M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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飛行機を列車に替えて、鳥取へ

2019-02-17 | エッセイ

 二つ目は、鳥取の鳥取Sanyoへのお客様のコールの時だった。鳥取の営業所が、製造業のアプリケーションを実際に動かしている責任者の僕を、同業のお客様のトップ訪問として企画したのだ。二つ返事で引き受けたのは、鳥取は僕のうちの祖先のご本家がある岡山の隣の県だから、余計に気持ちが動いたのかもしれない。

 鳥取行きのフライトがANAの都合で、飛ばなくなった。またかよと、気落ちしたが、広島行きのトラブルを思い出して、近隣の空港へのフライトを探した。幸い、羽田~米子のフライトが取れた。だが、米子から鳥取まで北上する手立ては考えていなかった。残念ながら新幹線は走っていない。米子駅で決めるしかないと、水木しげるの漫画にあやかった名前の「米子・鬼太郎空港」を後に、米子駅へとタクシーを拾った。



 <米子・鬼太郎空港>*1

 駅で調べて見ると、山陰本線には特急や急行は少なく、一番早そうなのが東京行の寝台特急、ブルートレーン「出雲」だった。仕方がない。特急料金を上乗せして、米子から鳥取までの列車の旅をすることになった。寝台特急はディーゼル機関車にひかれて、ゴットン・ゴーゴー、ゴットン・ゴーゴーと日本海をなめて走る。誰も相客のいないコンパートメントに一人ぽつねんと座って、車窓から見える人気のない町や村は、日本海を背にして寂しげに見えた。せっかちな僕には、やけにゆっくりだと感じた1時間だった。でもしょうがない。



 <ブルートレーン「出雲」>

 翌日、創業者の井植副社長にご挨拶をした。営業的な話はできないので、IBM社内の研究開発・製造支援のシステムの概況を話した。特に、ストラテジックに、全体のシステム構想をマネジメントを巻き込んで描いて、それに基づいたシステム開発の実績を話した。現実に大和研究所、藤沢工場、野洲の組み立て部門で動いているシステムを話したから、説得力があったのかもしれない。



 <井植さんのカード>

 僕の話を聞き終えた井植さんは、突然、明日から始まるサンヨー社内の「技術発表会」で同じ話をしてくれと依頼された。驚いたのはうちの営業のほうだった。聞くとサンヨーでは、地域の活性化の目的で、鳥取大学の理工学部系の卒業生は、サンヨーを希望すれば、基本的に全員採用していると聞かされて驚いた。こんな地方進出の企業理念もあるのだと、恐れ入った。翌日は休日で予定がなかったから、即、お受けした。



 <鳥取Sanyo>*2

 IBMの営業所に戻って、僕の持つ資料をフォイルに焼き、翌日の技術発表会(200人以上のエンジニアがいたと思う)で、同様な話をさせていただいた。質疑応答の時間もあり、僕も汗をかきながら、一生懸命、対応した。他社で技術者を相手に、こんなレクチャーはしたことがなくて、新しい経験をさせてもらった。

 最初の日の夜、鳥取営業所のおごりで、初めて岩ガキの大きいのに出会った。うまかった。事前のメールのやりとりの折、「夏にカキを食わせるって、俺を殺す気か」と話したことは撤回して、ご馳走になった。本当に大振りで、クリーミーで、うまかった。その後、岩ガキを探してはいるが、なかなか、あんな立派な岩カキに出会ったことはない。



 <岩ガキ>

 講演会の後、少し時間があったので、鳥取の街を歩いてみたが、決して活気のある町ではなかった。営業も大変だなあと思いながら、鳥取空港から羽田に飛んだ。



 <鳥取空港>*3

 後日、鳥取営業所から、大型の商談に成功しましたよと報告があった。よかったと僕自身でうれしかった。

他社のマネジメントと話すと、いつも大きな発見に僕が出会う。これも外に出てみる魅力の一つだった。


 あと営業支援で付き合いができたのは、東芝の府中工場長の小島さん、青梅工場長の岡田さん。お二人とは長い付き合いになった。Sonyさんやパナソニックの担当部長などともお話ができた。特記すると、韓国のサムスン電子の会長ともお知り合いになれたことだろう。今のサムスンの、繁栄の将来を見通すことは、僕にはできなかった。

