M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

やっと、八ヶ岳

2015-08-29 | エッセイ

 八ヶ岳は、僕の好きな山の一つ。登ったことはないけれど、眺めるだけでも見る人を飽かせない変化がある。人工的な西の蓼科側より、はるかに東麓がいい。

 くそ熱い横浜の灼熱地獄を逃れて、やっと八ヶ岳に行くことができた。

 もともとは、5月の落葉松の芽吹きを見たいと3年ほど粘ってみたのだが、5月の山は安定しない。天候が悪くては、山は見えない。雨の日はもっと悲惨だ。3年間、予約を入れて待ってみたけど、すべて雨の予報。残念だけど、キャンセル料を取られない3日前にキャンセルの3年間だった。

 5月に拘泥していては行けないぞと覚悟を決めて、山の天候が一番安定する7月末を狙って、天気予報と首引き。1週間前に予約を入れて、そのあと天気予報をにらみつけていた。幸い7月の下旬に雨の予報はなく、やっと行けることになった。

 気温は横浜の33度に比べれば、20~25度とある。少しは体がリラックスするだろうと大した準備もしないで、心臓君の薬だけ持って出かけた。



 <赤岳と横岳>

 最初の日の朝、赤岳と横岳が顔を見せてくれた。この旅で唯一、赤岳を眺められた時間だった。あとは、ずっと雲が山頂にかかっていた。見えただけで、ラッキーだったと思う。そのあと、八ヶ岳連峰の全体を見渡せるところを探して、野辺山の電波望遠鏡サイトを越えて、川上村に近い高みに登ってみたが、やはり、雲の中。仕方ない。赤岳と横岳が見えたことで良しとしよう。

 八ヶ岳の東麓にはいろんな思い出が残る。若かったころの友達との旅。家族での旅。そして、会社の社員旅行。飼い犬、チェルトとの初外泊。その後を含めると思い出せない回数だ。

 車で最初に走った頃のことを、今でもはっきり覚えている。中央道から登りに入る。清里までは、舗装道路だったけれど、長野県に入って小海線の最高点を過ぎると、もうそこは未舗装の泥んこ道が続いていた。前の車の埃を避けながらの運転だった。牛が道のそばでゆったり草を食べていた。

 定宿の売りは、朝と夕べの八ヶ岳の主峰、赤岳。玄関ホールのすぐそばの芝生から、夕暮れの山を見ていると、狭い日本を忘れさせてくれる静かさがある。今回も、忘れてかけていた針葉樹林の森のいい匂いが迎えてくれた。夕暮れは、少し肌寒い感じだ。



 <落葉松>

 宿には何にもなくて、ここを拠点として、八ヶ岳の東麓の村や町を訪ね歩くことになる。

 清里にはいろいろな思い出が詰まっている。一番の思い出は、ミニチュアシュナウザーのチェルト君との初外泊だろう。犬と一緒に泊まれるペンションが流行り出した頃で、「タフタフ」というペンションに泊まったことを思い出す。食事もワンちゃんと一緒だから、ほかのワンちゃんたちと彼は初対面。

 たくさんのワンちゃんに囲まれて、挨拶されて、まだ子犬だったチェルト君は大興奮。吠えまくった。こんなチェルトを見たことがない。ペンションの奥さんが、自分の家の大きなラブを連れてきて、チェルト君を落ち着かせてくれた。それで、やっと、人間様も食事が出来た。夜も、部屋の外を通る犬を感じて吠えていた。

 チェルト君が初めてウサギを見た清泉寮も懐かしい。ポール・ラッシュ先生が、戦後、荒野を開拓して作ったバプティストの村だ。今は名物になっているソフトクリームを舐めながら、遠い雲にかかった南アルプスから、富士山の方面を眺めると、今はいないチェルト君を思い出す。

 清里駅前はその頃、俗っぽい町で、芸能人たちが自分の名前を冠した店を作って、混沌としたまとまりのない嫌な町だった。逆に今は、客に見放されてゴーストタウン化している。

 僕が早期退職して、家を求めた候補地の一つは八ヶ岳の東麓だった。清里の駅から、美しの森の方に登って行くと左側に広がる清里の森という別荘地だ。一年中開いているスーパーがあって、冬も住んでいる人がいるとのこと。しかし、住民に会って話してみると、ひどいときは零下20度にも気温が下がるという。とてもとても…と、候補地から消した。

