急告:
この親父の関係していた第93回新構造展が、6月23日~6月30日の予定で、上野の東京都美術館で開催中です。アマチュアの方も含めて、絵に興味のあり方は、行ってみてはいかがでしょう。(このカラムも、7月3日までの掲載にします)
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いろいろググってみても親父、徳山巍(たかし)の 記事はない。 Wikipedia にもない。 唯一の記載は、ある弟子さんのブログに、ちょいと載っているぐらい だ。
僕も、もう先がないから置き土産としてWikipedia で親父を紹介してみようと思って、ウィキペディアの作成要領等を読んでみた。 そこには百科事典として必要条件である客観性を求めるという項目があった。公的なものの参照が求められていた。探してみたけれど客観的に親父を評価して、その画業を記述したものはなかなか得られなかった。
仕方ない。それに代わるものとして、僕自身が主観をこめて込めて、親父の紹介をWikipedia風に行ってみようと考えた。そしてこの文章が生まれた。
今年2021年は、親父が1991年に87歳で没して、ちょうど30年。良い機会だと思う。
<晩年の徳山巍>
戸籍謄本を調べると1903年(明治36年)に、岡山県の山の中、旭川の源流、川上村上徳山に生まれている。上徳山は僕のルーツでもある。 600年に及ぶ歴史があるので、家系図も今25代目まで、ご本家にちゃんと残っている。徳山家を起こした徳山将監を祀る1300年頃からの古い徳山神社は、今も村の鎮守として残っている。毎年の秋祭も行われている。
<徳山神社>
親父には三つの顔があったと思う。一つ目は画家、二つ目は教育者、僕の親父という顔だ。最後の親父については、別に電子ブック(http://forkn.jp/book/2064/)に上げているから、今回は前の二つについて書いてみたい。
親父は1921年に18歳で上京して、東京の川端画学校でデッサンを学び始めたようだ。 さらには日本美術学校に学び、1929年に公募展「1930年協会展」に入選(26歳)し、画家の道を歩み始めた。 その頃、里見勝蔵、佐伯祐三などと知り合い、刺激を受けたようだ。 先生に「日本人は日本人の絵を描け」と言われたようだ。 これが彼の生涯のバイブルになったようにみえる。
<白日会入選の絵:サーカス>
1930年には「白日会」に入選するも、会員を辞退し、新しく「新構造社」の発足に参加し、生涯、新構造社展と離れることはなく、最後には審査委員長を務めるような形で終わった。
彼の画家としての青春時代、1930年代は彼にとって最高に楽しい時期だったと思う。当時、キリスト教会を描かせれば徳山だと、「教会の徳山」と呼ばれたくらい知名度は上がっていたようだ。
この時期の作品を、僕は訪ね回ってみたが、戦争の炎から焼け残っているものは、写真で「霊南坂教会」、そして実物で「聖テモテの教会」(1935年:32歳)だけしか発見できなかった。 まあ本当に才気溢れる力強い時期だったのだろうと思う。ただ、パリの建物を描いたユトリロを見て、愕然としたとの逸話もあるようだ。
< 霊南坂教会>
<聖テモテ教会>
<聖テモテの絵の前で、K先生と>
谷中にアトリエを建て、経済的にも恵まれ、幸せな画家生活を送っていたようだ。 しかし、そうした生活は日本がアメリカとの太平洋戦争に突入し、1945年3月10日には、東京大空襲を受ける。彼はアトリエのみならず、それまでの全ての絵を失ってしまったようだ。文献も焼けてしまったのか、ほとんど残っていない。彼が42歳の時の出来事だ。
<長谷川利行との写真:右端が親父>
調べてみると長谷川利行(1929頃)と交友があったりして、僕の祖母の肖像を長谷川利行が描いていたという記録も残っているが、肖像画そのものは空襲で焼けてしまった。残念だ。
親父は子供3人、妻、祖母とともに、ルーツである岡山県の山の中に疎開した。 当然のことながら、洋画家が田舎で生活していくことは容易ではない。 戦後の厳しい時期に、洋画家の描く 絵を買ってくれる奇特な人間はそうはいない。 数少ない例外の絵が残っている。
この時期の彼の絵、1945年から6年(42歳)にかけての作品が、一番の傑作だと僕は思っている。親父の好きだったジョルジョ・ルオーにも劣らない、美しいマチエール(絵肌)を描いている。幸いにも僕は、この時期の2点を2014年に買いもどすことができ、僕の部屋の壁に掛かっている。 この絵をその昔に買ってくれたのは、谷崎潤一郎などの疎開した文化人たちを支援してくれた勝山の造り酒屋、辻本店の当主、辻弥兵衛さんだった。
<飾り馬買い戻した一点>
<茶わん>
<室戸岬>
