M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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人生の転轍機 その1

2021-11-07 | エッセイ

皆さんは転轍機(てんてつき)と言う言葉をご存知でしょうか?


本来は鉄道の線路を切り替える装置で、右に行くか左に行くかをこの転轍機を使って列車の進行方向を変えるものでした。


<転轍機>

 


<人生の転轍機 #1>


僕の分岐は人生の上で、どういったことがあったのかを整理してみようと考えました。書いてみるといろんな分岐がありましたが、大きく言えば12の分岐を経由して、今に至っていると思います。その分岐の決定は、自分自身のものと、他の人の決定の2種類がありました。


<東京大空襲>


分岐1 (他の人の決定)


僕が生まれたのは東京・谷中。太平洋戦争の1945年東京大空襲3月10日に、僕の家が全焼し、一家で疎開することから始まりました。候補地として考えられたのは母方の高知か、父方の係累のいる岡山の山の中という選択支がありました。


<岡山・川上村 徳山神社>
両親の選択は、徳山家の代々の係累が600年ほど住む歴史のある岡山の山国の徳山村でした。山の中での生活は、親父が洋画家だったこともあり、困窮を極めました。もし、明るくて暖かい母方の高知の海の村に疎開していたら、その後の生活には大きな違いがあっただろうと思います。大人になって母の故郷に行ってみて、強くそう感じました。


分岐2 (他の人の決定)


<洲本高校>
2つ目は親父の転居でした。岡山から淡路島への転居でした。そこには古くからの親父のお弟子さんが医者として病院を経営していて、親父は鳴門の渦潮をテーマとして描きたいということで、洲本市に転居を決めたようです。僕は高校2年の2学期から洲本高校に転校することになりました。岡山の県立高校から兵庫の県立高校への転校だったので、転入試験がありました。淡路島の歴史あるトップ校の洲本高校に転入学でき、新しい人生をはじめることができました。


この時知り合った、親しい友達、炬口くんと、恩師、奥野先生から大きな影響を受けました。逆に僕自身も、炬口には大きな影響を与えたと思います。彼はガリ勉で常に教室の1番前に座り、暗い顔をしながらメガネを光らせていた根暗な受験生でした。そこに僕の親父の洋画家が現れ、東京の生活の匂いを漂わせ、彼の世界の認識が広がり、影響されて彼も勉強以外への興味を広げていきました。そして僕の一番の親友になりました、


<炬口と僕>


洲本高校卒業の後、僕は学費の安い公立を選び大阪市立大に入学し、アルバイトと学業と60年安保の闘争の中で1年を過ごしました。その後、僕は3つ目の分岐点を迎えました。僕自身が大阪に残る、つまり大阪市立大学を卒業して大阪で仕事に就くという可能性を捨てて、一人で東京に戻るということを選びました。


分岐3 (自分の決断)


東京になぜ行くことになったのかと言えば、親父も早く、東京に帰りたかっていましたが、僕自身も3歳までしか住んでいなかった東京・谷中に憧れがあったのだと思います。僕の家族の間では疎開生活中もずっと標準語で話していましたから、いろいろ、からかいや、差別を受けました。東京へは、先ず炬口が早稲田の仏文に入って、新宿・面影橋の近くの下宿屋に住んでいたので、そこに一時、転がり込むことになりました。後で南こうせつの「神田川」でうたわれたような3畳一間の下宿から、神田川を眺めながらアルバイトに頑張りました。


<バイト先:河田町・フジTV Creative Commons 3.0 BY フジTV>


分岐4 (自分の決断)


僕としてはアルバイトで金を貯めて、炬口が入った早稲田に入るのが希望でした。しかし入学を出願する頃、当時の早稲田の総長、大浜さんが突然、大幅に学費を値上げしました。アルバイトで貯めていたお金では、とても対応できるような金額ではなくなりました。仕方なく学費の安い、しかもバイト先から近い大学を都内に探しました。

その条件に合った大学が法政でした。アルバイトを続けながら法政でがんばって勉強していたら、いつの間にか成績は学部トップになりました。おかげで2年生からは学費免除となりました。親父からの学費援助は、高校入学の時点で打ち切られていました。高校入学時から、審査試験で合格した特別奨学金を受けていましたが、大学の学費免除は、大変な援助になりました。


<法政大学>


分岐5 (自分の決断)


法政の学部を首席で卒業することになりましたが、この間、就職という分岐点に差し掛かりました。大学院に残るかと、教授に声をかけられましたが、外の世界を選びました。


希望したのは新聞社、出版社、そして、その頃、始まったテレビの世界でした。が、同時に海外の会社にも気持ちが動きました。


その理由には1つは親父の影響があると思います。親父が若い時期に、東京のキリスト教会を描いていましたが、世間に認められ「教会の徳山」と呼ばれるまでに成功したと言えるでしょう。しかし、戦前にフランスへの留学と言う事はなかなかできなかったようで、常にヨーロッパに目を向けている親父がいました。まぁ洋画家ですからフランスやイタリア、オランダなどの油絵に関して興味があった事は間違いないと思います。その辺の影響を受けていたのかもしれませんが、僕も海外で働いてみたいと言う希望も持っていました。ちなみに、探してみましたが、親父の描いたキリスト教会の絵は、文京区・本郷の聖テモテ教会に残っているのが唯一の絵でした。


<S/360>


外資系で応募したのが、ちょうどシステム/360で世界を席巻しようとしていたIBMでした。日本の会社では、TV8チャンネルで第4次面接まで行きましたが失敗。IBMの最終健康診断の日と小学館の社長面接の日が重なり、僕は日本IBMの健康診断へ方向を決めました。これは大きな転機だったと思います。

#2に続く


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