M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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フェルメールから鬼子母神

2018-12-16 | エッセイ


 10年ぶりに、フェルメールを「上野の森の美術館」で見てきた。



 <フェルメール展の大看板>

 前回は、2008年月の東京都美術館で「光の天才画家とデルフトの巨匠たち」で、フェルメールを見ている。今回とダブった作品もあった。「リュートを調弦する女」とか、「手紙を書く夫人と召使」などだ。全世界で確認されている作品は35点しかないから、フェルメールの絵を見られるのは、本当に稀有なことなのだ。

 僕のフェルメールとの最初の出会いは、1984年の東京西洋美術館での「真珠の耳飾り」(ターバン)を見たのが始まりだ。印象深く、決して忘れない。。フェルメールの名を聞くと、彼女の顔が頭に浮かんで出てくる。2012年にも来たらしいが、大混雑と聞いて、見に行かなかった。



 <真珠の首飾りの少女:P.D>

 今回のフェルメール展は、日本では画期的な運営がされていた。日時ごとに、切符が売られ、館内に入る人をコントロールしていたことだ。こうした経験があるのは、ミラノのカナーコロの「最後の晩餐」くらいだ。ここでは、ワングループ、最大15分で追い出しだから、もっとシビア。今回は、入場者の数のコントロールだけだったから、館内の入場者数は管理できていない。やはり、ごった返していた。

 日本の展覧会のまずいことは、音声ガイドを耳にした見る人の質だ。そんなに近くにへばり付いて見ることもないと思われる大作でも、へばりついてガイドが終わるまでその絵の前に陣取る。後ろの人など、全く気にもかけていない。欧米の美術館では、近くで見る人は、後ろの人の邪魔しないように、気配りしながら見ている。少し斜めから見るとか、どうぞと、自分のところを開けてくれたりする。日本の要改善点だと思う。



 <赤い帽子の娘>

 今回の目玉は、日本で初めての「赤い帽子の娘」だろう。ちょっと見ると、男の子だと思わせるが、少女だった。透明なヴィヴィッドな色彩が美しい。もう一つの目玉は、修復で昔の汚れが消えた本来の姿の「牛乳を注ぐ女」だろう。窓からの光と、黄色の上着とブルーのスカートのコントラストが、この絵を美しくしていた。フェルメールの作品が持つ、思わせぶりのない作品には好感が持てた。確かに名作だろう。9点を揃って見られるのも、これが最後かもしれないと思わせるくらい、ヨーロッパと、アメリカの美術館から、作品を集めてきたのには敬服する。



 <牛乳を注ぐ女>

 フェルメールの窓からの光を見ると、どうしても同時期、17世紀のオランダの画家、レンブラント光線を思い出してしまう。40年以上前にアムステルダムで、レンブラントの「夜警」を見た時のショックが頭に残っているからだ。対比して、「光の画家フェルメール」と、「闇の画家、レンブラント」とも言われている。お互いに、相手を意識しながら、制作したのは間違いではないだろう。そのほかのオランダの絵は、あまり好きなものはない。



 <レンブラントの夜警 P.D.>

 展覧会を見るのは疲れることだ。しかし、久しぶりに上野まで出てきて、このまま横浜に帰るのはもったいないと、大塚に行ってみようと思った。この時期、紅葉の、鬼子母神を訪れて、昔からの駄菓子屋や、親父のくたばった病院を、チンチン電車で尋ねてみようと思ったわけだ。

 大塚は久しぶり。JRの駅は新しくなって、近くには複合施設やホテルも建って、がらりと雰囲気が変わっていた。しかし、都電は相変わらずで、懐かしく、路面をゴットンゴウゴウ、チンチンと風景を眺めながら、雑司が谷に向かう。



 <ケヤキの巨木>

 雑司が谷の鬼子母神通は、相変わらず。今は本当に関東全体で珍しくなったケヤキの巨木が、参道を覆っている。でも、古い木が少なくなったような気がする。300年以上のケヤキが先のほうを切られて、何とか生きているという感じだ。



 <600年のイチョウ>

 鬼子母神のイチョウは、ちょっと紅葉には早く、600年の歳月を生き抜いて立派。立派に生き残っているものはもう一つある。境内にある、懐かしい駄菓子屋、上川口屋。80歳を過ぎたと思われる白髪のおばあちゃんが、今も店番をしながら、子供たちと接している。結構、店に客も来ている。



<上川口屋>

僕にとって、何故、鬼子母神が懐かしい場所かというと、親父が息を引き取った元鬼子母神病院があるからだ。親父の病室からも、鬼子母神が見えていた。今は、音大の寮になっているようだ。



 <元鬼子母神病院>

 帰りに疲れたから、ケヤキの参道にあるドリップコーヒー屋に入って休んでいると、なんだか、外の景色が歪んで見える。
 おかしいなと思って見てみると、昔の手作りのガラスが懐かしい引き戸にはまっていて、見える景色を部分的にゆがめて見せていた。歪んで見えるのはケヤキの巨木だけではなくて、その後ろのブロック塀は人工的な直線のために、歪んで見えるのがよりハッキリしてる。
 


 <歪んだケヤキの巨木とブロック塀>

 もう、ここに来ることはないだろうと思いながら、三ノ輪橋行きの電車に乗った。チンチン。


平林寺を歩く

2018-12-02 | エッセイ
 
 やっとこさ、カスケットリスト(棺桶リスト:くたばるまでにやっておきたいこと、行きたい場所などの一覧表)の7つの未達項目の一つが消えた。2012年に作ったリストに一つ、丸が付いたわけで、自分ではうれしく思っている。