 会社の旅では、20人くらいで清里まで、2泊3日で来たことを記憶している。車に分乗して、中央道を走ってきたのだから、みんな馬力があって若かったのだ。翌朝、僕と、友達のOさんは仕事があって、僕の「ゴルフ」を交代でブッ飛ばして、会社に帰った記憶がある。登りは苦手な初代ゴルフだったが、下りはよく走ってくれた。



 <三分一湧水>

 今回、うまい蕎麦が食いたくて、宿の人に教えてもらって甲斐小泉まで下りて、三分一湧水の近くの蕎麦屋に10割そばを食べに行った。が、期待が高すぎたのか、うまいとは思わなかった。これなら、来るときに寄った竜王町の「奥藤」の蕎麦の方が美味かった。



 <ガンダーラ仏>

 甲斐小泉駅の近くで、平山郁夫美術館を偶然見つけて入ってみた。これは素晴らしくて、甲斐小泉まで来たかいが有ったと、思わぬところでガンダーラに会えた。結果としては、幸せな八ヶ岳の一日だった。

56年来の親友、炬口勝弘が逝く

2015-08-15 | エッセイ

 僕の人生で一番の親友、カメラマンの炬口勝弘を亡くした。



 <桃園川:いまは暗渠>

 彼と僕の仲が決定的に親しく、近しくなったのは、彼がその頃付き合っていた女史と男と女の関係になろうと、僕をダシに使ったのがその理由。

 3人はいつものように、新宿で飲んでいた。遅くなって、炬口は僕も一緒だからと女史を安心させ、彼が住んでいた中野・桃園川そばのアパートへ女史を招き入れた。夜中に僕が目覚めると、二人が暗闇の中で無言のまま争っている様子。何が起きているか、容易に推測はついたが、武士の情け、黙って寝たふりをしていた。

 このことは、後になって、彼が最初の男の子の名前に、彼の苗字の一文字と僕の名の一文字とを合わせて名づけたことで、その裏が取れた。

 僕が最初に炬口と会ったのは、高校2年の二学期の始まりの日。淡路島・洲本高校の教室だった。親父の仕事の関係で、岡山の高校から転校試験を受けて、僕が洲本高校のOK先生のクラスに入った時だった。その頃の彼は、典型的ながり勉で、青白く暗い顔をした高校二年生だった。



 <洲高の帽子をかぶって>

 炬口の行動がガラリと変わったのは、その直後だった。

 東京・谷中生まれの僕が話す、姉と親父との方言のない会話、つまり耳慣れない標準語に驚き、洋画家の親父の油絵に感動し、東京の話を聞き、柄にもなく演劇部を僕と一緒に立ちあげ、僕と一緒に受験生の彼が女友達と遊び、ベートーベンのロマンスを聞きながら勉強する僕を見て、島育ちの青白き受験生には、今でいうカルチャー・ショックだったのだろう。急速に親しくなった。

 僕も、新しい学校で新しい友達が欲しかったから、一緒に行動するようになった。彼は淡路島の西海岸、五色町都志の出身で、洲本市に一人で下宿していた。一緒に過ごす時間が増えた。近くの白土山や、三熊山に登ったり、洲本・大浜でボートを漕いだり、ニューシネマパラダイスのように映画館に入り込んで、裕次郎の映画の連作を見たり、受験生としては考えられない生活に嵌って行った。

 結局、彼は、石工職人の親父の願いもむなしく、早稲田の仏文に入った。僕は、大阪市立大学に入った。しかし、60年安保闘争で抜け殻となった僕は、一人で東京に帰ろうと決めた時、僕が転がり込んだのが、炬口の早稲田の神田川沿いの狭い下宿。面影橋の近くだった。

 僕も早稲田に入ろうとしていたが、その春、早稲田は学費を突然上値上げした。僕がバイトで貯めた金では、早稲田は無理になった。仕方なく、法政に拾ってもらった。学部を選ぶとき、彼は仏文はやめとけ、飯は食えないからと忠告してくれた。実は僕も仏文を狙っていたのだ。彼はそのころ早稲田の3年で、同い年だけど、大学生としては2年先輩だった。僕が前の大学を中退したからだ。

 彼は学生時代に、北海道に一人旅をして、写真を撮ってきた。その写真が、全日本学生写真コンテストで優秀賞をとった。これが、彼のその後の人生の進路を決めたといえる。その後、八丈小島に何か月か住んで写真を撮っていた。自分の進路はドキュメンタリー写真かと模索していたようだ。「夕刊ゲンダイ」に、彼の将棋の写真が乗っかるようになるまでには、いろいろな試行錯誤があった。そして、将棋のカメラマン、炬口勝弘(たけのくち かつひろ)が生まれた。



