M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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亡き親父の50年前を語る

2013-11-24 | エッセイ


 過日、奇妙な体験をした。奇妙というより、頭の混乱した二人が話したと言った方が素直だろう。

 銀座で、武内ヒロクニさんの個展があった。
 ヒロクニさんは、関西ではなじみが深い神戸出身のユニークな画家だ。



 まえに毎日新聞の夕刊に「しあわせ食堂」というコラムがあった。ここにはいろんな有名人(例えば、田辺聖子、藤田まこと、星野哲郎さんなど合計50名)が、戦後の腹ペコの時代を思い出し、一人一人が懐かしい「たべもの」について短いエッセイを書いている。これらに度肝を抜く絵をつけたのが、ヒロクニさん。

 これらの毎日新聞夕刊のエッセイと絵をまとめて、「しあわせ食堂」というタイトルで光人社から刊行されている。50のエッセイと、50の絵がついている。



いわし



羊羹

 ヒロクニさんに僕宛のサインを書いてもらった本は、その後2~3日で読んでしまった。

 僕の読み方がエッセイの読み方ではなかったからかもしれないが、50編の中のどれ一つ、今は覚えていない。いろんな人が書いたエッセイを、次から次へと読んでしまったので、みんながごちゃごちゃになって、結果として、何も残らないということを経験した例の一つだった。(参照「エッセイ本」) 僕のホームページ⇒ブログ⇒「エッセイ本」で読んでいただけます。

( http://tetsundojp.wix.com/world-of-tetsundo :ホームページのアドレス これをクリックしてみてください。

 冒頭の奇妙な体験について書いてみようと思うけれど、頭が混乱した一方が、一方的に書くのだから、うまく伝わるかどうかは分からない。

 ヒロクニさんとの出会いは、親父のことを書いておこうと資料をもとめてグーグルを検索したのがきっかけだった。唯一、武内ヒロクニさんのブログに親父の名前を見つけた。

 ヒロクニさんのことを、東京の親父のお弟子さんたちに訊いてみたけれど、誰一人、ヒロクニさんを知らなかった。グーグルでヒロクニさんの絵も見つけた。具象とも、抽象ともいえるユニークな絵柄だった。

 セピア色の写真に、親父と一緒に写っているヒロクニさんには、僕は見覚えがなかった。全くわからない。ブログの著者にメールした。返事があった。ヒロクニさんは、間違いなく僕の知らない親父を知っているようだ。チャンスがあれば、お会いしたいとメールを戻した。

 しばらくして、銀座で個展を開くと言う案内を頂いた。奥さまがネット担当のようだ。

 そこで、僕は銀座に出かけて、ヒロクニさんの絵を見て、奥様にお会いして、親父とのつながりをヒロクニさんから伺った。

 そこで、冒頭で話した混乱した会話が二人の間に生まれた。

 ヒロクニさんは、僕より5歳上の洋画家。親父との接点は、僕が高校生の頃だった。だから、今から50年ほど前の事だ。場所は神戸。絵の先生と弟子の仲だったようだ。すべて、僕は初めて聞く話だった。

 混乱したのは、ヒロクニさんが、僕の顔、声、白髪、しぐさなどに、彼が尊敬する(?)僕の親父を見出したのがきっかけだ。今話している目の前の僕のなかに、彼は親父の面影、イメージを見出し、まるで僕の親父と話しているかのような錯覚をもったようだ。

 僕達は画廊のソファーに横に並んで掛けて話していた。右側に座ったヒロクニさんの顔を見ながら話すため、体を右に向けて、僕は右手の肘をソファーの背もたれに掛けていた。

 ヒロクニさんが僕の手を見て、ちょっといい…と僕の手を取った。二人は握手した。温かな大きな手だった。親父の手にそっくりだとヒロクニさん。僕は親父の手は覚えていないけど、ヒロクニさんは覚えていたようだ。ヒロクニさんの手を僕のと比べてみた。かなり大きな手だった。僕の手も大きいから、ヒロクニさんも大きな手だった。

 ヒロクニさんは、ヒロクニさんが知らない神戸以降の親父の事を聞きたいという。今度は僕が、ヒロクニさんが知らない親父について話す。二人は同じ「徳山巍」について話しているけど、時代、年代の違う同一人物について語っているわけだから、三人が共有した世界はまったく無い。親父だけが、僕達、二人と時間を共有しているわけだけど、彼は22年前に亡くなっている。

 僕が親父の話をするときには、成り行きで僕自身の事も話すことになる。ヒロクニさんにとっては、それが親父の話なのか、僕自身にの話なのか、分からなくなってしまう。僕がヒロクニさんを混乱させているわけだ。

 さらに、親父の事を僕に話しているうちに、僕と話しているのか、僕に親父のことを話しているのか、はたまた、親父と直接話しているのか、分からなくなってしまったようだ。

 僕は親父に似ているとは思わない。きっと立ち振る舞いが似ているのだろう。

 僕が年配のヒロクニさんを、先生と呼んで話したことも、混乱をさそったようだ。「先生」という言葉は、彼にとっては親父の意味だった。彼が先生という時は、親父。僕が先生という時は、ヒロクニさん。これも混乱を引き起こす原因。

 そうなると、もうなにがなんだか、二人ともわからなくなって奇妙な会話になった。

 ヒロクニさんは、混乱を解消しようとして、トイレに立った。
 
 当初の目的の、僕の知らない親父、50年前の姿の一部を知ることが出来た。

 ヒロクニさんは、この会話をどう理解しているのかはわからない。二人とも混乱の中にいたから…。

 僕にとっては、え難い機会だった。ありがとうございます、ヒロクニさん。

 そういえば、ヒロクニさんは親父の晩年の風貌そっくりだった。どちらかと言うと、ヒロクニさんの方が、息子の僕より親父に似ているかもしれない。


注:添付の絵は、「しあわせ食堂」の本をスキャンしたので、真ん中で、切れている。ご容赦!

