M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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大学からの友達、3人会 横浜

2014-12-30 | エッセイ

 大学時代の友達二人と横浜で会った。前回は、浅草で4年前だから、お互いに歳を取ったはずだ。しかし…。




 <4年前の浅草>

 一人は現役のコンサルタント。日本の建築材料に特化したノウハウで、中国ビジネスを果敢にやっている。会う前の週も、北京に出張していたという。厳しい日中関係のもとで、中国企業相手にがんばっている。でも、幸せそうだ。3人の中で、唯一の現役だからだと思う。

 横浜で会うことにしたのは、彼らの僕に対する気づかい。僕の心臓の病気を気にして、本当は3人にとって中間点となる新宿を考えていたのだが、10月中旬の予定を僕が延期したから気にしてくれたのだ。その時は、体調に自信が持てなくて、先延ばしにしてもらった約束の日の、前日のドタキャンだった。その10月も、実は7月の約束を僕が延期したものだったのだが。

 一人は八王子、一人は埼玉県の桶川。そして僕は横浜。二人とも1時間以上かけて横浜までやって来てくれたわけだ。感謝、感謝。僕としては、勝手知った横浜だから、楽ちん。



 <ジョイナスの森>

 きっと知らないと思って、会うとすぐにジョイナスの屋上の森に、二人を連れて行った。想像以上に深い林に彼らは感嘆して写真を取った。ここは、僕が何十年も前から、子供たちを連れて、アイスクリームや食べ物を持って、よく遊びに来ていたところだ。懐かしい。彼らが初めてだったのは幸いだった。

 遅い昼飯を一緒に食うというのがテーマだったから、ジョイナスの森での最初の会話は何を食べるか…だった。僕が知っているのは、高島屋のレストラン街。中華も、蕎麦も、日本料理も、イタリアンもなんでもある。一応、心積りはイタリアンだった。OKが出たので、ナポリのピッツア屋、ナープレに連れて行った。ここは、本場と同じように石窯でピッツア(ピザではない)を焼いてくれる。



 <ピッツア・マルゲリータ>

 自慢そうに話しているが、実は、この店を教えてくれたのは、僕の娘。雰囲気と味と、ゆったり感が気に入って、その後、何度か使っている。友達に会うには、もってこいだ。昼の営業は3時までで、ラストオーダーは2時半。僕たちにとって、ピッタリだ。

 ワインとサラダと、3種類のピッツアを注文して話し始める。あっという間に、4年という時がけし飛んで、昨日の続きの今日になる。不思議なものだ。これが、友達の持つ時空感なのかもしれない。タイムカプセルで、時空を飛び回って来れるから不思議なものだ。




 <ナープレの三人>

 僕は少しだけどイタリア語が話せるから、店のシチリア人のカメリエーレ(給仕人)、ピエロとイタリア語を話すのも楽しい。彼はシチリア人だから、イタリアといえばシチリアだ。しかし僕は、ミラノに2年ほど住んでいて、その後も何度かイタリアを旅しているが、ローマから南に行ったことがない。ピエロはそれが気に入らない。僕は、シチリア知らない。彼は、僕の知っているイタリアではないという。そこで、冗談半分、本気半分の会話が始まる。

 大学時代の思い出が話題の中心だ。クラブ活動のこと、一緒に飲みに行った助教授のこと、大学祭の行事の映画のこと、話は何にでも飛んでいく。懐かしい他の友人の話にもなる。ホテルの支配人をしていたKはどうしているだろうかとか、学科で一番の美女だと言われていた女の子を射止めたFはどうだろうかとか。

 共通の話題は、クラブの活発な女の子だったIさん。早く亡くなって、この世にはいない。いつだったか10何年前位に、クラブの40周年記念の会があって、そこで4人で話したことが最後になった。

 そう、二人に、その瞬間、話そうと思っていたことがあったのだが、タイミングを逃して、話せなかったことがある。

 それは、Iさんとアリバイ作りに、もう一人の女の子(名前も忘れている)と一緒に、夜行列車で東京から、奈良まで行ったことだ。どうしても東大寺と室生寺を見たいとIさんがいうので、僕が1年間在学した大阪市大の頃の記憶を頼りに、僕もアリバイ作りに関西のピアニスト、プラス一人の5人で、奈良を歩いたのだ。Iさんには可愛いい笑顔があった。

