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M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

碓氷峠の見晴台

2020-01-05 | エッセイ

これから始まる軽井沢近辺での3篇の旅の目的を書いておこう。すべて、僕のバケット・リスト(くたばる迄にやっておく事のリスト)の項目だ。

目的は大きくは3つ。

1.碓氷峠の見晴らし台に立つこと

2.群馬県と新潟県の境にある野反湖を訪ねること

3.信濃追分での積み残しの調査をやること

フリルとしては、懐かしい旧軽井沢を歩いてみることが頭の中にあった。これで3泊4日の旅になった。

 

本文

<昔の姿を残す旧軽井沢駅>

 最初は碓氷峠。大阪市大の2回生(なぜか関西では2年の事をこう呼ぶ)の時、大阪から座ることができなくて、夜行列車の座席の下に新聞紙を敷いて、ごろ寝しながらたどり着いた初めての信濃を追体験するのが狙いだった。(当時、書いた自由詩を、この文末に参照しておきます)

 あの時は、信越本線で群馬県の横川まで一度下り、そこからアプト式の電車に乗って、軽井沢の手前の一つ手前の熊ノ平駅で降りた。長野新幹線の開通で、今は横川~軽井沢間が廃線になり、熊ノ平駅も消えている。

 そこから、きつい山道を、ザックを背負って、尾根道まで歩いた鮮明な記憶がある。そして、熊ノ平から碓氷峠の見晴台まで、約3kmの登りを3時間ほどかけて上った。尾根道に息を切らせながら、左手の谷の向こうに妙義山を見ながらの時間だった。そして頂上に、群馬と長野を分ける碓氷峠の見晴台があった。

<旧アプト式スイッチバック駅の熊ノ平>

 今回は追体験といっても、心臓君が許してくれないから、もう山道は歩けない。軽井沢でレンタカーを借りての移動しかなかった。

<旧道18号の緑>

 まずは、旧道の18線を、急カーブの続くクネクネ道を下って、熊ノ平駅のあったところを過ぎ、元の碓氷第三橋梁(通称めがね橋)の見えるところまで下りた。こんな急カーブの連続は、もう年齢的にきついかなと感じ、横川まで下ってみようかと思っていたが、下るのはやめにしておいた。悔しい気持ちが残った。

<碓井第三橋梁>

 車を止めてエンジンを切ると、碓氷谷を流れ落ちる沢の音が、ころころと深い緑の山道にこだましていた。これが、本当の静寂だ。時折、スポーツタイプの車や、オートバイが、急カーブにタイヤをきしませながら、通り過ぎていく。でも、空気も酸素が濃いようだ。深呼吸をしてみる。

<碓氷の谷川>

 碓氷峠には、その後、ガキたちと一緒に二度ほど来ているが、一人での旅では、いつも曇りや、雨に降りこめられて、来ることはできないでいた。今回は、一応は晴。安心して、旧軽井沢銀座から三笠通りを右折して、峠まで上り詰めた。ああ、こんな感じだったと思いだしながら、緑の深い碓氷の谷を見下ろし、そして四方の山を眺めることができた。

<碓氷峠の見晴らし台>

 残念ながら、浅間山は雲の中で見えなかったが、妙義山が変らぬ山容のシルエットを見せてくれた。ぽかぽかと暖かい光の中で、時間がたつのを忘れて見入っていた。もう二度と、ここに立つことはないだろうと、自分に言っておいた。

<妙義の山並み>

 やっと、宿題の一つを終えることができたて、ヤッタゼーと言葉が漏れ出した。.

<彼方の山並み>

 

参照

散文詩 「しなの」 (1960年10月)

 

ひとり、横川から碓氷峠への道を、
  ザックをしょって歩く。
   秋の軽井沢、もうだれも帰ってしまって

 しずかな木立の落ち葉をふんで歩けば、
  視界をさえぎる木々の中を歩めば、
   沢の水音がきこえる。
    さわさわという音のみが

 (中略)

 妙義の見える峠に立って、
  浅間の見える峠に立って、
   秋の日差しの温かさを背に感じる

 

参照終わり

 

P.S.

