M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

6.飼っていたウサギがいなくなった日

2015-07-18 | エッセイ・シリース

 小学校に入ったころ、僕んちでは十畳ほどの一部屋の住まいの土間で、白いウサギを飼っていた。



 <ウサギ>

 名前を付けていたと思うけれど、もう思い出せない。ウサギが人に慣れるってことはあまり聞かないけれど、このウサギは僕に慣れた。巣箱から、斜めに部屋に橋をかけてやると、その板を渡って座敷にまで上がってきた。掛け声の合図はトントンだったと思う。

 板をかけて、トントンと畳をたたくと、えさの草っぱがもらえると思って、トントンと坂を登ってくる。座敷でよく遊んでいた。ウサギのウンチはポロポロで、臭くは無いし、掃除も簡単だった。僕によくなれていた。大きくなって、白い色がだんだんきれいになって、赤い目とコントラストが目に残る。見ていると、優しい気持ちになれる。やわらかに耳の内側にそっと、独り言を言ってみる。

 お袋は下の姉を連れて家を出て、実家の高知に暮らしたり、また戻ってきたりしていたから、日常のお袋の姿はあまり鮮明ではない。おばあちゃんと僕がいつも一緒だった。親父は家を空けていることが多かったから、ほとんど二人と一匹の暮らし。

 ある日、学校から戻ってみると、トントンがいなくなっていた。おばあちゃんに訊ねたけれど、答えは戻ってこなかった。どこかに遊びに行っているのかも…と思っていた。

 次の日もトントンはいない。変だぞとおばあちゃんに問いただした。小さな声で、売ったんだよと答えが返ってきた。僕んちは本当に貧しかったから、うさぎを肉用に買い取る人に売ったのだ。僕は悲しくなって、目からボロボロ涙が止まらない。僕にとって、初めての動物の友達だったから。

 しばらくは、おばあちゃんと口を利かなかった。

 僕の家は、お寺の門長屋の一間。お金がないから、学校の昼休みには学校から200メートルくらいの距離を駆けて、家に戻った。お昼の芋粥を食べるためだ。お弁当は持って行けなかったし、学校給食もまだ始まっていなかった。おばあちゃんの作ってくれた芋粥で、おなかを膨らせて、また焦って学校まで駆けて帰る。

 学校給食が始まった時は、本当に嬉しかった。もう家まで駆けて帰らなくてもいい。そして、皆と一緒に昼ご飯を食べられる。それがうれしかった。

 その頃の給食は、脱脂粉乳とコッペパン(今のコッペパンとは全く違う)、一個だけだったけれど、それは僕にはご馳走だった。一日の食事の中で、給食が一番おいしいものだったという思いがある。何か、他に一品がついていたかもしれないが、忘れている。

 そういえば、お寺の階段を下りた学校への角の店が、駄菓子屋さんだった。僕には、駄菓子を買う小遣いは貰っていない。たまに何か10円玉かなんかを持ってたりすると、その店に飛び込んで、大きな丸い飴玉をひとつ買った。甘い飴玉なんて、本当にときどきの甘さだったのだから。

 友達と、よく金属片を探したのを今、思い出した。銅の切れ端とか、何でもよかった。集めておいて、町はずれの朝鮮人がやっている屑鉄の買取の店に持っていくと、少しの小遣いが入った。それが、飴玉を買う唯一のカネだったのだろう。

 木になるものは、何でもかっぱらって食べた。柿、柘榴、夏ミカン、ゆずなどだ。見つかると怒られるから、すっとんで逃げた。大人も、ひもじい子供たちを知っていて、見ぬふりをしてくれたのだと思う。

 口にしたけど、食べられそうで、食べられないものがあった。それは、カラタチの実。金柑のような色と形をしているからと食べてみたが、にがくて吐き出した。あれは、本当に食べられなかった。

 給食の質が上がってきたのは、4年生の頃だろう。学校に、給食の調理室が出来たからだ。中身は忘れたけれど、温かいものが、やっと食べられるようになったのだ。それまでは、つめたいものしか出てこなかったのだから、チビの僕たちにとっては、とてもうれしいことだった。



 <昭和27年の脱脂粉乳給食>

 今でも、時々テレビなんかで、まずかった学校給食の代表として、脱脂粉乳の話が出るが、まずいけれど、大切な飲み物だったと思う。おかげで、僕の骨はちゃんと育ったし、身長も日本人男性の平均より高い体を持っている。

 ウサギは誰かに食われてしまったのだろう。でも、二度と、ウサギを飼うということはなかった。きっと、悲しい僕の涙を、おばあちゃんが覚えてくれていたからだろう。



 注:「学校給食」の写真使用許可は、(独)日本スポーツ振興センター学校安全部安全支援課よりいただきました。

無邪気なガキ、YMさんが天国へ

2015-07-04 | エッセイ

 
 本当に突然の知らせだった。

 上司だったこともあるI社での古い友人、YMがなくなったと元部下からメールが入ったのは4月の末。そうでなくても、4月には「逝っちまった二人」に書いたように、友人といとこがこの世を去っていた。それで十分なはずだった。

 神様は、春、4月になると残酷になるらしい。T.S. EliotのThe Waste Landを思い出す。

 The Waste Land  T.S. Eliot (1888–1965). 1922.