 <将棋カメラマンの彼:「雨宮編集長のコゴト@炬口さん」よりお借りしました>

 彼は、フラッと僕の世界に入ってくる。僕が仕事で忙しくしているころ、僕の留守宅に僕のかみさんを訪ねて、ふらりと現れて2,3泊していく。それは横浜の戸塚だったり、伊豆高原だったりする。僕の代わりに、炬口はかみさんの愚痴を聞いてくれたようだ。彼は、軽い感じで人の心の中に、すっと入ることができる性格だった。根がやさしいからだろう。



 <伊豆高原で>

 そんな付き合いが続いていたが、まず親父を亡くし、一人残されたお袋さんの面倒を見るために、東京でのカメラマンの活動を縮小し、淡路島の西海岸に戻っていった。その後、お袋さんも亡くして、好きな猫に囲まれて手作りの家で一人住まい。その屋上から、二人で川の対岸めがけて、ロケット花火を飛ばして遊んでいた思い出がよみがえる。

 淡路の彼とは電話や、メールでやり取りしていた。彼も田舎に閉じこもって、社会から隔絶されたような気がしたのだろう、しょっちゅう連絡してきた。彼が、ネイキッドという車で、事故ったことなど、電話の向こうで楽しそうに話していた。彼は、「ウエストコーストのターキー」とメールでは名乗っていた。確かに淡路島の西海岸。「たけのくち」だから七面鳥まがいの名前でもよかったのだろう。

 そして、5年前、手作りの家に一人でいる時、脳こうそくが襲った。

 偶然、その日の朝9時に、彼と電話で話した高校の同級生がいる。Nさんという。彼女は、今も「あの時、ちょっと呂律が変だと思ったから、救急車を呼んでいたら…」と悔やんでいる。彼女は奈良に住んでいるから、簡単に様子を見には行けなかったのは当たり前。やっと夜になって、近くに住むいとこの方に、洲本市の県立病院に運ばれたが意識は無かったようだ。

 それを聞いて、意識がなければ、横浜から飛んで行っても仕方がないなと、心臓に病気を持つ僕は思った。彼の様子は洲本の友達から聞くことにして、様子を見ていた。

 意識が戻ったと知らされたのは、5か月後。僕は炬口に会おうと、淡路に飛んだ。Nさんと待ち合わせて病院に行った。彼は、遠くから僕たちを見つけて、手をあげて反応してくれた。初めは不思議そうな顔をして僕を見ていたが、僕だと確認したらしく、笑みがこぼれた。分かったのだ。でも、言葉は出てこなかった。言語障害を起こしていた。分かってくれて、笑ってくれただけでうれしかった。植物人間ではなかったのだから。



 <見舞いその1>

 僕は意図的に、予定を知らせずに見舞った。彼を驚かせて、脳に何かの刺激を与えることができればと、思ったわけだ。僕だとわかって、驚いたようだ。もくろみ通りだった。

 彼が追いかけていた将棋の羽生名人も、彼を見舞ってくれたと聞く。彼の柔らかい心が、人を引きつけていたのだ。

 恩師のOK先生と、炬口を見舞うため、淡路には2度飛んだ。リハビリの効果は、簡単には出なかった。二度目に会った時に、僕は「アイウエオ板」を作って、持っていった。箸を使って食事が出来ていたから、彼が指で一文字ずつ示してくれれば、会話は成り立つと考えたのだ。

 しかし、頭の中で言葉を作ることができなかったようだ。結局、指で文字を示すというのは、無理だった。彼自身、それが分かって、急に反応が鈍くなった。そして、彼の表情は固まってしまった。一本指での握手が、その時のまたねの挨拶だった。



 <見舞いその2>

 最初の面会のあと、文字よりも写真とか絵のほうが、彼には刺激になると思い、絵ハガキを書いて送ることを考えた。2週間に一度、絵ハガキを送った。介護の人によれば、ハガキを見て分かっているような反応だったと聞く。

 88枚目のハガキが届く前に、彼は逝ってしまった。脳こうそくから丸4年、ガンバってくれた。僕たちに、彼の死に対する準備期間を用意してくれたのかもしれない。静かに、穏やかに、いとこに看取られて旅立ったと聞く。2015年5月10日だった。僕と同じ73歳。