熊ノ平駅のライセンスは、パブリック・ドメイン

碓井第三橋梁のライセンスは、パブリック・ドメイン


エミリアが天国へ Emilia passed to the heaven(英語版)

2019-12-22 | エッセイ

 お許しをお願いします。エミリアの親戚より英語版のアップが要請されました。日本語版の後に載せます。残念ながら、イタリア語では、文章は書けない僕なので…。

 

 日本語版

  イタリア人の友達、エミリオの奥様、エミリアが亡くなったことを知ったのは、Facebookでだった。 

 僕が、ミラノに最初に赴任したのは1970年。その時、エミリオと友達になったから、もう50年来の友人ということになる。 

 初めてミラノの彼らのマンションを(イタリアではマンションとは言わず、アバルタメントと言う)にお伺いした時、びっくりしたのは、かなりの高層階の角部屋だったけれど、そこに立派な暖炉があって火が燃えていたことだ。ミラノの冬は寒いから普通はリスカルダメントと呼ばれる水蒸気か温水を循環させる方法だが、ここには燃えるストーブもあった。日本のアパートでは考えられないことで、とても羨やましく思ったことを思い出す。

 

<マドンナ・ディ・カンピリオ ドロミティ> 

 夏、彼らはドロミティ山塊の西の、ドロミティ・ディ・ブレンタにあるマドンナ・ディ・カンピリオに別荘を持っていて、息子のフルビオを訪れて3人で過ごしていた。エミリオは仕事があったので、ウィークデイはミラノで一人、仕事をして、週末にはガルダ湖を経由で300㎞を3時間程運転して家族のもとに帰っていた。彼の車は、憧れの赤のアルファ・ジュリアだった。 

 単身赴任だった僕を、エミリオは淋しいだろうと思ってマドンナ・ディ・カンピリオの別荘によんでくれた。正確には覚えてないが2回位の週末を、そこで彼らと過ごしたと思う。彼らと、一緒に山に登り、滝の見える草原でピクニックをやり、庭に掛るハンモックでフルビオと一緒に昼寝をし、山の新鮮な空気を楽しんだ記憶は鮮明だ。 

 夜になると夫婦は、星空を見上げながら山の村に散歩に出かけていた。僕も勿論、ついて行った。平均的なイタリア人は、こうやって夏を過ごすんだなあと、うらやましい思い出が残った。エミリアはとても親切に僕に接してくれて、うれしい時間を持てたのは忘れない。この時、エミリアのチャーミングな、少しいたずらっぽい笑顔を僕が知ることになった。 

 イタリアから帰国してからも、仕事でエミリオとは交流は続き、彼が日本に来たりして長い付き合いになった。彼を、会社の近くの藤沢・湘南台の日本料理屋に連れて行って、馬刺しを食わしたことがある。イタリア人は馬の肉は食べないらしく、後で、ぎょっとした顔になったのは忘れない。

<連名のクリスマスカード>  

 エミリアとは、その後クリスマスカードにエミリオと一緒にサインしてくれる位で、エミリアとの時間はなかった。 

 その後、彼らはドロミティからスイス・サンモリッツに近いリヴィーニョに新たな別荘を持った。リヴィーニョは冬のスキー場でもあったから、ミラノから近いからということもあったのだろう。フルビオも大きくなって、きっとスキーを始めたに違いない。僕はリヴィーニョの彼の家には行ったことは無いが、いつだったかドロミティから、ベルニナ峠経由でサンモリッツにもどった時に、リヴィーニョを通った。リヴィーニョは美しい谷の村だった。 

 毎年、クリスマスカードを交換し、メールのやり取りや、時には電話をしながら、連絡を取り合って、長い時間がすぎた。

 

<リヴィーニョからのクリスマスカード> 

 僕がIBMを早期退職してウンセラーの仕事を始めて、少し自由な時間が持てたので、イタリアには3、4週間の里帰りを4回した。最初が1997年だったと思う。エミリオに連絡していたので、彼がミラノまで僕を迎えに来てくれて、彼らの住む、F1のサーキットとして有名なモンツアの彼らのアバルトメントに招待された。フルビオは別に住んでいて、パオラという妹が、僕たちのパーティーに参加してくれた。今、写真を見ると、僕自身もエミリオもエミリアも若い。

 

