め手だった。他には、仙台、四万十川、高知市、八ヶ岳東麓などが候補だったが、実際に行ってみての判断から、伊豆高原に決めた。


<15年ぶりの我が家> 

 ここでは、ミニチュア・シュナウザーのチェルト君を中心とした、楽しい日々があった。犬友達もたくさんできて、多くの脱都会派との交流ができていた。家は、僕が「Casa Verde」と名付けて、色も塗り替え、素敵な住処になった。海抜300mのベランダからは、伊豆の島々が見え、特に神津島が美しく見えた。ここは伊豆高原でも最も高い位置ある小さな住居だった。大室山の麓からちょっと下ったところにあった。思い出のあるカロライナ・ジャスミン、ブラジル原産のフィージョア、ここで知ったオガタマの木などを、横浜のサカタに探してもらって、家の庭と側の遊歩道に植えた。この植物たちはどうだろうかと気になっていた。 

 元気でいるのを確認できたのは、2階のベランダ迄育て、伸ばしたカロライナ・ジャスミンだけだった。年に2回咲く、素晴らしい香りの存在に救われてか、新しい家の持ち主にも、大切にされているらしく、ベランダに健在だった。オガタマは庭の中だから、貝塚いぶきの生け垣に阻まれて見えなかった。遊歩道に植えたフィージョワは、この15年の間に大きくなった、空木の林の中に埋没していた。残念。 

 伊豆高原近辺には、他にいろいろあったけれど、本当に見るに値する美術館は、二つ。その一つは、「伊豆ガラスと工芸美術館」だったが、今年の4月に閉館してしまった。あのたくさんの、アールヌーヴォーのガラスたちはどこに行ってしまったのか。見ることができなくて、とても残念。単品で散らからないで、まとまっていることを祈るだけだ。

 <アールヌーボーのガラススタンド>

 後の一つは、健在だった。確かに絵を見たと実感できる、一碧湖近くの「池田20世紀美術館」https://www.nichireki.co.jp/ikeda/?lang=en だ。ニチレキ(日瀝化学工業)の創始者、池田氏が個人的に集めた1400点もの絵と彫刻と、それを展示するためのデザインされた建物が、ヒューマニティをテーマとして存在している。ゆっくり見れば、半日はかかるだろう。ルノワール、マティス、ピカソ、シャガール、A.ウオーホール、ミロ、ダリなどの作品が物理的に近くで見られるようにデザインされた美術館だ。

 <池田20世紀美術館>

 久し振りだったから、美術館のインフォーメーションの女性と話してみた。ガラスの美術館も一碧湖美術館も閉館し寂しくなったから、頑張ってくれなくては…と声を掛けたら、頑張りますと戻ってきた。ここは今や、伊豆高原、いや伊東市が誇れる唯一の世界に通用する美術館だと思う。

<シャガール> 

 皆さんの旅行プランには、ぜひ加えてあげてください。その価値はあると確信します。


(あと2つの目的については、伊豆高原へ #2に続きます)