 日常的には、没交渉だったような奥様の女史も、子供たちも東京から駆けつけて、故郷の都志で、5月13日、この世界から姿を消した。

 女史から電話をもらったのは、16日。最後の連絡は、母からと、献身的に彼の面倒を見た長女のF子さんに勧められて、いや命令されて、女史は電話をくれた。お久しぶりですと彼女は言った。本当にしばらくぶりで…と僕は返した。あの夜のこと、覚えていますよ…と言いそうになったけれど、あわてて自分をおさえた。

 もうこの年になって、新しい友達を作ることは難しい。親友なんて簡単に作れるものではない。一番の親友を僕は亡くしたのだと、この三か月考えてきた。僕自身の女遍歴など、二人だけが知る秘密など、気楽の話せる友はもういなくなった。

 彼の愛用のカメラを一台持っていたいと、女史に頼んだ。彼が生涯をかけた道具、彼が相棒としたものを、僕も一台、持っていたいと思ったからだ。そう、生前の彼には、僕の愛用していたブライヤーのパイプ、20本ぐらいを贈っていた。アイルランドのピーターソン、フランスのシャコム、イタリアのガルネリ、イギリスのダンヒルなど、僕がパイプをやっていた時に使っていたものだ。愛用してくれてたようだ。

 僕には、まだ何人かの親しい友達がいる。神様はどんな計画をお持ちかわからない。その前に、機会を作って、彼らと必ず会っておきたいと計画を立てている。




P.S.
写真<将棋カメラマンの彼>は、週間将棋「雨宮編集長のコゴト@炬口さん」よりお借りしました。
キャプションに、“2010年6月17日。女流王位戦第4局。タイトルを奪取した甲斐と談笑する炬口さん”とあります。
雨宮様より、事後承認をいただきました。

写真<桃園川>は、mthr110さんの“桃園川緑道”をお借りしました。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスこの 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。

逝ってしまった身近な人たち

2015-08-01 | エッセイ


 今年、この3か月くらいの間に、親しい人を、立て続けに4人も失った。何故…と問いかけるが、誰も答えない。

 そんなことがきっかけで、僕の身近の人で、くたばった人を整理してみた。

 最初は祖母で、中学2年ぐらいの時、身近に死が僕の意識の世界に現れてきた。

 おばあちゃん、父方の祖母。僕が中学校から帰ってきたら、継母が薄暗い部屋で呆然としておばあちゃんを見ていた。掛布団の上に、包丁が置いてあった。なんだかわからなかった。親父はその日、いなかったと思う。小さなおばあちゃんの体をいれた棺桶を、村の人たちが担いで、川を渡って、向かいの山にある野焼の焼き場に運んだ。夜、まきの火の上で、おばあちゃんの体は燃えていった。残った骨を僕も拾った。



 <野焼 Yahoo 知恵袋から借用>

 次はおふくろ。実母。おふくろは僕の周りから、結構、早くいなくなっていた。小学2年のころ、母は、僕のすぐ上の姉を連れて、実家の土佐に帰っていった。その後、4年生のころ、近くにいたけれど、僕の家にはいなかった。母は、下の姉とその後の生活をしていた。姉が結婚して大阪の港区に住んでいた頃、会った記憶がある。姉の子どもの面倒を見ていたが、持病の間接リュウマチの合併症で亡くなった。僕はその場にはいないで、葬式にだけ出た。母がかわいがっていた犬が、通夜の日、一晩中、棺の周りを走り回っていた。彼も淋しかったのだろう。姉が、実家の名字で、自分の家の墓近くに、母の墓を建てた。法事にも、墓参りにも行った。かなり、僕とは薄い縁の世界に住んでいた母だ。



 <お袋>

 次が親父。彼の意志とは関係なく、僕のその後の生活を決定した人だ。洋画家で、東京でアトリエを空襲で焼かれ、父方の家のルーツがある岡山県の山の中に、家族を連れて疎開した。おばあちゃん、父母、姉二人、そして僕の6人が、10畳ぐらいの一間に生活していた。油絵を買ってくれる人が田舎にそんなにいるわけはない。赤貧。学校給食が始まるまで、毎日、おばあちゃんの作る芋粥を食べに、お昼休みに走って帰った。先に東京に帰った僕を追っかけて、親父は東京に出てきて、やっと彼の生活が成り立つようになった。



 <親父>

 僕は高校以降、学費は全部自分で作って、大学を卒業した。親父と普通に話せるようになったのは、僕に子供ができて、孫を見せに谷中に行きはじめた頃か。お弟子さんに囲まれながら、絵を描き続けて、肺がんで死んだ。僕が喪主になり、300人ものお弟子さんたちに見送られながら、荒川の町屋で骨になった。死後、見つけた彼が描いた墓のデッサンをもとに、岡山の山の中、上徳山に僕が墓を建てた。