<エミリオとエミリア、そしてパオラ> 

 エミリアは筋無力症という難しい病気を抱えていた。僕も心臓に病気を持っているので、お互いにそのあたりの感情を共有することができた。その後、僕がFacebookを始めて何気なく見ていたら、ペンギンの顔を付したエミリアがFBにいた。エミリアのみならずエミリオも時々、エミリアのFacebookに現れて、自慢げに8人も孫ができたよと教えてくれたりした。

 

<エミリアとお孫さん> 

 2012年にイタリアに行った時に、会おうかと思ったが、スケジュールの関係でミラノにいる時間が短く、会うことができなかった。 

 お互いの年も考えて、いつ会える日があるか分からないなと言うことになって、「最後のミラノ行き」と考えて2016年にミラノに行った時、2人と会った。彼らはもう80歳を超えていたが、モンツアから車を走らせて、僕の住んでいた懐かしいコルソ・ブエノス・アイレスの僕のホテルまで訪ねてくれた。

 

<コルソ・ブエノス・アイレスの昼食> 

 モンツアの家に来てくれればよかったのにと、エミリアが言ったけれど、僕はこれこれからのスケジュールがあるので、今日一日、一緒に時間を過ごして、またの機会を持とうと言った。コルソ・ブエノス・アイレスのテラス席で、一緒に軽い昼食を食べながら、お互いに長いご無沙汰を話しで埋めた。 

 どこかに行きたいところがあるかとエミリアに聞かれたので、僕はネットで知っていたポルタ・ヌオバの「縦の森」へ行ってみたいと言った。エミリオは立派なドイツ車を購入していて、豊かな生活がそこにあることを知った。ガリバルディ駅のすぐそばにあるポルタ・ヌオバの広場にその建物が立っていた。想像を超えた素晴らしいアイディアの高層マンションだった。このデザインはその後、世界的に優秀デザインと認められ、世界中に広まっている。これが、エミリアと過ごした最後の時間になった。

 

<縦の森 2016年>

 Facebookでなぜエミリアが天国に旅立ったことを知ったかを話しておこう。 

 おせっかいなFBが今年(2019)の10月に、「エミリアと僕が友達になって、7年経過、おめでとう」と、僕に知らせてくれた。それに「いいね」をしたら、エミリアーナ というイタリア女性から、メッセージをもらった。彼女はエミリアの姪っ子で、僕がエミリアと友達だったことを知り、エミリアが今年の8月に天国に召されたと教えてくれた。エミリオからは、何も聞いていなかったので、今年のクリスマスカードを3日前に買ったばかりだったが、慌ててお悔みカードを新たに買って、エミリオ、元気でいてくれよと書いた。

 

<Facebookからの知らせ> 

 エミリアーナにエミリオはどうしているのかと聞いたら、時々は、子供たちとすごしているとあった。独りぼっちでは、かなわないなからなあ…と思う。

 

<3年たった縦の森 2019> 

  先日、銀座・伊東屋で買ったエミリオとエミリアに出そうとしたクリスマスカードは今、手元にある。 

  とにかく、知人が減っていくのはつらいものだ。

 

 

英語版

Emilia passed to the heaven 

It was on Facebook that I learned that my Italian friend, Emilio's wife, Emilia, had died.

I have been assigned to Milan in 1970 at first. At that time, I became friends with Emilio, so I have been friends for 50 years.

When I first visited their apartments in Milan, I was surprised to find a very high-rise corner room with a magnificent fireplace. The fire was on fire. Because Milan is cold in winter, it usually a method of circulating steam or warm water called “riscaldamento”, but there was also a burning stove there. I remember that I was very jealous because I couldn't think of this in a Japanese apartment.

 

In summer, they had a villa in Madonna di Campiglio in Dolomite di Brenta, west of the Dolomite massif, and they, three of the family with a son, Fulvio are visiting there. Since Emilio had a job, Weekday worked alone in Milan, and on weekends he returned to his family by driving 300 km through Lake Garda for about 3 hours. His car was the longing red Alfa Gulia.

