M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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桜の上野から、浅草へ

2017-04-23 | エッセイ



 今年の都美術館行きは、上野の花見とぶつかった。例年は、花見シーズンが終わった4月中旬に出かけるのだが、今年は僕の入院の予定があって、花見とぶつかってしまったのだ。JP上野駅・公園口には人があふれて、ホームから階段、そしてコンコースまで、人が列を作ってノロノロ。



<上野 花見客>

 普通だったら、逃げ帰ってしまうのだが、何としても、モダンアート展を見ておく必要があった。この展覧会は、逃さず見るようにしている。東京に戻ってきて、7年間、欠かしたことはない。



 <モダンアート展>

 目的は、展示全体を見るのではなく、一人の女性画家の作品を見るためだ。SIさんとしておこう。彼女とは大学の頃、中野の鍋屋横丁で3人で同棲していた人だ。つまり、初めての大人の恋の相手だった女子美生。僕のつまらない意地で別れてしまったが、女子美大の頃からずっと見続けている油絵、今はモダンアートの会員のそれだ。



 <2017の作品:春の亀池>

 今年は、彼女の絵が大きく変わっていた。2010年くらいから並べてみると、その変化がよくわかる。例年は、時間をかけてああでもないこうでもないと、厚塗りを重ねてマチエールを作っていたのだが、今年は違った。全体が軽やかに、すっきりした。何か、彼女の心境に変化があったのかもしれない。本人には会わないことにしているから、そうした情報は全くない。


 <2010の絵:夏の庭>


 <2012の絵:花粉が飛ぶ道>

 さらに並べてみると、何かの塊が、少しずつ形を変えている。


 <2014の絵:オレンジの花が咲いている>


 <2016の絵:つかの間のダンス>

 去年の作品には、なにか、大きなチャレンジか、葛藤が見える。激しい絵でもある。それらが、今年の作品の中からは消えている。迷いを吹っ切ったような、新しい世界が現れている。本当は、話してみたいのだが、断られ続けているから仕方がない。見る方が、推論するしかない。何か世界が変わった。バードビューの世界に近づいたようだ。

 作品は、第一室から第二室に入る時に、突然、目に飛び込んでくる。モダンアート展の立派なアイキャッチャーだ。モダンアートも、今では、モダンではなくなってきたようだ。ついでに、二部屋ほど眺めてみたが、ぼくをつかんだ作品はなかった。

 都美術館を出ると、浅草行の台東区のバス「めぐりん」の停留所に向かう。今日は20℃を超える暑さだ。しかも、バスは混んでいて、立ちんぼだった。ここでも、花見と、スカイツリーへの客とぶつかる。

 浅草に行く目的は一つ。伝法院裏の煮込み通りのSYで、おかみさんの元気な姿を確認するためだ。ここも、毎年一度は訪れて、おかみの焼く「かしら」と「たん」の塩焼と、モツ煮込み、おしんこを、生レモンハイで味わうのが目的だ。ここのつぶ貝も外せない。



 <浅草、煮込み通り>

 女将さんは元気で、迎えてくれた。ここはもう40年以上も通っている。大学時代を入れると、50年になるかもしれない。彼女の立ち姿を見ると、元気をもらえる。ネットの口コミでは、おっかないと言われる客扱いもあるが、根は明るい一本気。もちろん、味がいい。一時期、スカイツリー目当ての観光客の増えた浅草では、味が落ちていたのだが、今年は、一応昔のレベルに戻っていた。これなら、ネット友達のお医者さんだって連れてこれる。



 <浅草寺>

 昼飯はまだだったから、ここも何十年も通っている、蕎麦屋のTWを訪ねてみる。ここも一時期、観光客目当てに、派手な盛り付けの、見場本位の蕎麦を出していたいやな記憶がある。しかし、今年は、蕎麦の味も昔に戻っていた。よかった。代わりに並木の藪そばを考えていたが、歯ごたえのある手打ちの味に戻っていた。うれしいことだ。

 今日は、三つ、いいことがあった。上野駅で出だしは鼻をくじかれたが、いい作品、元気なおかみ、そして、戻ってきた蕎麦の味でにっこり。都営地下鉄浅草から笑顔で横浜に帰ってきた。いい日だった。




孤独死した姉、暁美

2017-04-09 | エッセイ



 一番上の姉の孤独死の知らせが届いたのは、暮れも押し詰まった12月20日。伊豆高原の家で僕が車を洗っていたところに、暁美さんの知り合いが息を切らして飛び込んできた。



 <長津田スカイハイツ by Google>

 横浜・長津田のマンションで、暁美が孤独死しているのが見つかったという。とにかく、長津田に行ってほしいとのことだった。親族は僕しかいなかったので、慌てて出かけた。まずは横浜線の中山で、警察署に行ってほしいとの連絡が入っていた。

 中山駅を降りて、警察署を訪ねた。孤独死の場合は、「変死」扱いになるので、警察が遺体を確保して、近親者に身元を確認させるという。遺体はまぎれもなく、僕をかわいがってくれた10歳上の姉、暁美だった。警察は遺体を引き取っていいと、葬儀社を紹介してくれた。そこから、怒涛の忙しさにはまり込んでいった。



