M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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20年ぶりにカラオケを唄ってみると

2015-04-22 | エッセイ

 僕はもともと、カラオケで歌うのは苦手だった。カラオケというと、スナックやバーの他の客の前で、みんなに聞かれながら歌うという形式だったからだ。つまり、レーザーディスクの時代だ。

 最後にこの形でカラオケを歌ったのは、僕のI社の早期退職の送別会・二次会だったから、明確に覚えている。ちょうど20年前になる。

 この2~3年間、歌ってみたいなと思う自分がいた。理由は分からない。おそらく、テレビで60~70年代のポップスなどを聞いている時に、自分も小さく歌っている自分自身に気がついたからだろう。

 大学時代の親友H君とは、クラブ活動のキャンプや飲み会などで二人で歌っていたことがある。いわば、デュオだ。ハモれる曲も何曲かあった。しかし、聴いていた皆が楽しんでいたかどうかは定かではない。要は二人で、歌うことを楽しんでいたというだけだ。

 H君を呼び出して一緒に歌ってみたいというような曲に巡り合うと、カラオケをやってみようとメールしてみようかと思ったりしていた。

 そうだ、YouTubeがあると思いついた。

 大学時代に歌っていた曲を思い出して検索してみると、いろいろ出てくる。最初はポップスから始まって、J-POPS、ジャンルを問わずに曲は広がって行って、演歌あたりまで、歌っていたようだ。

 何と言っても、最初はP.P.M.だ。「500マイル」とか、「パフ」とか、「花はどこへ行ったの」とか、「風に吹かれて」とか、リストアップしていくと、大学祭で歌っていた頃のことを思い出す。その頃は、ジョンバエズに始まった反戦歌が中心だったようだ。



 <PPMのパフ:マジックドラゴン>

 ジョンバエズでは、「Green Grass of Home」とか,「Blowin’in The Wind」とかがはずせない。オリビア ニュートンジョンでは、「The Country Road」などは必ず出て来る。

 なんだか、懐かしい気持ちか、鼻のあたりがツーンとする。そんな香りを感じる。

 サイモンとガーファンクルになると、もっと新しい。ビートルズは聞くことはしたが、自分で歌えるものではなかった。難しかったのだ。

 もうこうなったら恥ずかしげもなく歌えるH君を呼び出し、カラオケに行くしかない。くたばる迄の宿題・棺桶リストにものっけた。そんな風に僕の中で、カラオケへの気持ちが高まっていった。

 大学時代に歌っていた曲を離れ、スナックでレーザーディスクのカラオケで歌っていた頃の曲を探してみた。自分でも、メチャクチャなジャンルに歌が広がっている。まあ、僕の持ち歌というとこんなものだ…。

 ・平岡精二の「爪」や「あいつ」:1962
 ・シューベルトの「風」や「花嫁」:1969
 ・ちあきなおみの「喝采」:1972
 ・風の「22歳の別れ」や「なごり雪」:1974
 ・森進一の「襟裳岬」:1974
 ・荒井由美(決して松戸谷由美ではない)の「卒業写真」:1975
 ・ファイファイセットの「フィーリング」:1977
 ・サーカスの「ミスター サマータイム」:1978
 ・ボロの「大阪で生まれた女」:1979
 ・上田正樹の「悲しい色やね」:1982
 ・小林旭の「熱き心に」:1985

 などなどが浮かんでくる。1990年代の曲はほとんどない。

 これらの歌を歌ってみたいと思い始めると、たまらない。結局、現役で忙しいH君を呼び出すことにした。

 場所は、僕の住んでる横浜と、彼の住んでる埼玉県のO市の中間点、上野・御徒町あたり。カラオケ屋を検索して見る。色々あるけれど、カラオケ専門店に行ったことない僕はどの店が良いのか分からない。写真の雰囲気だけでこんな店と、広小路のPという店を候補にした。



 <インドネシア、バリ風カラオケ屋さん>

 二人、御徒町で待ち合わせ。まずは昼飯と、古くからのそば屋に入る。桜の香りのする期間限定のせいろを食って、花見でにぎわう上野広小路をかすめ、カラオケ屋さんに入った。

 選んできた曲を二人で歌い始めると、二人で一緒に歌った大学時代の感触が立ち返ってくる。歳のせいか、歌っていないせいか、僕は高音が出なくなっている。仕方ないから、曲の途中でオクターブ下げて、ドス(?)の利いた声で歌う。




 <カラオケの二人>

 H君は現役だから、お客様とカラオケ接待もやっていて、チャンと高い声も出る。懐かしいビブラートのきいた声を聞きながら、ハモってみる。

 H君の選んできた曲は、半分くらいしか知らない。しかし、知っている曲が出ると、僕は付いていってみる。

 歌っていると、その曲を歌っていた時代を脳が覚えていて、こんな思い出が、この曲に隠れていたのだと気づかされる。

 例えば、ちあきなおみの「喝采」。日本レコード大賞をうけて彼女が歌った時、僕は家族四人で夕飯を食っていていた。子供たちの前だったのに、テレビを見ながら急に涙があふれてきて、ボロボロ泣いてしまった、なんて。