I have been invited to came over to a villa in Madonna Di Campiglio by Emilio giving a consideration I would be solitude when I was single at the assignment. I don't remember exactly, but I think I spent two weekends there. I remember climbing the mountain with them, having a picnic on the meadow with a waterfall, taking a nap with Fulvio in a hammock in the garden, and enjoying the fresh air of the mountains.

At night, the couple went for a walk in the mountain village looking up at the starry sky. I followed, of course. I felt envy to see the average Italian could have spending summer this way. I remember Emilia was very kind to me and had a great time. At this time, I became aware of Emilia's charming, slightly mischievous smile.

Even after returning from Italy, I continued to interact with Emilio at work, and when he came to Japan, I took him to a Japanese restaurant near Fujisawa / Shonandai and ate a horse sashimi. The Italians don't seem to eat horse meat, and I don't forget that later he became a stubborn face.

 

Emilia sometimes signed up with Emilio on the Christmas card, and I had no direct time with Emilia.

After that, they had a new villa in Livigno, near St. Moritz, Switzerland. Livigno was also a winter ski area, so it might have been close to Milan. I'm sure that Fulvio started skiing there. I have never been to Livigno's house, but when I returned to St. Moritz via the Bernina pass from Dolomite, I passed Livigno. Livigno was a beautiful valley village.

Every year, we exchanged Christmas cards, exchanged emails, and sometimes made phone calls and kept in touch.

 

Since I retired from IBM early and started working as a TA counsellor, I had a little free time, so I went to Italy four times in three or four weeks. I think it was 1997. I had contacted Emilio, so he came to pick me up in Milan and was invited to their apartment in Monza, famous as the F1 circuit. Fulvio lives separately, and his sister Paola took part in our party. Looking at the photos now, I myself, Emilio, and Emilia are young.

<Emilio, Emilia, and Paola>

Emilia had a difficult illness called myasthenia. I also have heart problems, so I was able to share feelings with each other. After time has passed, when I started Facebook I found casually, Emilia with a penguin face in FB. Emilia as well as Emilio sometimes appeared on Emilia's Facebook and proudly told me that eight grandchildren were made.

<Emilia and grandchild>

When I went to Italy in 2012, I thought I would meet with them, but because of my schedule, I had a short time in Milan and couldn't meet.

I thought of each other's year and I didn't know when I could meet with them, so when I went to Milan in 2016 to think of "the last trip to Milan", I met two. They were over 80 years old, but they drove from Monza and visited my hotel at Corso Buenos Aires, which is a nostalgic place where I lived nearby.

 

Emilia said that he should have come to the house in Monza, but I have busy schedule, so I said that I would spend time together today and let have another opportunity. At the terrace seat of Corso Buenos Aires, we had a light lunch together and filled up a long nostalgic conversation with each other.

When Emilia asked me if I wanted to go somewhere in Milan, I said I wanted to go to Porta Nuova's “Vertical Forest”, which I knew on the net. Emilio bought a fine German car and I learned that there was a rich life there. The building stood in the Porta Nuova square, right next to Garibaldi station. It was a high-rise apartment with amazing ideas beyond imagination. This design has since been recognized as an excellent design worldwide and has spread throughout the world. This was the last time I spent with Emilia.

I want to tell you how I found out that Emilia had traveled to the heaven on Facebook.

 

An officious FB informed me in October of this year(2019), “Congratulations, Emilia and you have become friends, 7 years have passed.” When I clicked “GOOD” at it, I received a message from an Italian woman named Emiliana. She was Emila's niece and learned that I was a friend of Emilia on Facebook and told me that Emilia was called to heaven in August of this year. I hadn't heard anything from Emilio, so I just had bought this year's Christmas card 3 days before this sad news. Then in a hurry, I bought a sympathy card and wrote that Emilio, you should be fine even alone.

When I asked Emiliana what Emilio was doing, she said that sometimes he was spending time with his children. I don't think I can do it alone.

 

A Christmas card I had bought at Ginza to send to Emilio and Emilia is here on my palm now.

Anyway, it is very sad and hard for me to know the decreasing of the number of acquaintances and friends.