 これらが、アプリケーション担当の役得であり、営業支援の面白さだった。


P.S.
クレジット情報
*1:米子・鬼太郎空港 及び *3:鳥取空港は、国土交通省の版権
*2:鳥取サンヨーは、日経新聞の版権


飛行機を列車に替えて、広島

2019-02-03 | エッセイ

 実際に開発製造部門のアプリケーションに責任を持っていた僕は、IBMの営業からの営業支援依頼で、いくつかの客先の企業を訪問する機会に恵まれた。そこには、楽しいことにも、困ったことにも当然あった。その中の二つほどを書いてみたい。

 内部のお客様とのコンタクトの多い僕にとっては、社外に出ることは基本的には楽しいことだった。だから、よほどのことがない限り、営業からの要請を受けて、お客様のサイトに出かけるようにしていた。でも予期できない状況に置かれて、必死になったことがいくつかある。最悪の問題は、お客様との約束を守るのが難しい状況に追い込まれた時だった。

 一つ目は、広島のお客様、マツダとの上級役員とIBMとの合同技術検討会議への出席だった。



 <マツダ本社>

 お客様との合同会議は、翌朝、8:30からと決まっていた。製造業の会議は、だいたいスタートが早い。だから、前日に広島入りが必要だった。羽田から広島空港(正確には、元)へのフライトの予約は取れていた。ホテルも広島空港の側に、広島の営業が予約して呉れていた。あとは飛べばいいだけだった。



 <元広島空港上空>*1

 しかし、羽田についたら、広島行のフライトがANAの理由でキャンセルとなっていた。ANAに掛け合ったが、自分で処理してくれというばかり。新幹線も彼らの頭の中にはあったのだろう。しかし、僕は翌朝が早い。できるだけ早く着いておくことが大切だった。怒りが込み上げてきたが仕方がない。考えた。そうだ、福岡に飛んで、そこから新幹線で逆に戻ってくればいいと考えた。ANAに再度掛け合って、福岡空港までのフライトを確保した。



 <福岡空港>*2

 僕にとっては、福岡は初めて。だから土地勘もない。そのころは、まだ空港までのメトロもなく、タクシーを博多駅まで飛ばした。そして、上りの新幹線に飛び乗った。広島についたのは、もうとっくに夜10時を回っていた。そこからまたタクシーで、飛行場の近くのホテルにたどり着いたのは、11時を回っていた。しかし、そこはビジネスホテルだから食事はとれない。近くにコンビニもない。

 仕方なく、一番近い食べ物にありつける所を訊いて、そこで目に飛び込んできた広島風お好み焼きの店を見つけて、やっと夕食を終わったのは11時半を過ぎていた。



 <広島風お好み焼き>

 翌朝、営業が僕を8時前に迎えに来て、なんとか、8:30amの会議に間に合った。とにかくよかったと自分を慰めた。マツダの上下関係のない自由さの、議論の闊達な会議に出席できたのは、僕にも収穫だった。ここでは、部長も、課長も、平のエンジニアも、出入り業者(IBMもその一つ)も、本音で率直な対話が成り立っていた。いい会社だなあと、感心したのを覚えている。何しろ、社外(IBM)の人間も、まったく自由に、社内会議で発言できたのだから。

 帰りは翌日、予定通り、今は無くなった広島空港から、羽田に帰ってきた。



 <元・広島空港>

 その後の営業からの報告によると、IBMの提案が採用されたと聞いた。あの焦りが、いい思い出になった。さらには、マツダという会社が素晴らしい会社だと分かったことは、その後、何度かお会いしたマツダの幹部との会話に大きくプラスした。風通しのいい会社だと、自信をもって会話できるからだ。



 <マツダ情報開発担当部長>

 その何年か後、IBM大和研究所でマツダの長谷川さんにお会いした時には、お土産に、初代ロードスターのキャストモデルをいただいた。赤いそのミニカーは、僕の書斎のデスクの上に今もある。



 <初代ロードスター(ウインドシールを落として壊してしまいました)>

 今、マツダさんとの関係はどうなっているか分からないが、あの闊達な会議に、IBMの誰かが出席できていればいいとは思う。

 僕はマツダ車は買わないが、最近のマツダの車は、他に例を見ない個性を持ったデザインになっていると思う。その裏には、あの風通しのいい社風が、今も息づいていると思うのだ。


P.S. クレジット情報:Copy Right
*1 西広島空港 by国土交通省
*2 福岡空港 by 西日本新聞
*3 元広島空港 by Taisho さん ライセンス:Creative Commons 3.0