 新しい発見も在った。岩手出身のH君が、岩手でヤンキーをやっていたという話を聞いて、自然に、そうだなーと思ってしまった。今も、そんな雰囲気がちゃんとある。古くて、新しい話を聞いた気がした。これからも、ヤンキーをやり続けてくれ。

 長野出身のもう一人のH君からは、僕が頼んでおいた「入院連帯保証書」を受け取り、さらにご子息の著書を受け取った。古い友人の新しい好意を受けて、僕の入院が確定した。病院は、現役の連帯保証人を立てられない人は、入院できないのだ。変な世界だ。

 食後に、ピエロのおまけで、レモンチェッロが3人にふるまわれた。小さなグラスだけど、アルコール度数の高い蒸留酒にレモンの皮を入れて風味を移す南イタリアの食後酒。楽しく飲んだら、僕の顔が急に赤くなったらしく、友達二人が心配してくれた。大丈夫?って。

 一仕事、4時間の門限(?)は、なんとか守れて、横浜駅で別れたのは4時半。あっという間に、楽しい時間はすっとんでしまった。今度、いつ会えるのだろう。



 <プティ・ガトー>

 もっと頻繁に会おうかという話も出た。どうなるかは神様次第。二人の奥様に、僕のちょっとしたプレゼント、芦屋のH.C.のプティ・ガトーを届けてもらったが、反応は聞いていない。

怪我の想い出を集めてみると

2014-12-17 | エッセイ


 長い人生だから、経験した怪我を集めてみると結構ある、ある。



 時系列に並べてみると、小っちゃい時より、大きくなるほど増えているような気がする。結果として、性格も透けて見えてきているような気がする。恥ずかしいけど、書いてみる。

 最初の怪我については、別のシリーズ(初めての…シリーズ)で書いているから、簡単に紹介する。4歳ぐらいの頃、板垣と蔵の間に滑り落ちた。板垣に打ってあった釘を背中に受けて、体重でずり落ちた。だから、今でも背中には傷跡がある。忘れない。一緒に遊んでいた友達の家が医者だった。その彼が、今も山の中で医者をしている。秀ちゃん、もう会うことは無いだろう。

 幼稚園になると、墓地で戦いごっこをやった。パチンコ(ゴム銃)で小石を打ち合って遊んでいた時、身を隠した墓石にいやっというほど額を打ち付けて、眉毛のあたりを切った。血が噴き出して、お医者さんに行って4、5針縫ってもらった。今でも、右の眉に傷跡が残る。不注意な怪我だろう。

 中学の実習で、みんなで花壇を耕した。物置小屋の鍬(くわ)を掛けるところに、ちゃんとは掛けてなかったのだろう、鍬が落ちてきた。墓石に打ちつけた時と同じように、こんどは左側の眉毛のあたりを切った。学校の先生が慌てて、外科病院に運んで、また縫ってもらった。だから僕の眉には左右に同じような傷跡が残る。幸い、眉毛の中に隠れているから、皆をギョッとはさせてはいない。

 高校では、これは僕のせいでない骨折。サッカーをやっていた。右足でボールを切った瞬間、友達が同じボールを蹴ろうとして、僕の左足をけり上げた。僕の両足が宙に浮いて、左の腕で着地。その時、左腕尺骨を骨折。

 大学時代のバイト先で、鉄の4段ロッカーを開けて書類を取り出していたら、ロッカーの最上段が滑り出てきた。反射的に止めようと右手を出したら、滑り出た鉄の引き出しの角で、右手の小指の外側を切った。バイト先の課長が慌てて、近くの虎の門病院に連れて行ってくれて、そこで縫合してもらった。今も、右手小指には、縫合のギザギザがある。でもそれで、バイト先の麗の君の唇に触れることが出来た。

 大学時代には、11月3日にクラブのハイキングで高尾山に登った。まだ、冬山とは思っていなかったのだけど、初雪がうっすら。もみじ台から、一丁平、小仏は尾根道で順調。しかし千木良、つまり相模湖への下りで、うかつにも柴の上の雪に乗ってスリップ。 グループのなかで、一番山歩きの経験のある僕がザックを飛ばした。そして、またまた、左腕の尺骨を折った。

