goo blog サービス終了のお知らせ 

M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

海外の空港たちー7 マルペンサ(ミラノ)

2019-07-21 | エッセイ・シリース

 

 <飛行図>

 

 ヨーロッパの最後は、やはり何度も使ったミラノの北、マルペンサ空港の話にしよう。 

 リナーテがミラノ市街に近い、昔からある空港で、国内線とヨーロッパ内の専用(注:2019年7月から3か月使用できず:マルペンサを代替している)になってる。新しいマルペンサは、もっぱら大陸間の長距離飛行場になったのは、最初からの宿命。ちょうど、羽田と成田の関係だ。

 

 <ミラノ・リナーテ空港> 

 僕の利用回数はも、ちゃんと数えてはいないが、かるく10回以上にはなる。個人での利用も8回は簡単に思い出される。マルペンサのミラノからのアクセスは、決して良いとは言えない。東京の成田より、ちょっと近いかなという感じはするが。電車はミラノ中心のカドルナ駅まで走っているし、ミラノ中央駅から、シャトル便がたくさん出ているから、とくに問題はない。

 

 <フライトインフォーメーション:9,800km> 

 最近は、LCCの利用が中心になってきているようで、2つのターミナルのうち、古い方はLCC専用のようだ。

<マルペンサからアルプスが見える>*1 

 成田から飛ぶと、ロシアのサンクト・ペテルブルグあたりから、眼下にヨーロッパが広がり始め、アルプスを、恐らくドロミティのあたりで飛び越えて、マルペンサに近づく。高度が下がり、窓の下に町や村が見えるようになると赤っぽいオレンジ色の屋根たち、黄色い壁、そして、緑色の窓の日よけが目に飛び込んでくる。屹立した柳の木や、教会の尖塔が近づいてくる。

 

<ミラノ特有の屋根の色>

 ああ、ミラノに帰ってきたなという気持ちが湧いてくる。この風景を見ると、やはり、ミラノは僕の第二の故郷なのだという実感がわいてくる。やはり、故郷なのだ。 

 フラッグ・シップ・キャリアのアリタリアだが、2000年以降、経営が思わしくない。もともとは国営の会社だったが、民間の会社になっても、働く人の気持ちが変わらないから、ストライキ(ショウペロ)が結構ある。賃上げ闘争が中心で、一時はKLMかルフトハンザに吸収されるかも…という状況だった。その後、アブダビのエティハド航空の資本援助により立ち直るかと見えたが、結果として破綻。今は、国の管理下の危なっかしい会社として、何とか営業している。2017年からは、全日空と共同運航をしているようだ。社員12、000人のアリタリアは、いつ破綻しても不思議はないが、僕から見ると、懐かしい飛行機としか言いようがない。

 

 

 <ドゥオモ> 

 最近の2回(2012年と2016年)のフライトでびっくりしたのは、フラッグ・シップ・キャリアのアリタリアが、マルペンサで、ボーディングブリッジを使っていなかったこと。使用料を払えなかったのかもしれない。到着も、出発も、タラップで地べたに降りて、ターミナルへ歩くか、バスに乗るということだった。お年寄りは大変だ。成田では当然、ボーディングブリッジだったから、その差にびっくりした。やはり、危ない経営状態なのだと再確認させられた。 

 一番の珍事は、2012年の帰りに起こった。いや、起こったというのは無責任で、本当は、僕の失敗なのだ。最後かもしれないと、マルペンサの免税店で高いワインを買おうと、ポケットに手を突っ込んだら、硬い、デカイ物にぶつかった。なんだと引っ張り出してみたら、ドゥオモの近くのホテル・アンバシャトーリのルーム・キーが出てきた。びっくりした。あっ、持ってきてしまったと、慌てた。

 

<ルーム・キー> 

 ホテルのレセプションの人も、僕のチェックアウトの時に、鍵を返してないと気が付かなかったのだ。慌てて、ホテルに電話した。「今、マルペンサだが、まだホテルの鍵を持っている。どうしよう?」と話した。向こうも、慌てたらしく、誰かと相談しているのが聞こえた。しばらくして、「マルペンサ空港の警察に行ってくれ。そして、事情を話して、鍵は日本に持ち帰らないでくれ」と言われた。一応ゴメンナサイといった。レセプションにも非があると思ったから、一応だ。 

 マルペンサの同じターミナル中の警察の詰め所に速足で向かった。大きな鍵を見たポリスは、ほんとうは笑い出したかったのだろうけど、グッとこらえて、威厳を保って僕の話を聞いてくれた。そして僕からホテルの電話番号を聞いて、おもむろに、でも早口で、ホテルの人と話していた。結果として、僕が差し出した大きな鍵が、どこのものが確認できたらしく、書類を作って、僕にサインしろといった。鍵は、ホテルの人が近く空港まで取りに来ることになった。よかった。僕は、大きな鍵を、よろしくと警官に渡してロビーに戻ってきた。冷や汗ものだった。よかった、予約した日本へのアリタリア便に乗れた。 