  APRIL is the cruellest month


 YMさんは僕と同い年。彼は元気印だったから、カスケットリスト(棺桶リスト)の「会いたい人」の中では下のほうだった。こんなに早く逝ってしまうとは…。トホホ。



 <YMさん>

 彼との歴史は長い。

 1971年に、彼を含めた僕たち5人は南仏・モンペリエで、2か月半を過ごした。もちろん仕事だ。24時間、寝食を共にしたわけだから、すっぽんぽんの本当の姿が透けて見えてくる。僕も、すっぽんぽんに分かって貰ったと思う。その後もお互い、システム屋として長い付き合いだから、YMのことは一応わかっているつもりだ。

 スポーツマンで、さばさばした行動や、物言いの快活な理想的なリーダー像を見せていた。でも本当は、彼はでかいガキ。憎めない性格と子供の心を持った奴だった。狡猾さなどみじんもないナイーブさを隠していた。彼は、本当はシャイ。そしてデリケートなのだが、それを表には見せない。

 モンペリエの頃、彼はまだ、未だアルコールがダメで、レストランでみんなと食事をすると、ワイン代で常に「割り勘負け」していた。酒の強いSさんと僕が、常に「割り勘勝ち」。YMはいつも真っ赤に酔っぱらって、高いワイン代を払わされていたのを思い出す。もちろん、その後、彼は努力して、酒が一応飲めるようになったが。



 <モンペリエ>

 彼が僕に借りを作ったのは、バルセロナへの旅。彼は、モンペリエ大学(フランスでは3番目に古い大学)へ、日本から留学していた女子学生と付き合っていた。ちょっとぽっちゃりで、無邪気な色の白い子だった。僕も何度かあったことがある。名前は忘れた。

 復活祭の休暇で、スペインのバルセロナまで出かけることになった。みんな初めてのスペイン。はしゃいでいた。楽しみにしていた。その旅に、YMはその女の子を連れて来た。当然、彼が面倒を見ると、皆が思っていた。

 しかし、着いた日の夜、その子はYMにすっぽかされて、ランブラース・ホテルのロビーで泣きべそをかいていた。YMは同期のSと、ナイトクラブに出かけて行ってしまったのだ。その夜、僕はフラメンコを見に行く予定だった。泣きそうなその子を僕は放っておけず、フラメンコにいっしょに行くかいと訊ねた。その子は頭を縦に振った。



 <バルセロナ・ランブラス通り>

 その夜、彼女のお守りさせられたのは結果的には僕。100%安全な子守役を果たした。

 翌日、YMはすまなさそう、僕に付き合ってバルセロナの郊外、モンセラートの岩山に登った。彼が修道院なんかに興味はないのはわかっていた。彼は口には出さないけれど、昨夜はゴメンと言っているみたいだった。

 日本に帰ってきてから、その子とはどうなるのかと見ていたが、数年したら、スポーツ好きなしっかりした女性と結婚した。ああ、あれでモンペリエの物語は終わったんだなと思った。

 僕が、I社を早期退職して、18年。YMとは会うことはなかった。2006年ごろ、日本に「モンペリエ同窓会」というものがあるので、一緒に出掛けないかとYMから誘われたが、僕の体調が悪く、仙台から東京までは出かられなかった。YMは僕の本、「父さんは足の短いミラネーゼ」を数冊持って行きたいので注文中だという。僕は、手持ちがあるからと、5冊くらいをYMに送った。この本の中に、モンペリエのエピソードも書いてあった。

 そして2年前ぐらいに、フェースブックで「友達」承認リクエストがYMから来た。

 僕は、こんな返事をした。

 YMさん、ご無沙汰しています。「友達のリクエスト」いただきましたが、「保留」にさせていただきます。

 I社―藤沢、大和、箱崎、野洲と、たくさんの知り合いがフェースブックを利用されているのは知っています。そんな中で、もしYMさんと僕が「友達」になったりすると、共通の元部下の連中は「右にならえ」で、きっとリクエストを出してくると思います。そうなると、なんだか昔の世界に引き戻されるような気がします。

 僕は新しい世界でフェースブックを利用していますので、ご理解ください。YMさんと連絡が取れることが確認できたわけですから、これはうれしいことです。どうぞ、元気でお過ごしください! 
 徳山(2013/01/03)

 こんな不躾な僕の返事に、YMさんは次のような返事をしてくれた。



 <IMさんのメッセージ>

 徳さん、あなたが元気でおられることが解っただけで私は嬉しく満足です。日常は殆どFBを使用していませんが、徳さんの名前が出てきたため消息を確認したく考えたまでです。

 私はお陰さまで、心身共すこぶる健康で、現在も現役で会社を経営しており、まだまだやり残したことが多々ありますので、ボケ防止もかねて、現役を続ける覚悟です。モンペリエ同窓会の折には、本を贈っていただきありがとうございました。お元気で。 
 YM(2013/1/06)

 これがYMとの最後のやり取りになった。

 ほんとは、彼はデリカシーの持ち主。それが僕たちの友情を保たせたのだと思う。

 聞いた話では、彼は酒を飲んだある席で、二人の子の父親として、「今になって、何処からか、隠し子でも現れたらなあ…」と冗談を言ったそうだ。彼の子供心が空想を描かせたのだろう。

 僕もカスケットリストの実行を進めよう。いつ相手が、いや、僕自身がくたばるかもしれないから…。


P.S.
バルセロナのエピソードを、僕の最初の単行本「父さんは足の短いミラネーゼ」に載せるとき、プライバシーの問題を考えて、彼の了解を取っておかねばと、2002年に連絡。彼は「構わないよ」と返事をくれた。本当は照れ臭かったのだろうが…。

なおこの本は、今は絶版。代わりに今は電子ブックをアップしています。無料です。http://forkn.jp/book/1912/