M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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京都 嵯峨野あたり

2017-02-26 | エッセイ


 今回の大阪行きの目的の一つ、幻の陶磁器コレクション(前回を参照)を見ることが出来なくなったので、丸一日が空いた。大阪市内で、市大時代にお世話になった河堀口の下宿を訪ねてみるとか、杉本町のキャンパスに行ってみるとか、大好きな神戸に足を延ばしてみるとかを考えたが、くたばる前に一度は戻っておきたい、京都・嵯峨野を訪ねることにした。

 宿は、交通の便から梅田・新阪急ホテルにとっていたから、どこへでもアクセスには問題がなかった。ここ数年、京都には、半日ベースで四条河原町を中心に2回ほど歩いているが、嵯峨野までは行っていなかった。嵯峨野は30年ぶりくらいか。



 <嵐電>

 調べてみると、梅田から阪急京都線の大宮で降りると、京福電鉄の嵐山までは、四条大宮から嵐電でチョイだと分った。京都の町をチンチンと走ってみるのも面白そうだ。

 心臓君のことがなければ、嵯峨野の大覚寺から広沢の池、さらには化野の念仏寺あたりまで行ってみたかったが、登りが心配で、平らな道の天竜寺にした。嵐山駅を降りると異常な人の波。僕の予想した嵯峨野とは全く違った喧騒の町だった。渡月橋の近くに大型バスのターミナルがあって、そこから、修学旅行の生徒とか外国人のツアー客が押し寄せているのだ。



 <天竜寺>

 仕方なく、天竜寺への道を歩いた。秋にしては暑い日で、上着はいらなかった。周りは、修学旅行の生徒のグループと外国人だらけ。嵯峨野も、この30年くらいで変わったということだ。寺に入っても、静寂は全く感じられない。なんだかツアーのメンバーになったようで、落ち着かない。天竜寺の中の景色を撮るにしても、絶え間ない外国人の流れが途切れるのを待って、シャッターを押すことになる。



 <せせらぎ>

 やっととれた写真が、いく枚か残った。水の清らかな流れと、大文字草は、静かさを感じられるものになった。しかし、池の周り、石庭周りは、もういけない。外国人がおしゃべりしながら、写真を撮りまくっている。

 昔のように、静かで落ち着いた、歴史を残した寺の空気は味わえない。香の香りさえしない。



 <石庭>

 雑駁な僧が、下手な英語で大声をはりあげて、外国人に注意を与えている。無粋だ。確かに日本人なら、庭に入ってはいけないとか、廊下や畳の上に寝転がったりはしないだろう。しかし、そんな教育を受けていない彼らは、悪意もなく、寺の景色を台無しにしていた。それなら、入門の時に、ちゃんと注意を説明しておけばいい。



 <広間>

 少し日本文化に興味を持っている人たちは、寺は修行の場、祈りの場だということを知っているようで、静寂を楽しんでいる姿も、もちろん見られた。しかし、日本人が、静かさや無言の環境に身を任せるという空間では、もうなくなっていた。これから、日本人の寺巡りは難しくなったと感じたのは、僕だけではないはずだ。



 <竹林>

 裏に抜けて、竹林の小道を訪ねてみたが、ここは修学旅行の生徒たちに占領されていた。竹林が風になる密かな音は、聞くことはもうできないようだ。しかも、こんな狭い道を、タクシーが、観光客を乗せた人力車が、我が物顔で走る。本当の嵯峨野は消えていくようだ。唯一の救いは、シュナウザーの「体育」君に会ったことぐらいか。



 <体育君>

 渡月橋を渡らないと嵐山に申し訳ないと、日なたの渡月橋を渡る。桂川の上を吹く風が、気持ちいい。



 <渡月橋からの川の眺め>

 
 帰りの予定は、立ててあった。嵐電で京都に戻ることはしないで、渡月橋を渡った対岸の阪急嵐山線の嵐山から大阪・梅田に帰る計画にしていた。天竜寺や、渡月橋あたりでは、入ってみたい店はなかった。お腹はすいていた。渡月橋を渡った途端、人が少なくなって、人のまばらな通りを行く。このあたりには食べ物屋の数は少ない。まあ、駅まで行けば、何かの食べ物屋はあるだろうと信じて、駅に向かう。

 しかし、閉まっている店が多い。今日は、このあたり一帯の飲食店は休みなのではないかと不安になったころ、小さな蕎麦屋を見つけた。名を芳汕とあった。若い夫婦二人で、切り盛りしている地元の蕎麦屋だった。外の庭に面したテラス席で、ビールを飲み、お薦めの蕎麦を食って満足。季節ものの松茸の天ぷら蕎麦は、直前に入った人で終わりと聞かされた。

 話をしてみると、渡月橋の向こうとこちら側では、人気が全く違って、余程のことがないと、観光客は来ないという。



 <Google Earth>

 嵐電、天竜寺、竹林、渡月橋、そして、阪急嵐山から桂経由で大阪に帰るという「行きは嵐電、帰りは阪急」のキャンペーンを阪急電車と一緒にやってみたらどうかと話しているうちに、電車の時間が迫ってきた。帰りは、嵐山から阪急梅田まで、50分だった。このコース、お薦めです。


幻の陶磁器コレクション

2017-02-12 | エッセイ



 昨年(2016年)秋、20年ぶりに大阪に行った。

 大阪は、僕が最初の大学に入った街。親父の関係で、淡路島の洲本高校に1年半いて卒業した。特別奨学金だけしか金はなかったから、学費の安い公立を選んだ。それが、大阪市立大学だった。