 マルペンサに到着時のことも話しておこう。中央駅行きのシャトルに乗ると、途端に携帯電話の大合唱。たくさんの人が、同時に喋り捲るから、とてもじゃないが、うるさい。「今、マルペンサに帰ってきた。これから、中央駅について…」と帰国報告だ。ミラノ・中央駅まで約一時間、と切れることなく、それが続くのだ。やれやれだ。

 

 <マルペンサ>*2 

 今のところ、2016年が最後のマルペンサの乗降になっている。40年以上の付き合いのミラノの友達も、もう85歳を超えただろうか。フェースブックの繋がりもあるし、状況はくたばるまでに分かるさと、気にしながら、過ごしている。

 

 <アリタリア> 

 しかし、AZ:アリタリア、きっと潰れるなと、心のどこかで心配している。

 

 

 

P.S. クレジット情報:

*1.  Malpensa By IK’s W. Trip  Creative Commons 2.0

*2.  Malpensa By Aleph      Creative Commons By-NC-ND 2.0


海外の空港たち– 6 コート・ダジュール(ニース)

2019-07-07 | エッセイ・シリース

 

 IBMラ・ゴード研究所に行くために、コート・ダジュールに飛んだ。

 < 飛行図 > 

 成田 → シャルル・ドゴール ⇔ コート・ダジュール → 成田 

 何をしに行ったのかが、完全に忘却の彼方に飛んでしまったヨーロッパの空港、コート・ダジュール。カンヌ、ニース、モナコのための空港を、その地域の美しい名前に置き換えた空港名で、ネーミングは流石…と思った記憶は鮮明。まさにコート・ダジュール(蒼の海岸)、地中海に面した空港だった。

<コート・ダジュール空港> 

 僕は、ミラノ駐在の頃から、この地域には私用で、何度か車で来ていて、土地勘はあった。F1レースで有名なモンテカルロのすぐ東隣に、これも有名なサンレモがあるイタリア国境に接した地域だったからだ。国境を越えて、カンヌ、アンティーブから、香水で有名なグラースまで走ったこともあった。しかし、フランス側は、ホテル代が高くて、とても泊れなかったから、サンレモで我慢したものだ。

<コート・ダジュール マップ by Google> 

 だから、このラ・ゴードの話が出た時、真っ先に手を挙げた。ここだけの話だが、僕の部門でアメリカへの出張の話が出ると、部下の課長さんや次長さんに、ていよくその話を回し、僕は逃げていた。アメリカは、あまり魅力的ではなかったからだ。しかし、ヨーロッパとなれば話は違う。EMEA(Europe, the Middle East and Africa)の会議だったら、ほとんどパリだから、積極的に手を挙げていた。ラ・ゴードもそんなEMEAヘッドコーターへの出張に、ついでにと頼まれたのかもしれない。とにかく僕は、ニースの山の奥、ラ・ゴードへの出張のチャンスを得た。

 

 <ニース> 

 前からIBMフランスにホテルの予約を頼むと、常に四つ星のホテルを予約することは知っていたから、ニースのホテルの予約を頼んだ。想定通り、四つ星が予約されていた。これは、とてつもない体験だと、興奮気味だった。ニースの四つ星は、僕みたいな普通の会社員が泊まれるほど安くはない、何しろ、高級リゾート地なのだから。今、試しに調べてみると、2泊・ワンルームで10万円ぐらいする。名前は忘れているが、ホテルは浜に面して、プライベートビーチを持っていたのだから、高かったと思う。日本IBMの定める宿泊代の上限を、はるかに超えていた。上限を超えると、その理由書を書かされることになっていたが、IBM Franceの予約だからと、言い訳を書くことができた。 

 ラ・ゴードは、ニースの西側を20kmほど登ったところにあった、ソフトウエアを中心とする開発研究所だった。今は、閉鎖されて、美しい建物だけが残っているようだ。

 

 <元IBM ラゴード研究所>

 昼休みになると、みんなで楽しそうにペタンクをやっていたのが印象的だった。研究所長さんも、幹部も入って、皆でワイワイやっていた。平らな組織だなあと、うらやましくもあった。 

 他に何か覚えているかと思い出だそうとしてみても、皆無。 

 ただ、こんな贅沢な出張をしたのは、後にも先にも、ニース、ラ・ゴードをおいてない。これに近いことは、パリのオペラ座に近いインター・コンチネンタルくらいだろう。これも、IBMフランスが予約してくれたものだ。とにかくパリでは、常にホテルは非常に高かった。

 もう一度、自費ででも泊まりたいホテルは、最初のパリで泊まったホテル デ カスティリョーネだ。有名なショッピングの通り、フォーブル・サント・ノレに面した、クラシックなホテルだった。 

<パリのインター・コンチネンタル>  

 IBMをやめてからも、ヨーロッパには何度も行っているが、いつも、ミラノに惹かれてしまって、フランスにもドイツにも行ったことはない。

 だからパリに行くことはもう一生ないというわけか…!