親父の絵、「飾り馬」を買い戻す

2013-11-10 | エッセイ

 22年前に貧乏な無名の洋画家として87歳で親父は亡くなった。葬式は、文京区白山にある寺で1月の10日だった。その日、初雪が東京に降った。寒い日だった。その式には、400人を超えるお弟子さんたちや、絵画教室の教え子たちが集まってくれた。

 親父は無名だと書いたけれど、お弟子さんたちや、絵画教室の教え子たちにはとても慕われた洋画家でもあった。僕から見ると、洋画家ではあるけれど、作家ではなかったということだ。教育者に近いと言えるだろう。

 その経緯や、僕にとっての親父という存在については、僕の本に書いているのでそちらを読んでもらえばその背景が分かると思う。「親父から僕へ、そして君たちへ」を参照してください。http://forkn.jp/book/2064/



 話を戻すと、僕にも歳が迫ってきて、どこかで書いているけど、くたばる迄にやっておきたいこと、会っておきたい人たちのリストを作って、心臓君のご機嫌をみながら実行している。そんなリストの事を米語では棺桶リスト(Casket List)と言うらしい。

 親父の残した絵は、くたばる時期の絵と、少し遡った時代の少数の絵と、あまりにもデカくて、どこにも行き場のない大作、400号の三枚だった。

 僕の気に入った絵はほとんどなくて、最後の時期の抽象画を何枚かとって置いた。だが、僕には、それらの絵を親父の代表作とは思えなかった。

 どちらかというと、遊びで(?)描いた水彩の色紙(具象の絵)や、親父から見れば頼まれて描いていた未完成の具象の方が、よほどいい作品だと思っている。

 唯一、何としても手元に置いておきたい絵の存在を、僕は知っていた。知っていたのは存在だけで、誰がどこに、どんなふうに持っているかは知らなかった。その絵の存在を知ったのは、生前、お弟子さんたちが、銀座の東京セントラル美術館で開いてくれた、親父が80歳記念作品展にあった。

 小さな作品で、親父が自分で持ち主に頼んで、展覧会のために借り出したようだ。

 僕の棺桶リストには、その絵を手に入れることが在った。それは、子どもや孫たちに、ほら、これがおじいちゃんの絵だよと、僕がくたばった後にも残して置きたかったからだ。

 展覧会を開いてくれたお弟子さんたちに、訊ねてみたが正確には答えが返ってこない。親父のメモを発見したのは、その展覧会の画集の後の方に小さく記載されていた覚え書。

 その絵が「飾り馬」。親父が谷中のアトリエを1920年3月10日に焼かれ、僕の家系の発祥地、中国山脈の山の中、徳山村に疎開をしたころの作品だった。

 親父は、昔の小さな城下町、中国勝山という町の高校に美術の臨時講師の職を得て、一家6名(父と妻、母、子供3人)が、なんとか食いつないでいた。貧困な家庭だった。しかし、親父の心の中には、台東区谷中への帰京を果たそうと考えていたようだ。

 この絵は、この頃、描かれていた。いい絵だった。昔の飾り馬を静物画として描いた小品だった。持ち主は、その小さな町の造り酒屋、辻本店の先々代の彌平さんが、篤志家として買ってくれたようだ。

 勝山は旭川の流れに沿っていて、辻本店は「御前酒」という名前のお酒をしている蔵元。美しい大きな蔵と、酒の醸造のための大きな建物の、白壁と大屋根が美しい。

 見ず知らずの人に手紙を書くのは初めてだ。

 『御社のHPに、「当蔵元の辻家では、明治から昭和にかけての当主が、文化的な活動にも積極性であり、自ら書画を嗜むことから…」と記載があるとおり、貧乏洋画家、徳山巍にもご厚意を頂いたようで、先代のことは父がよく話しておりました。』

 先代の奥様、智子さまにご協力いただくことができ、大きな蔵の中から、三月のお雛様飾りを取り出す時に、幸運にも、膨大な収集品のなかから、その絵を見つけていただきました。それも、偶然に見つかったようで…。

 僕は、親父のくたばる頃の親父の絵の値段、つまり最後の頃の値段でお譲り頂き、その絵が僕の手元に届いた。

「飾り馬」はF3号(27.3 X 22.0㎜の小さな絵。しかし、息子が言うのは変かもしれないが、思った通り素晴らし絵だった。

 今、僕の部屋の壁にかけて毎日見ている。隣には、僕の大好きなシャガールの「The Yellow Face」が掛かっている。この中にも黄色い馬のような動物が描かれている。「飾り馬」と似ている優しい目をしている。

 これらを見ながら、このエッセイを書いている。これで、僕の棺桶リストの一項目に ○ が付いた。しあわせなことです。感謝。

 さらに、今月お弟子さんたちが開く、銀座の画廊でのグループ展へ出品依頼も受けた。
 
 また、誰かの目に留まることだろう。絵も喜んでいるだろう。


P.S.
「御前酒」の蔵元のある中国勝山は、元は岡山県真庭郡の中心だったようですが、残念ながら、高速・中国道からも、米子道からも外れ、美しい西蔵という辻本店のレストランを知る人はあまり多くない様子。折がありましたら、ぜひ訪れてみてください。
HP: http://www.gozenshu.co.jp/index.html