 60年安保闘争のど真ん中、しかも、学長までマルクス系で、安保反対デモには学校がチャーターしたバスで参加したものだ。学長が真っ先にそのバスに乗っていた。左派の弾圧などで、京大などから立派な教授が大阪市大に流れてきていたからだ。学生は、左派だらけだった。

 1960年6月15日には、大阪の一番大きな道、御堂筋を占拠してフランス式デモが行われたのを昨日のことのように覚えている。樺美智子さんの死が伝わったのは、そのデモが難波について、流れ解散になった時だった。僕も機動隊との乱闘で、血にまみれた。



 <フランス式デモ>

 そんな大阪の街を20年ぶりに尋ねることにした。目的は三つ。

 一つは、大阪市立東洋陶磁美術館を、時間をかけて見ておくこと。
 二つ目は、僕の知人、Mさんのご尊父が集められたという、中国、朝鮮の陶磁器の個人コレクションを拝見すること。

 心臓君の制限で、一日一仕事と決めているから、4泊5日のスケジュールを組んだ。フルに使える中3日の2日を、二つの陶磁器コレクションの鑑賞日とし、後の1日で、大阪の旨いものを食べ、懐かしい景色を眺めてみようという旅だった。

 中之島の大阪市立東洋陶磁美術館には、うんと昔に行ったことがある。淀屋橋から懐かしい府立図書館を過ぎ、中之島の端っこに立つ美術館だ。府立図書館を思い出したのは大学受験の夏休みに、受験勉強の席を確保するために朝、並んでいたら、新聞社が来て受験生の列を写真に撮った。偶然、僕が映ったので、新聞の切り抜きを取っておいていたからだ。



 <大阪市立東洋陶磁美術館>

 ここ市立東洋陶磁館は、本当に素晴らしい。安宅を住友が救済したが、安宅コレクションを切り売りすると、ちりじりになり、散逸してしまうことを恐れ、安宅コレションをそっくりそのまま、無料で大阪市に寄贈したと聞く。おかげで、安宅が華やかな頃、中国や朝鮮で買い集めた東洋陶磁器を、安宅コレクションとして僕たちが楽しむことが出来る。商売、商売の大阪商人も、まんざらではないと感じいった。

 僕は、ここの陶磁器を東京で二回は見ている。一度は上野の国立博物館。この時、朝鮮磁器のとりこになって、日本の焼き物は、いくつかの例外を除いて、まったく緊張感のない三流に見えるのだ。「てびねり」という、これでどうだというような、生臭い、まがい物のように見えるのだ。

 数年前に、六本木のミッドタウン美術館でも、安宅コレクションを見て、そのすばらしさを、再確認させられた思い出もある。



<3点の葉書>


 残念ながら、今回は、東洋陶磁美術館では、壊れた白磁の大壺は展示されていなくて、残念だった。



 <壊れた大壺 東洋陶磁美術館HPより>

 中の一日、懐かしい大阪を観ようと地下鉄で阿倍野まで出かけ、あべのハルカスに登ってきた。横浜のランドマークタワーに比べて高いだけではなく、最上階にゆとりがあって気持ちがいい。谷町筋、四天王寺の境内、天王寺動物園、懐かしい阪堺電車などを足元に眺め、変わった大阪の街を見た。



 <四天王寺と堺筋>




 <阪堺電車>

 そのあと難波に出て、千日前で昔、感激したカンテキ(七輪)で焼くホルモン焼きの汚い店を探したが、みんな小ぎれいになって昔の風情は消えていた。電熱器で焼いたホルモンを食べ、大阪で一番と言われるたこ焼きを食べ、一応楽しんだ。

 残念ながら、二つ目のM氏のコレクションは、M氏から、お見せできないと連絡が入ったのは、横浜を出発する2週間前。理由は不明。

 楽しみにしていたのにと、残念。M氏が送ってくれた手作りのパンフレットを見ると、中国の作品が26点、朝鮮のものが10点、僕には興味のない日本のもの9点、合計45点のすばらしいコレクションだ。じっくり、半日はかけて拝見したいと連絡したのだったが…。

 もともと中国のものは、僕には、朝鮮のものに比べて、武骨で、繊細さがないとみえる。強いて言えば、北宋時代の白磁の花瓶、南宋時代の青磁の茶わんなどが目に付く。



 <李朝白磁大壺 M氏コレクション>

 朝鮮のものになると、すばらしい作品が続く。中でも、高麗の青磁器、李朝の白磁の大壺は、特に観てみたいものだった。これらの中には、安宅コレクションにも負けない作品が残っているようだった。



 <高麗青磁 M氏コレクション>

 今から思えば、2013年に連絡をもらった時、すっ飛んで行っていれば見られたものをと慚愧に堪えない。「善は急げ」「鉄は熱いうちに打て」とは、こんなことをいうのではないかと反省しきり。やはり残念でならない。

 2013年にM氏と話した時、「本当にあなたは、億万長者だね」と言ったことを思い出す。鑑定され本物だとなったら、億という数字をこえても不思議ではない。このコレクションが、相続などの問題で散逸するとしたら、悲しいことだ。作品にとっても、群れでいた方がうれしいはずだが。

 これで、このコレクションは、まさに幻となってしまった。