 <姉 暁美>

 孤独死が一日で発見されたのは、暁美が一人で住んでいたのが長津田駅の北口にある横浜市営の高齢者障碍者マンションだったからだ。このマンションにはSECOMの24時間の監視モニターがついていて、入室後、24時間以上生活反応がないと、安全を確認するために部屋に入るシステムになっていた。それで、孤独死が発見されたのだ。検視の結果は、心筋梗塞だろうということだった。

 この姉には本当にお世話になった。10歳も年が離れていたから、僕が本当に元旦の朝九時に東京大学の付属病院で生まれたと、証言してくれた人だった。親父と本郷から、雪の中を歩いて谷中の家に戻ってきたのを鮮明に覚えていたからだ。

 親父の愛情を一心に受けた暁美は、岡山の高校を卒業して山の中の小学校に代用教員として、働き始めていた。すぐ上の姉とお袋は、土佐に帰っていたから、僕の家は、親父とおばあちゃんと僕の3人だった。時々、小学4年の僕を赴任地によんでくれて、二人の時間を持った記憶が残っている。

 その小学校で、新品のグランドピアノを弾きだして、指に関節に痛みを感じ始めたようだ。診断は変形性関節リューマチ。これが、その後の暁美さんに大きく影響した。

 何故だか知らないが、和歌山県白浜の国立温泉病院に入院することになった。きっとその頃、リューマチの専門病院として知られていたのだろう。一度、見舞いに行って、僕は寝ていたベッドから落ちたのを覚えている。



 <伊東温泉病院>*

 我が家で、最初に東京に戻ったのは僕だった。僕が大学に入ったころ、暁美さんは、今度は伊東の国立温泉病院に移った。やはり、リューマチの温泉治療のためだった。ここで初めて、暁美さんは俳句と出会った。院長の伊藤久次先生の院内句会への勧めだった。これが俳人、暁美の原点だ。

 僕は大学の頃、谷中で親父の借りていた部屋で一人住まいをしていた。暁美さんが退院してくるというので、2人で埼玉・西川口に小さなアパートを借りて、一緒に住み始めた。そして、親父のコネがあったのか、暁美さんは銀座の五番館画廊で、痛みと付き合いながら勤め始めた。これが、暁美さんのその後の生き方を定める事にもなった。

 僕の就職が決まり、通勤に便利な自由が丘に移ることにした。暁美さんにとっても銀座が近くなるので、2人でアパートを借りた。そう、その後も、僕が結婚するまで暁美さんと行動を共にしていた。

 暁美さんには、禁断の恋が生まれていた。それが明らかになったのは、僕の会社が藤沢に新しい事業所を作って、移転することになったのが切っ掛けだった。その頃、皆のあこがれだった新築・公団住宅の抽選に、僕の給料だけでは応募資格がなく、暁美さんと共同で申し込みをした。それで当選したのが横浜・左近山団地だった。たいした荷物もなく、暁美さんと二人で引っ越した。



 <左近山>

 この左近山に現れたのが、銀座の五番館画廊を運営し、のちに神田の秋山画廊を開いたNY氏だった。彼は若手の美術評論家で、若手の新鋭の美術家を育てることを大切にしていた。彼は、週に何度か現れて、暁美さんと時間を共にしていた。しかし、彼には奥さんがいた。しかも、画廊への出資者だという。難しい恋をしたものだと僕は思った。まあ、大人の恋だから仕方がないと思いながら、NY氏とは折につけて、姉のことで反目していた。何故、宙ぶらりんの生活を姉に強いるのだ…と。



 <故 NY氏>

 暁美さんの生活の中心は、俳句だった。「あざみ」、「暖鳥」の会員になり、俳界でどんどん名が知られていった。左近山でも句会を開いて、指導的な役割もしていた。リューマチと戦いながら、親父の感覚を受け継いだ絵画的な要素と、病気との戦いからくるのものの本質を見定める力が合わさって、高く評価されるようになっていった。



<暁美の句集:紀の山>

 その後、長津田の身障者マンションに移っていた。

 暁美の孤独死で、何年かぶりに、NY氏に会った。
 
 そこで揉めた。まず、非常時の連絡先が僕だったことに、僕は文句をつけた。NY氏に連絡を取ったのは僕だった。彼は、故郷の山形にいた。何故、第一通報者が貴方ではなかったのかと迫った。さらには、葬儀の喪主をだれがやるかということで、意見が割れた。彼は僕だと言ったが、僕は貴方だと迫った。大阪の姉もNYさんがやるべきだと意見を言った。結果として、渋々NYさんが喪主になった。僕は、長い付き合いの姉だから、分骨してNYさんの方でも弔ってほしいと主張した。最終的には、分骨が決まった。

 骨あげの時、彼女の長年の苦しみの証拠品として、大腿骨の人工関節が二本出てきた。苦しかっただろうと思う。

 今、分骨された彼女は、愛を受けた親父とともに、僕の家のルーツの岡山の山奥、上徳山の菩提寺、般若寺の徳山家の墓に眠っている。これは僕が、親父が残したデザインで作った墓だ。親父は喜んでいるだろう。暁美は、絵のセンスもあり、親父の一番の自慢の子だったのだから…。

 暁美の句の中で、一番好きな句 : “冬瓜と 父の背なかに 会いにゆく” 
 
 僕からも一句         : “雪籠り 親父は姉と 墓の中”


P.S.

一度行ってあげなくてはならない暁美さんの句碑が、伊豆高原の蓮着寺にあります。



<蓮着寺>




* この写真は、Atyu5811さんの「伊東温泉病院」をお借りしました。
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