M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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チェルト君のスナップ Ⅱ

2013-09-19 | M.シュナウザー チェルト君のひとりごと

7.僕はもう、立派な大人

凛々しいシュナウ姿。
伊豆の桜の里での僕です。



立派なシュナウでしょう。
ハーブの花の咲きほこる伊豆高原の家の庭で。



8.哲学者

哲学者のごとく、物思いにふける僕。
人間との付き合いをいろいろ考えています。



こちらは、怠け者。洗われてびしょ濡れ。新聞紙の上に転がされています。
これから、きもちいいバオバオが始まります。



9.のんびりとした生活

顎を乗っけて、おなかを出して、クッションをかぶって、
胴長と言われながらの、のんびりとした日々










10.急に決まった引っ越し

お父さんの病気のせいで、急に仙台に引っ越し。
全く知らないところ、那須の一泊。
ちょっと寂しいな、友達と別れて



キャンパーのお泊り、ちょっとどこだっけ。



ちょっぴりさみしい感じ。


エッセイ本

2013-09-09 | エッセイ

<絵はタイトルをクリックすると大きくなります>

 エッセイを書いているから、優秀なエッセイとはどんなものだろうかと、古本屋で「ベスト・エッセイクラブ編」のエッセイ、3冊を見つけて読んでみた。

1.‘93年版ベスト・エッセイ集「中くらいの妻」

92年中に発表された4000エッセイ(応募もふくむ)のうち、ベストとして選ばれた62エッセイ 318頁
選考者:佐野寧、高橋思敬、十返千鶴子、土方正巳、村尾清一の5氏

代表的4編(全4章の各章の最後のエッセイで、各章の名前になってる作品)
    「北京の怪」阿川弘之、「笑わせてくだされ」秦恒平、
    「勲章について」城山三郎、「中くらいの妻」井口泰子

2.‘95年版ベスト・エッセイ集「お父っつあんの冒険」

94年中に発表された4200エッセイ(応募もふくむ)のうち、ベストとして選ばれた62エッセイ 318頁
選考者:’93年と同じ、佐野寧、高橋思敬、十返千鶴子、土方正巳、
村尾清一の5氏

代表的4編(全4章の各章の最後のエッセイで、章の名前となっている作品)
    「まぼろしの猫」氷室冴子、「ワシントンと入れ歯」笠原浩、
    「演歌の効き目」村井靖児、「お父っつあんの冒険」荻野アンナ

3.‘99年版ベスト・エッセイ集「木炭日和」

98年中に発表された4000エッセイ(応募もふくむ)のうち、ベストとして選ばれた62エッセイ 318頁
選考者:轡田隆史、佐野寧、十返千鶴子、深谷憲一、村尾清一の5氏

代表的4編(全4章の各章の最後のエッセイで、章の名前となっている作品)
    「収容バスとの競走」斎藤博明、「遠い日へのレクイエム」神坂次郎、
    「鳥たちの「失楽園」」山岸哲、「木炭日和」村田喜代子

 
 この3冊、合計186編を、僕はだいたい一か月くらいで読み終えた。

 そこでちょっと変な体験をしたので、それをみなさんに報告したい。

 3冊を読み終えて、今思い返すと、何一つ印象に残っていないのだ。僕の年齢が、記憶をあいまいにする時期に来ていることは残念ながら否定できないが、それにしても、いい作品だ、これはすごいというものが一切、印象に残っていないのだ。読み返してみようというエッセイの記憶がないのだ。

 93年版では、著者の分布をみると、ざっと次の通りだ。

   ・作家(ノンフィクション、シナリオを含む)   21
   ・エッセイスト  5
   ・大学教授  8
   ・各界の著名人 12
   ・演劇関係者  3
   ・文学者  3
   ・新聞記者  2
   ・評論家  2
   ・メディア関係者  2
   ・医者  1
   ・音楽関係者  1
   ・主婦  2

 このなかには僕の好きな、妹尾河童さんや、半藤一利さんなんかの作品も含まれている。

 何故、個別の印象が残らないんだろうと考えた時、フッと頭に浮かんだのは、エッセイって、こんな風に一つの本にして、次から次へと読み進んでくものではないのかもしれない、という思いだった。

 こんな読みかたをしてはいけないジャンルなのかも…という発見だった。

 時間の間隙があって、それは仕事でも、他の作品でも、食事でも、旅行でも、不連続な時間をおいて、次を読むものではないかということだ。

 これらのエッセイたちは、一つ一つ、個別に吟味してみれば、自己主張があって、印象深いのではなかろうかと思う。一つ一つを、読み終えたら、ゆっくり味わってみるべきだったのだろう。

 そんな不連続の時間の中でなく、僕は次から次へと読み進んでいき、それによって、一つ一つが持っていた特異の色が、匂いが、思いでが、主張が、みんなまぜこぜになってしまって、絵の具でいえば、限りなく灰色に近づいて行ったのではないかと思うわけだ。結果として鮮明に残らないという仮説だ。

 たとえて言うと、教室の黒板にチョークで文字を書いて、一つのことが伝えられる。すぐ後に、黒板拭きで、それらの文字を消して、新しい事象を書いて、授業が進んでいくのを思い浮かべてほしい。

 この黒板拭きで、前の文字、絵が完全には消えないままで、新しい言葉とか図が書き込まれたら、見ている学生の頭の中には、完全な間隙は無く、次の事象に頭が動いていく。こんな感じだ。どこかで、ミックス・アップしてしまう傾向が頭にはあるようだ。

 こうしたことから言えば、多くの種類の著者がミックスした本は、一気に読み進んではいけないということを学んだわけだ。

 実は、灰色感の現象は、他の本でも同時に起きたことでもある。

 この3冊を読み進んでいる間に、並行して、全く別のエッセイ本を読む必要があった。

 それは、毎日新聞の夕刊の「しあわせ食堂」に連載された、昭和の味の思い出を書いたエッセイ50篇をまとめた本。50名の有名な人たちが、戦後の苦しい時代に味わった食糧難の時代の献立を懐かしく思い出しながら、綴ったエッセイだ。



 これも、一つ一つ、時間の間隔をあけて読めば、自分の記憶とてらし合せて、懐かしく読めたのだろうと思う。

 しかし、50篇のエッセイをどんどん、ページを繰りながら、本として次から次へと読んでしまうと、妹尾河童さんや、水木しげるさん、千弦室さん、田崎信也さんなどの、個別には美しいエッセイが、結果として、ないまぜになって、何も残らなかったのだ。戦後の食糧事情はみんな大変だったんだなぁ…なんて、つまんない感想が残るだけになってしまった。

 一方、同じ作家が描いた複数のエッセイはどんどんまとめて読み進むと、さっきとは逆に、その人の色が、思考のパターンがより鮮明になる。ミックス・アップしないのだ。一人の人の書いたエッセイ本は、全体でも、明確に残るものがある。

 皆さんも、こんな風なことを考えながら、エッセイを読んで、感じてみてはいかがでしょう。


P.S.
一つ学んだことは、長いエッセイは読みにくいということ。
最初の3冊は、一編、平均3、600字≒400字の原稿で9枚。
後の「しあわせ食堂」は、一編、1、000字ちょっと≒400字の原稿で2.枚半強。
こんなデータが手元に残った。

ちなみに、今読んでいただいた、このエッセイは2400字で僕にしては、ちょっと長い。
でもデータ部分の900字を差っ引くと、1500字。まぁ許されるかな。
僕は、長くても2、000字以内と決めている。