THE END

December 2019 at YOKOHAMA


恒例のカレンダー

2019-12-08 | エッセイ

 

 今年も、来年のカレンダーを手配する時期がやってきた。普通のカレンダーだったら、横浜でも買えそうなのだが、なかなか気に入ったものが見つからない。有隣堂を試してみても、かなり妥協せざるをえないことになる。

 

<2か月カレンダー> 

 それは僕が探しているカレンダーが、最近はあまり一般的ではないからだろう。僕が探しているのは、常に2か月先までの予定が書き込める2か月カレンダーだからだ。カレンダーの管理は、もちろんiPhoneに入れて持ち歩いているが、居間に掛けておくカレンダーは、瞬間的にどこが空いているかが分かる大きなカレンダーにはかなわない。特に電話で話しているときなど、とても助かる。

 

<伊東屋> 

 この手のカレンダーは少ないから、選べる店となると、銀座の伊東屋さん迄出かけることになる。今年も、そんな時期がやってきた。改装で、天井が低くなって開放感が失われた店にぶつぶつ言いながら、カレンダーを地下で探した。昨年は、スイスのアルプスで妥協したが、今年はオルセーの絵のシリーズがあったので、これに決めた。ついでに、クリスマスカードと、来年の高橋の手帳を手に入れた。それにしても、伊東屋の動線設計は全く駄目だ。エレベーターもとても遅い。エスカレーターでもあれば、色んなものに目がいって、楽しいだろうに。 

 銀座に出るときは、昼飯を食うことにしている。有楽町駅から伊東屋迄歩いたから、また泰明小学校の先のいつものよし田まで戻るのも、めんどうくさい。妥協するかと、銀座松屋のレストラン街で、蕎麦屋を探した。初めての店だったが、雰囲気は落ち着いた感じだったので、明月庵田中屋に入ってみた。

 

<松屋の田中屋> 

 蕎麦を食うとなると、僕の好みはいつも、どこでも、鴨せいろだ。値段は高い。しかし、これを頼むと、その店の出来がよくわかる。今回の名月庵は合格だった。問題は、そば。更科までは白くはないが、香りがしない。そして、箸で3回ぐらい寄せると、無くなってしまうくらいの盛りだった。鴨は余分な脂肪を削いであって、しかも味は素晴らしかったのだが。それにしても1700円は高い気がする。

 

<有楽町のガード下 トントン> 

 このまま、帰ってしまうのもつまらない。昼間からちょっと飲めるところというと、有楽町の新橋寄りのガード下の、トントンふじとかいうことになるが、あそこまで戻るのも歩き疲れるのでいやだ。それに、必ずしも、5時前に開いているとは限らない。帰りは、京急線直通の東銀座駅で地下鉄に乗るのだから、遠くまではいきたくはない。我がままは許してもらうとして、銀座の裏道を勘を頼りに歩いて見る。仕方ないので、ライオンまで歩くかと思っていたら、小さな飲み屋らしい店が見えた。 

 昼飯を出しているようで、人が入っていくのが見える。外観は、まるで、居酒屋だ。狭い階段を注意深く降りていくと、長万部というまさに居酒屋。

 

<長万部> 

 昼間だけど、飲めるって聞いたら、やってますよ、うちは、と言ってくれた。助かった。飯は食ってきたから、サワーでも飲みたいのだが、おすすめはと聞いたら、野菜サラダときた。 

 この長万部は、北海道の長万部のアンテナショップ的な居酒屋で、長万部の特産品の小鉢を出しているようだった。とにかくレモンサワーを注文して、メニューを探す。酒の肴は確かにいろいろあった。おすすめのサラダって、何が売りなのと聞いたら、山わさびをおろしたトッピングだという。それと、活きのいい海産物を、ウニで食べる一皿を取って、飲み始めた。 

 客は、大体は昼食のようだった。僕のように、昼間から飲んでいる人は見えなかったが、山わさびのサラダは、お勧め通り、うまかった。これはいい店が見つかったと、ニンマリ。 

 銀座に出ると、昼間から飲める店は非常に少ない。ニュートーキョーとかライオンとか、ビヤホールの感覚の店でしか飲めないのだ。店長に、いい店が見つかったよと言ったら、うちは昼も2時まで開けていますから、飲めますよと教えてくれた。これで、一ついい発見ができた。昼間の銀座でも、有楽町のガード下まで戻らなくても、居酒屋の雰囲気で飲めるのだ。うれしい発見だった。使わせてもらうよと、話しておいた。