 友達の関係者が東京女子医大にいるというので、腕木をして中央線で新宿に戻った。たちまちギプス。でも若かったのだろう、12月の大学祭のダンスパーティの前日にはギプスから解放され、ジルバを踊っていた。後遺症は無い。

 大学を卒業して、I社に就職。スキーで妙高・赤倉スキー場を斜滑降していたら、その日に初めてスキーを履いたばかりの人に、直滑降で飛びこまれた。僕の左足のすねは、彼のスキーのエッジでスパッと切れた。白いゲレンデに鮮血。スノーボートで麓まで運んで貰った。

 臨時の診療所が開設されていて、そこで脛を縫合。偶然、それは僕の最初の大学、大阪市立大の医学部が開設したものだった。時間が経っても脛の肉は薄いので、縫合はうまくいかず、今も、脛に傷を持つ身。着いたばかりの日だったのに、その夜の列車で新宿に帰ってきた。くっ~~~だった。

 人生最大のけがは、車の自損事故。しかも酒酔い運転。4年がかりの大きなプロジェクトがカットオーバー(稼働開始)。海の向こうからも多数、お偉いさんたちが来て、江の島のレストランを借り切ってパーティー。プロジェクトリーダーだった僕が表彰された夜、車を運転して帰りに、用水路に車を落として右腕を骨折。上腕X2,肘関節、尺骨x2の合計5か所の複雑骨折で、3か月の入院。即、罰で課長は即首に。部長付に降格。車の中で、運転するまで3時間ほど寝たのになぁ…と今でも恨み言。

 落こった用水路から僕を救ってくれたチーズ工場の人たち、仕事で迷惑を掛けた人たち、お見舞いなど世話になった人たち、家族や友人などの心配掛けた人たち、本当に感謝。幸いだったのは、イタリアで仕込まれたて、シートベルトをしていたこと。そうでなかったら、僕の人生は、もしかするとあそこで終わっていたかもしれない。

 3年ほどのペナルティー・ボックス入りの後、課長に復職して、12月のボーナスの日。みんなに早くボーナスの明細書を渡そうと、大型コンピュータがそそり立つ部屋に入った。大型のコンピュータ群を動かすには、配線と冷房のために、床が1メーター以上上げてある。大型のマシンの角を曲がったら、目の前のフロアの蓋が一枚だけ開いていた。落とし穴は、保守の連中が仕掛けていた。(嘘)

 明細書の名前の確認でもしていたのだろう、左足のすねをこすり付けながら、穴に落下。すねの皮と肉が削れて、骨がすぐそこにあった。出血。でも、ボーナスの明細書は呻きながらもみんなに配り終えた。診療室に行ったら、看護婦さんに怒鳴られた。縫合も出来ないから、包帯で手当てをしてもらった。今も、左すねの肉が削げてキズになっている。二回目の脛に傷。

 最後は、I社の初代コンサルの頃。前日の雨で柔らかくなっていた庭には、モグラの掘った穴があったようだ。それに気づかず、脚立に登って庭の金木犀を剪定中、脚立の足が、モグラの掘ったトンネルにズルリとめり込み、バランスを崩して転落。しかも悪いことに、落ちたのは飛び石の上。左のかかとを骨折した。
 
 娘が見ていて、救急車で、横浜国際親善病院に入院。1か月で退院したが、最初のクライアントの仕事を二人で担当していた相棒、Nさんに迷惑をかけてしまった。ピンチヒッターのTさんもいい迷惑。今でも頭が上がらない。後遺症として、左足のアーチが狂っている。左足で片足立ちして見ると、それがよく分かる。

 まとめてみると、自分の不注意が8ケ、他責が2ケ。圧倒的に自分の不注意。

 今はもう、血がサラサラになる薬、ワルファリンを飲んでいるから、怪我はできない。一応、慎重に生活している。これからは、何もないことを願っている日々だ。



<ギプスの絵は、WikipediaからDx220bさんの“Long arm cast”をお借りしました>

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4.初めての戦いごっこ

2014-12-10 | エッセイ・シリース

「初めての…記憶たちシリーズ」


・けが パチンコと石 5歳頃

 子供の時に、男の子はみんな、一度は「陣地」を作ったことがあると思う。仲間だけがたどりつける秘密の場所。何だか、自分たちだけの別の世界が出来たようで、嬉しかった。

 僕達も、同年輩の友達3名くらいで、裏山の熊笹を刈って、小さな空間を作って、そこを陣地としていた。本当だったら、大きな木の上だとかに小屋を建てて、そこでおやつを食べたり、何かを肥後守で作ったりするんだけど、そんな木の上の小屋なんて、チビの僕たちにはできなくて、笹の密生した中に、小さな空間を作って遊んでいた。