僕は親父より早く1961年に東京に帰ってきた。親父は1962年(59歳)に東京に戻ってきた。終戦から既に15年以上が経っていた。この間、親父は毎年、新構造社展に出品し上京してはいたが、この間に先に東京に戻ってきた作家たちが、東京で活躍し、確たる画壇を築いていた。親父はその波に乗り遅れたことになった。脂ののった40歳代と50歳代を田舎で過ごし、親父は焦っていたに違いない。
<壮年期の徳山巍>
1960年代に、親父は日本独特な抽象画をはじめた。 そうした作品がかなり残っている。
<1962(59歳):赤と黒>
<1963 断の機序>
1964年には抽象的なものでありながら、日本的な絵だった。
<1964 法隆寺>
<1964 唐招提寺>
翌年には、また純粋な抽象画に戻っていた。
<1965 竪琴>
<1965 モニュメント>
さらに日本画の技法を油絵具の世界に取り込んで、金粉で扇面とかを描き、彼が生涯を通して求めたテーマ、日本の抽象の世界を確立していったようだ。
<1972 扇面>
<1974 日本の美>
<1983 朱柱>
<1987 日本の美再発見>
残念ながら、当時の画壇では高い評価を受けることなく、耽美を追求する市井の洋画家として制作を続けていたようだ。 経済的には、厳しい生活が続いたと思う。
もう一つの親父の顔、それは紛れもなく絵を教える教育者だった。
岡山と淡路島で、県立高校の美術教師をやり、絵に興味を持つ子供たちを育て、東京の美大に何人かを送り込み何名かの洋画家を育てた。
上京してからは、新構造社展の審査委員を担当し、展覧会に出品する若者たちを自分のアトリエに集め、日常的に絵を指導する活動を始めた。これらの教え子たちは、今も活躍している。20名ぐらいのお弟子さんが、自分たちで「油彩創作家協会」を作り、東京を中心に活動している。この文章で使わせてもらっている親父の絵の大部分は、お弟子さん達が1988年に開催してくれた美術展記念画集から借用しているものだ。
<1988 徳山巍画集>
彼らは、鶯谷のアパート二軒を打ち抜いた親父のアトリエのすぐ前に、自分達で自分たちのアパートを二部屋借りてグループのアトリエとして使っていた。 こうしたグループは、東京のみならず長野、広島、静岡などにも出来て、今も活動している。
<2013年油彩展>
もう一つの教育者としての側面は、社会貢献だと言ってもいいだろう。 台東区の成人学校の美術教室を担当し、何百人もの市民の絵描きを作り出したのは大きな功績だろう。 台東区の文化功労者としても表彰されている。 余談だが、僕の大学の英語の先生のご母堂が、親父の成人学校の生徒だったということで、世間は狭いなと思ったことが記憶に残っている。
親父はタバコを吸いすぎて、晩年は肺がんで常に酸素吸入をしながら絵を描いていた。 自分の家では生活できなくなって入院することになったが、その入院先の病院でも絵を描き続けた。本当は油絵を描きたかったのだろうが、ターペンタインの匂いが強いので、病院ではそれは許されず、水彩絵の具で小さな絵をたくさん描いて病院の廊下で展覧会を開いていた。
本当に絵に生きた男だと思う。先日 、大塚から都電に乗り豊島区の鬼子母神まで行ってみた 。 親父の最後(87歳)となった鬼子母神病院は、今は大学の一部になり、親父が眺めただろう窓には、若い学生の姿があった。
<鬼子母神の境内>
親父の告別式は白山のお寺で、僕が喪主で行ったが、会社の連中、油絵・画家の友達、お弟子さん等に加えて、台東区の成人学校で勉強してくれた人たちが、たくさん見送ってくれた。結果として、町屋にある斎場までの小型のバスが足りず、葬儀社さんが慌てて追加のバスを仕立ててくれたのを覚えている。それだけみんなに愛された幸せものだったのだと思う。
そんな親父の一生を振り返ってみると、戦前の素晴らしい洋画家としての成功、戦後の混乱期の空白の時間15年程があり、その後お弟子さんや、台東区の成人学校の人達に囲まれて、慎ましいが幸せな一生を送ったのだと思っている。 関係の皆さんに、本当によく面倒を見ていただいたと感謝している。
画家、徳山巍について個人的な見解を述べると、画風とテーマを、あまりにも変えすぎたと思う。 「日本人は日本人の洋画をかけ」という呪縛からか、様々な試行錯誤を繰り返した。種々の先駆的で多岐なテーマだったが、一生を通しての徳山巍の個の画としては確立できず、結果として残らなかった。つまり日本の洋画史に、名前を残すことはできなかったのだと思う。
<1974 老桜:僕の元会社のホールにおさめられた800号(5.2mx1.9m)の大作>
僕が持っている絵の中に、親父が描きすぎてしまわないうちに、かっぱらってくるという方法で残した絵がいくつかある。またその瞬間をとらえたコレクターもいたようだ。
<1988 薊 所有している>
<1966 波良(バラ) お弟子さんが所有>
親父の告別式などでご足労願った方々に、僕が配った印刷した色紙が、彼の絶筆といえよう。美しい。
<絶筆となったトルコ桔梗 色紙>
親父が天国でこの文章を読んで、喜んでくれるかどうかは、僕には分からない。