 

<歌舞伎座の東銀座駅> 

 店からは三原橋の交差点に出れば、歌舞伎座はすぐそこ。京急直通の電車を待って、しっかり座って、カレンダーのデカイ袋をもって、横浜まで帰ってきた。 

 いい銀座だった。ちょっと楽しみが増えた気がする。


岡野先生の墓参り

2019-11-24 | エッセイ

 

 僕を精神的に再構築してくれた岡野先生の13回忌の知らせが飛び込んだのは、8月の始めだった。1995年以前からの付き合いのある、先生の生徒の一人、Kさんからだった。岡野先生は2007年9月2日に沖縄で亡くなられた。その年の9月24日に市ヶ谷のアルカディアで開かれたお別れ会には、僕はそのころ、仙台で心臓君の病気との戦いの最中で、とても上京できる状況ではなかった。欠席した。結果として、ちゃんとお別れはしていなかった。

 

<岡野先生の遺影> 

 Kさんとの往復書簡(E-Mail)を中心に書いてみる。 


Kさんより 

 岡野先生十三回忌の案内です。予定日は8月31日です。残暑が厳しい状況でしたら、ご無理をなさいませんように。  

 

僕より 

 岡野先生の13回忌の件ですが、Kさんの情報と、僕の持っている1994~6年の研究会リストで、僕の印象に残っている方々の名前をマッチングしてみました。

 残念ながら、Nさんだけでした。彼が亡くなったと聞いて寂しくなりました。Iさんには、その後も研究部会で、何度か会っていますが、特に…ということはありません。リストにはありませんが、KJさんやUZさん、SKさんなどが記憶にありますが、今回の招待リストには入っていないようです。

 今の形での「研究部会」への移行について、検討会が2000年に大井町の「きゅりあん」で行われたのをよく覚えています。そして、僕は自主ベースの研究部会には、反対だと、先生の前で話したことを記憶しています。先生の「属人性のカリスマ性」があってこその研究部会でしたから。それに、昔は深い勉強もしていました。TA論文もオリジナルの原稿(英文)で沢山読みましたね。

 FさんとKさんが頑張っている自主運営「研究部会」にも、何度か出ましたが、カルフォルニア、タホ湖のミュリエル・ジェームスの主催する二週間のワークショップの同級生が、講師になって出ています。SCさんとか、亡くなったNKさんとかです。彼らのことは、よく知っています。彼女たちから、得るものは??となったので、出席しなくなりました。

 こんなことを考えている今日、正式なメールをYさんから頂きました。電話でも話したように、僕一人で岡野先生の墓参りは済ませようと決めました。あまりよく知らない人たちと一緒に、僕の「父」、岡野先生を語りたくないというのが本音です。体力的にも、ちょっと自信がないので、「欠席」のメールをだしておきます。Kさんが、誘ってくれて嬉しかったのですが、こういうことにします。

 I社の早期退職後、1995年に始めた、TAベースのパーソナリティ&コミュニケーション・カウンセラーの仕事は、心臓君の機嫌が予測できないので、アポイントメントが取れなくなり、ドタキャンでクライアントに迷惑をかけることもあったので、2007年で新しいクライアントを取るのはやめました。古い人が数人、今も付き合いがありますが、もうボランティアベースです。

Kさんより

 お一人での墓参、了解です。私も一人で...駅から向かいのモールへ渡り、花店でバラを買って、あれこれと昔を思い出しながら、ゆるゆると坂道を上っていく…。時間も気にせず、ゆるゆると時を過ごすほうが好きなのですが…。

 あれから四半世紀、OHさん、Sさんも旅立たれてしまいました。一緒にご冥福を祈っておきます。まだ猛暑が続きそうです。ご自愛ください。また、時おり勝手な生存連絡メールします。

 以上が、8月のメールのやり取りでした。 

 僕は、8月10日に一人で、岡野先生の墓参にまいりました。戸塚の静かな墓苑で、よく手入れされていました。 

<墓苑> 

 先生には、本当に感謝しています。今思い出すと、とても鼻持ちならない、若い僕の性格と行動を見て、僕に対するコーチングをひき受けていただきました。

 