 近くの林を探検して、ターザンごっこに使えそうな蔓を探した。大きな木に巻きついている蔓を見つけるため。蔓はしなやかで強いから、それにぶら下がって、その頃、はやっていたターザンの真似をして、アアア~~と声を出しながらスイングするのだ。


<ターザン>

 僕たちも、大きな木の枝にまで届く太い蔓を何本も見つけて、その木が谷間の斜面に立っていれば、谷の反対に生えている木まで、蔓にぶら下がりながら飛んで行って、その木に乗り移るって遊びをしていた。今から考えれば、とても危険なことを平気でしたいたものだ。

 ある日、僕たちが選んだのは、谷の向こうに太い竹が生えている所でターザンになった。アアア~~~~と言いながら、飛び出した。

 僕が足で捕まえたのは、目標の木ではなくて、隣の竹の幹だった。しかも、その竹はもう一本の竹ときつく交差していて、飛びついた僕の太ももをその日本の竹が締め付けた。自分の体重がかかるから、交わったところではすごい力が掛かってきた。痛くて、苦しくて、もがけばもがくほど、僕の右太ももは二本の竹に締め上げられていく。

 もうだめだとあきらめて、友達に家まで助けを求めに走ってくれるように頼んだ。僕は、血流が竹に占めあげられて、腿は悲鳴を上げていた。もがけば、もがくほど、強く締め付ける。

 運良く、10歳上の姉が家に居た。姉は飛んできて、僕を下から支えようと、僕の足を持ち上げてくれる。しかし、僕の体は竹に締め上げられたままびくともしない。最後に、「てッちゃん、私の頭に足をかけて…」と言った。竹の幹をつかんで体を固定した姉の頭を思い切り蹴飛ばして、ようやく僕は、その締め上げている二本の竹の上に出ることが出来た。やっと助かった。

 姉と僕とは、荒い息をしながら、林の中にうずくまっていた。僕友達も一緒に座って、僕達を見ていた。危なかったのだ。その後、上の姉には頭が上がらなくなった。ありがとう、助けてくれて。

 今から思えば危険な遊びを、もっともっとしていたと思う。

 そのいちばんが、パチンコ(ゴム銃)での打ち合いだ。弾は石ころ。もちろんパチンコで打てるくらいの大きさだから、命に別状はない。しかし、石が本当に飛んでくるのだから、今考えるととても危険な遊びだとおもう。今だったら、大人から危険な遊びとしてストップがかかっている、間違いなく。


<パチンコ>

 裏山に行くには、有名な寺の墓地を通り過ぎていく。その墓地で僕たちは、時々パチンコで実弾勝負をしていた。墓に落ちている小さな石を、パチンコで墓石に隠れている友達にめがけて発射する。ビュンとゴムがはじけて、小石が友達の隠れている石の墓に当る。カチンという音がする。もちろん、僕の周りでも、ピュンヒュンと小石が跳ねている。それが戦いだ。

 いま思えば、目にでも当たったら、失明するような危険な遊びだ。でも、僕達は、それが面白くてやっていた。

 でも、僕のせいで、この遊びは禁止になった。

 僕が敵から飛んでくる石を避けて、ある石の墓の裏に隠れようとした時、敷石に足を滑らせて、ガツンと眉毛のあたりを墓にぶつけてしまったのだ。ざっくり割れた眉のところからは、大量の血が湧いてきた。友達はあわてた。彼のせいではないに。

 初めて、傷口をお医者に縫ってもらった。麻酔をしてくれたから、その瞬間の痛みは覚えてはいない。いまいましい。縫合する先生の記憶があるだけだ。

 これが、初めての戦いの結末だった。それっきり、パチンコでの戦いは僕の周りから消えていた。

 今でも、僕の右の眉毛の中には、傷跡がある。眉毛に隠れて、ちょっと見ても分からない。それが、戦いの痕。近しいものにしか知られていない。



<ターザンの写真は、flickrからOdaarwasikさんの“tarzan”をお借りしました>
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