 親父のネガティブな影響で、僕は絵を描くということはしなかった。しかし、システムアーキテクトとして、結果としては同じことをしていたと気がついたのは、のちのこと。



 <徳山家の墓>

 次は、上の姉。この人には本当にお世話になった。ある意味では、母代りだったかもしれない。赤貧の家から、高校を卒業してすぐに小学校の先生になり、独立した。僕との接点が深まったのは、彼女が、東京に出てきてからだ。間接リュウマチに侵されながら、銀座の画廊に務めていた。僕は大学生で、家賃も高かったから共同でアパート、1Kを借りていた。彼女には俳句の才能があった。いろんな俳壇にいたようだが、最終的には、現代俳句女流シリーズで本が出たくらいだ。

 その頃の公団住宅は皆の憧れだった。横浜の公団住宅を応募したのは、彼女との連名だった。僕が結婚して家を出てから、彼女がその団地で暮らしていた。僕の家庭の状況もよく理解してくれていて、僕はいろんな局面で助けてもらった。横浜市の高齢者独身住宅で、孤独死した。心筋梗塞だった。僕と彼女のパートナーが一緒に葬式を出した。親父が大好きな姉だったから、一緒の墓に入れてあげた。おばあちゃんと、父と、姉が、僕の立てた墓に眠っている。



 <姉>

 次に亡くしたのは、半血兄弟のK姉。母が、父と一緒になる前に、嫁に行っていたときの女の子だった。若くして、実母は夫を亡くし、僕の親父と再婚した。このK姉から、僕は人生の生き方のヒントを得た。独立心しか財産のない僕。彼女が旦那とドイツ・ハンブルグに5年ほど住んで、神戸に帰ってきた。大学一年の夏、一人、六甲・岡本の屋敷を訪ねた。そこで聞いたドイツの話と、お隣さんの犬がドイツ語しか分からなかったのを知って、日本から、世界に目が向いた。それが、結果的には、IBMに僕が就職することになったきっかけだった。IBMだったら、海外で働くことができると信じたからだ。そして、アメリカの会社のイタリア駐在員となって、ミラノで暮らした。今の僕の生活は、このミラノの経験から始まったと言ってもいいほどの衝撃を受けた海外経験だった。K姉に感謝。それに、彼女の功績は、母方のいとこたちを集めて、東京のいとこ会を作ったことだ。今も、おかげさまで、いとこ会が開かれ、懐かしい顔を見ることができる。(右端がK姉)



 <K姉といとこたち>

 次に来た死は、K姉の兄、同じく半血のK兄。高知の安芸に住んでいた。僕のおふくろが、土佐に帰って、この人の長男の面倒を見ていた。彼は僕より下。赤野の裏の小川で、たらいに乗って遊んでいるのを、実母が見ていた。僕が、会社を早期退職して、第二の仕事を始めるとき、僕は精神的に不安定な時間を持った。ふらり、土佐・竜馬空港まで飛んだ。車を借りて安芸を訪ねた。K兄は、嫁のSさんと僕を歓待してくれた。半血とはいえ兄弟だと実感したのは、突然の僕を迎えてくれて、安芸の岩崎弥太郎の実家や、夕日の落ちる太平洋を一緒に見てくれた時の優しさだった。嫁のSさんと二人で、二世帯住宅を建てて、長女の帰郷を待っていたが、果たせなかった。介護施設で、旅立った。



 <K兄貴とSさん>

 最後は、母方のいとこのSちゃん。僕よりちょっと年上だけど、僕が大学生活を始めたころ、東京に出てきて、ファッション・デザイナーの勉強をしていた。半血のK姉が始めたいとこ会で会った。闊達な性格で、周りを煙に巻いていたようだ。おばさんの影響を受けて、デザインの勉強をつづけ、有名なファッションデザイン・コンクールで最優秀賞を取り、デヴュー。大津で結婚生活をやりながら、デザイナーをつづけていた。認知症の合併症で、見取りを受けて、やすらかに旅立った。先日、自由ヶ丘で、Sちゃんをしのぶ、いとこ会が開かれた。これだけの人を集めるのは、それだけ、魅力のあった証拠だろう。


 <Sちゃん>

 以上7名の近しい人の死を経験した僕がやれることは、棺桶リスト(くたばるまでにやっておきたい事、会っておきたい人のリスト)を確実に、そのタスクをこなしていくしかないだろう。

 いつ、気まぐれな神様は、僕を、この世界から召されるかわからないから…。