<先生の研究所リーフレット> 

 徐々に、僕自身が、僕自身の行動をモニターししながら、相手の受け取りかたを推測できるようになりました。そして、リアルな自分と、行動に現わしている自分とのギャップを埋める努力を続けました。そんな時間が十年ほど経過し、そのギャップが消えていったのは幸せでした。自然体で生きることができるようになっていました。 

 僕は、自分自身の意識から自由になったわけです。そんな変化を、僕の部下達も認めてくれているというデータも取れました。本当に岡野先生に救われました。

<岡野先生の墓> 

 9月が終わり10月の秋、僕の単独墓参の報告がてら、合同の墓参りはどうだったのかとKさんにメールしました。 

Kさんより

 合同墓参の件、司会と進行係りで、ゆっくり岡野先生との時間も持てず慌ただしい流れでした。

<合同墓参の写真 Tさん撮影>

 生きているうちに、どこかでKさんとは会っておこうと思っています。


 僕にとっては、心の「父」、岡野先生を2007年に、そして、心の「母」のミュリエル・ジェームス博士を、昨年(2018)のバレンタインに102歳で亡くしました。

<ミュリエル 99歳当時>

 これで、実母、実父のみならず、心の父母を亡くしたことになりました。わがままな僕を見守ってくれる人たちを失って、ちょっと、空っぽの気持ちです。 

P.S.

 そういえば、ミュリエル・ジェームズのワークショップへの参加は、岡野先生の紹介で実現したものでした。


伊豆高原へ #2

2019-08-18 | エッセイ

 

 カスケットリスト(棺桶リスト)にある、くたばるまでに達成しておきたい項目の一つ、伊豆高原への旅が終わった。その1に続き、残り二つの目的を書いてみる。 

<伊東・リエティ友好パネル>

 旅の目的の三つ目は、僕のボランティア活動の原点を訪ねてみることだった。 

 イタリア人から学んだ「家庭・仕事・社会的活動」の三つをやると決めて、僕はそれをずっと実行してきた。しかしIBMを早期退職して、もとは「社会活動」だったカウンセラーが「仕事」になったから、代わりの三つ目の世界を持ちたいと探していた。 

 僕が移り住んだ伊東市は偶然にも、イタリアのリエティ市との国際交流が活発だった。伊東のタライ乗りの競技と、リエティ市のワイン樽の急流下りが取り持つ縁で、リエティとの国際交流が行われていた。僕は、ミラノに住んだこともあり、英語のほかにイタリア語が少し話せたから、語学を使って何かボランティア活動をやってみようと、伊東国際交流協会に飛び込んだ。これが、僕の新しい三つ目の世界、ボランティアの原点になった。

 <オリーブオイル搾油機モニュメント> 

 2001年の「イタリア年」と重なり、リエティ市が、国際交流のモニュメントとして、本物の「石臼のオリーブ搾油機」をイタリアから持ってきて、伊東に寄贈することになった。このためにリエティからいろいろな専門家7名が、ボランティアで2週間にわたって伊東で作業することになった。このイタリアチームの支援が、僕にとっての、ボランティアとしての大きなプロジェクトになった。モニュメントは完成したのは、暑い7月のことだった。完成式典にはイタリア大使も出席され、盛大なものとなった。

 

 <イタリア大使と記念式> 

 今回、リエティ広場を訪れてみると、18年の風雨が記念プレートを少し汚してはいたが、オリーブオイルの石臼は健在だった。僕にとっては懐かしいモニュメントだ。記念プレートの言うように、この国際交流は「永遠」のものになるだろう。いい経験をさせてもらった。この経験は、次の仙台市での僕のイタリア交流ボランティア活動への自信にもつながったと思う。

 

 最後の四つ目の目的は、IBM開発製造のアプリケーション・システム責任者として、何度もお客様マネジメントの2泊3日の研修を担当したIBM天城ホームステッドを訪ねることだった。

 

 <ホームステッドのマーク> 

 天城山の中腹、海抜800mにあるここは、天候に敏感だ。少し南からの低気圧が近づくと、雨や霧になることが多い所だった。今回も雲の多い天候だったが、3度目の正直で、遠笠山道路を小さなレンタカーで登って行った。幸い、曇りで、晴れる可能性もあるようだった。 