 そう、一つ一つの曲に、僕自身の思い出と、H君の思い出が交錯する。あっという間の2時間だった。

 上野広小路に出たら、上野公園からの人の流れと、これから公園に花見に上っていく人の流れが交錯する春の夕暮れが近づいていた。

 次の日、僕のメールに、H君から、森山直太朗の「さくら」もいいから勉強してみると書いてあった。やる気十分のようだ。うれしい。でも、いつになるかはわからない。

5.初めての親父とのいさかい

2015-04-08 | エッセイ・シリース

「初めての…記憶たちシリーズ」 5話

 親父は、僕が51歳の時にくたばったから、長い付き合いだったと言えるだろう。この間、数限りないいさかいがあった。

 覚えている中に、僕が中学2年の時、親父が新しいお袋を連れて帰ってきた時の暴力をふるった喧嘩がある。その頃、親父は54~5歳。僕は育ち盛りの中学生だから、加減を知らない。親父を蹴飛ばして、倒してしまったことがある。それ以降、親父は僕に暴力を振るわなくなった。ここで、体力的な下剋上が起きたのだと思う。

 思い出せば、口論を含めれば数限りがない。

 僕にとって、結果的には親父にとっても、生涯忘れることのできない、あらそいを書いておくのがこのエッセイの目的だ。



 <水彩絵の具>

 僕が、幼稚園児の5歳の頃だろうと思う。幼稚園児のくせに、クレヨンではなく、水彩で絵を描いていた。洋画家の親父の影響や、おっきい姉ちゃんが、水彩画が上手くて県展で表彰されたりしていたのが影響したのか、生意気にも僕は、僕自身の水彩の道具を持っていた。

 ある朝早く、僕は裏山のふもとから、平野の向こうに見える山と林を水彩で描いた。もうその絵は手元には無いが、薄紫の山肌と、尾根あたりに見える林を深い緑色で描いたことを覚えている。

 上手く描けたと思ったので、元気よく親父に見せに帰ってきた。うれしかったのだと思う。しかし、絵を見るなり、親父は誰が描いたのだと聞いてきた。僕は、きょとんとしながら、僕だよと答えた。誰かに描いてもらったのだろうと、親父は信じなかった。本当に僕が描いたのだと、泣きながら親父に逆らった。しかし、信じてはもらえなかった。

 悔し涙をためながら、もう一枚描いてくる…と、絵の具箱を持って家を飛び出した。同じ場所で、同じように描いて、その絵を持って帰った。それが証明だった。やっと親父は、その絵が僕のものだと認めてくれた。二枚目の絵は、水彩絵の具も乾かない涙の跡のある絵だったと思う。

 その時、僕は心の中で、決して絵描きにはならないと心理学でいう「早期決断」をしたのだと思う。親父が絵描きだという生活に対し、蓄積した不満もあったのだろう。絶対に、親父の跡は継がないと決心したのだ。それ以降、自分から絵を描くのをやめた。

 絵描きという貧乏な生活に対する反発もあった。お袋は小っちゃい姉ちゃんを連れて、実家のある土佐に帰って行った。淋しかったのだろう、その頃の僕は。結果として、僕はおばあちゃんに、そしておっきい姉ちゃんに助けてもらいながら、外では人に優しく、でも内では怒鳴り散らす怖い親父と幼児期を過ごした。

 そして、中学2年の時、親父は新しい「お袋」、友人の奥さんだった人を連れて帰ってきた。これが、お前の母だと言われた。そこで起きたのが、冒頭に描いた暴力だった。

 さらにある日、親父は僕に、高校から先はもう学費は面倒を見られないな…とぽつんと言った。あ然としたけれど、返す言葉がなかった。後は先生の力や、他の人の力を借りながら、特別奨学生になって高校一年生から奨学金をもらい、大学ではバイトと大学の授業料免除制度で切り抜けた。

 僕が親父と普通に話せるようになったのは、就職し、家を建て、孫を見せに毎年元旦に根岸の親父の家を訪ねるようになってからだ。約20年間、まともに親父とは話したことがなかった。話したくもなかった。会いたくもなかった。会うと、僕の怒りが目覚めてくるからだ。

 親父と男の子は、基本的には反目するのが当たり前だと心理学は説く。それは、母親という一番近しい人女性を奪い合う関係にあるからだと言う。そうかもしれないと思う。僕自身が親になって、やっと親のむずかしさを知り始めた頃に、親父と話しながら一緒に飲めるようになった。それは、独立した男同士の世界になったからだろう。

 後日談がある。だいぶ経って僕自身についての発見があった。それは、あんなに絵は描かないと決めていたのに、実は大きな絵を描き、具体化し、会社の業務を動かしていたことを発見したのだ。約30年間にわたって、I社の製品開発製造グループ全体の適用業務アプリケーションのシステムアーキテクトとして育っていた自分の存在を認識したのだ。



 <Architect> NASA
 “Systems Architect” by Mr. James Webb PD

 幸い、I社の成長期で、真っ白なキャンバスの上に、コンピューター・システムをデザインし、それを一つずつ、部下のSEと、仲間と、マネジメントと、外部のプログラマーと一緒に、完成してきた僕を発見したのだ。



 <APTO Arch.>

 それは、親父がやっていた絵を描くと言う行為と、ほとんど同じことで、つまりデザインし、描き、実体のあるものに仕上げて、他の人に役立つと言うことで、何も変わらない。結果的には何のことは無い、気がつかないまま、僕は創造する喜びを楽しんでいたのだ。血は争えないものなのかも知れない。


参照:システムアーキテクト試験
https://www.jitec.ipa.go.jp/1_11seido/sa.html