 <平林寺>

 独断的に言うと、僕はこの臨済宗妙心寺派の金鳳山 平林寺が、関東で一番の寺らしい寺だと思っている。鎌倉の寺も、谷中の寺たちも、この寺にはかなわない。ここには、ほかの寺たちが忘れてしまった静けさと、武蔵野の自然、雑木林がある。さらに昔、玉川上水から派生した野火を止めるための役割のほかに、人の生活の基礎となる飲料水を確保するという野火止の用水を開削した歴史もある。

 平林寺は、43ヘクタール(およそ13万坪)の広大な敷地の中に、2800坪の山林に武蔵野の面影を残し、栗、コナラ、クヌギ、槇、アカマツ、竹林などの雑木林が残してある。手入れの必要なこんな雑木林を保全しているところは、他にない。しかも、都心、池袋から30分もあれば着けるアクセスだ。



 <林>

 この寺を教えてれたのは、僕の初恋の人、女子美に通っていたNさんだ。50年以上前のこと。そのころ、彼女は江古田に住んでいた。三軒茶屋の近くの三宿の叔父さんの家を、深い事情でどうしても出なくてはならなくなって、僕も一緒になって探した江古田にある一軒家の二階を借りていた。

 初めて、平林寺を訪れたのは、8月20日だった。何故、そんなに明確かというと、僕の使っていたスケッチブックに残っている平林寺の絵のサインに、日付が書いてあるからだ。今見てみると、その時の自分の感覚がよみがえってくる。今回訪れてみると、総門の前の竹やぶにほれ込んで描いた絵が、そんな思いを蘇えらさせてくれる。同じ日の赤松の絵も数枚、残っている。



 <僕の描いた竹藪>

 僕がこの平林寺にほれ込んだのは、大好きな奈良のいくつかの寺たちと同じ感覚が残っているからだろう。例えば、唐招提寺であり、興福寺でもあるかもしれない。もちろん、僕と並んで座って真剣にスケッチしているNさんの存在があったのは、言うまでもない。鎌倉の寺も、Nさんと歩いた記憶は鮮明だ。しかし、僕のつまらない横道のせいで、中野の三味線橋のアパートでの同棲は、突然断ち切られた。しかし、今もNさんの展覧会は、毎年上野まで見に出かけている。



 <竹林:写真>

 その次に平林寺を訪れたのは、大学の4年生のころ。僕の指導教授の桂田利吉先生を囲んで、クラブの連中と山奥深くまで歩いた記憶が明確だ。今は閉ざされている、クヌギやホウ葉が厚く敷き詰められた寺の奥の林を、パリパリ、カサコソという音を立てながら、葉の無くなった木立を見上げていた僕たちがいる。おそらく、クラブの部長をしていた僕の発案で、無理を言って桂田先生を引っ張り出したのだろう。残っている白黒の写真を見ると、先生は杖を突いていらっしゃるようだ。



 <故桂田利吉先生、故K君と一緒に>

 東上線の沿線に住んでいらした先生の通夜には、仕事を抜け出して先生の顔を見に、藤沢から成増の寺を訪れたのを覚えている。もし、先生の引きに応じて大学院に進んでいたら、僕の人生は全く違ったものになっていたかもしれない。ちなみにK君も、昨年亡くなって寂しくなっている。

 そんな思いを背負って、今回、40年以上も行っていない平林寺を改めて歩いてみたわけだ。写真に見るとおり、紅葉のピークには少し早すぎたようだ。まあ、赤と、黄色と、緑色が入り混じって、美しいタイミングであったかもしれない。比較的、人が少なくて、テレビでよく見る紅葉狩りの大混雑とは出くわすことなく、静かに歩けたともいえるだろう。



 <色>

 昔の山の中には入れなくなって、ちょっと残念でもあったが、寺の質は落ちてはいなかった。ゆっくりと歩いて、カメラを向けながら、伽藍の姿と、芝と、苔と、紅葉の色を楽しめて、来た甲斐があるなと思った。もちろん、名前が売れて、観光地化したことは否めない。順路は傷んでいるし、大木の根っこは踏んづけられて、悲鳴を上げていた。禅宗の道場でもある寺の草むらで、弁当を広げている馬鹿な連中も散見した。



 <寺>

 残念ながら、一人の僧侶にも会わなかった。修行僧とは会えないとはわかっていても、読経の声、焚く香の香りに乗って、僧侶の姿があってもよかったと思っている。でも、作務衣を着て、落ち葉を掻き集めている若い人がいた。もしかすると、彼は修行僧の一人だったかもしれない。

 40年前と比較して残念だったことは、寺の魅力だった茅葺の屋根を覆っていた苔が、かなり傷んでいたことだ。乾燥して、みずみずしさしさは、感じられなくなっていた。しかも針金のネットで縛ってあった。茅葺の屋根、そのものが傷んでいたようだった。年月と観光化の負の部分を見つけたのかもしれない。



 <苔と屋根>

 今回、発見があった。野火止用水を作ったのは、松平伊豆の守信綱だということだ。彼の先見性と、民を思う心があったからだろうと思う。立派な墓があるなと、写真を撮っておいた。



 <松平信綱の墓>

 もう一度来られるかどうかは、心臓君次第だ。