 久しぶりのホームステッドは、ほとんど昔のままだった。声をかけて、責任者に話を聞くことができた。30年以上も、この仕事をしていらした方だから、きっと僕も直接お目にかかったこともあるはずだが、思い出せなかった。。ドーミトリー(個人の客室)も相変わらずで、テレビもないという。Wi-Fiが使えるようになっているのが、40年ほど前からの変化なようだ。

 

 <ドーミトリー> 

 話していて懐かしかったのは、IBMはアルコールを社内では禁じていたから、ホームステッドでも、お客様にもアルコールは出していなかった。これが、お客様には大不評だった。夜の食事を共にしてても、ワインもない食事は、お付き合いする僕たちにとっても、辛いものだった。日本IBMが本社にねじ込んで、OKが出たのは少したってからだった。こんなことを話していたら、昔からの有名なコーンブレッドも変りなく、ホテルから取り寄せて、好評だという。もうこんな昔のことは、話す相手はいないようで、彼も懐かしがっていた。

 

 <富士山の頭が見えた> 

 帰りにミニゴルフのグリーンに出てみたら、富士山が、ちょこっと、雲の中に頭を出してくれていた。ほかの従業員の人たちにも、頑張ってくださいと声をかけて、訪問を終えた。懐かしさと嬉しさがあった。 

 東急ハーヴェストまで登ってみたが、天城ベコニアガーデンはなくなり、客も激減していた。帰りに降る道を一本間違えた。気がつかずに別荘地の中をどんどん降りて行ったら、突然、道が無くなった。おかげで、天城山の野生の鹿を写真に撮ることになった。

 <野生の鹿がコンニチハ>

 

 これで今回の旅の目的は終わったが、少し町や食べ物についても書いておこう。 

 ホテルは3泊、朝食付きで、夜は町に出て飲める、食える所を選んだから、伊東駅の近くだった。伊豆高原、天城高原、一碧湖あたりでも感じていたのだが、15年前に比べると、伊東市の町中も、人が少なくなっていた。あんなに夜は賑やかだった町中も、寂しくなった。

 

 <人っ気のなくなった、湯の花通り> 

 伊東駅に続く、活気のあった湯の花通も、ウイークデーとはいえ、確かに人影が少ない。あの人たちはどこに消えたのだろうと、不思議だった。 

 伊豆高原も、「伊豆ガラスと工芸美術館」の閉館や、よく通った洋菓子店「葡萄の実」や、流行っていたイタリアンレストランなどもなくなっていた。あんなにたくさんの、脱都会派の人が住んでいた別荘地も閑散として、人の気配がない。二軒ほど、昔の知人宅をのぞいてみたが、人気は無かった。 

 あの頃は低かった木々が高く伸びて、住宅を太陽から覆い隠しているようにも見える。これでは住めないなと思ったのは、天城高原の別荘地だ。もう、廃墟に近い林の中にうずもれる住宅を見ると、人が減り、人が近づかなくなったのがよくわかる。 

 帰って調べてみると、伊東市の人口は、この数年で5千人ほど減って、今は6万5千人とある。少子高齢化の波も、伊東を襲っているようだ。ホテルの送迎バスの人も、ここ数年で、人がガタッと減りましたと言っていた。あの人たちはどこに行ってしまったのだろうと、混乱した寂しさを感じた。 

 食べ物については、大満足だった。伊東出身のHさんに教えてもらった居酒屋や寿司屋、干物屋さんなど、すべて当たりだった。特に良かったのは、ジャズを聞かせながら、海の幸を、ちょっとひねって食わせてくれたカウンターバーS。

 

 <カウンターバーの居酒屋> 

 昼飯にと勧められた、オレンジビーチの杉国商店の焼き魚、カマス、キンメダイ、肉の厚いアジは、本当にうまかった。あまりうまくて、夢中になって食ってしまったので、写真はありません。ゴメンナサイ。

   競争相手の熱海は、若い人たちが中心になって、このところ大勢の客を呼んでいるようだ。ぜひ伊東も、客を135号線でバイパスさせないで、市内に引き込む知恵を出してほしいと願っている。元気になってほしい土地だもの。