ミニチュア・シュナウザーのチェルトです。
これから、いろんなエピソードをひとりごとで話していきます。
これはチェルト君のふるさと、ケンネルエイトの小5~6年生の男の子がくれたワニさん
1.prologue プロローグ
僕はミニチュア・シュナウザーのチェルト。
1996年12月9日に東京に生まれたオス。一緒に生まれた6匹のなかの一番末っ子。
だから、ABC順に名前がつけられて6番目、Fから始まるフォルスタッフっていうんだ、正式にはね。
でも僕は、おとうさんに、チェルトと名づけられたんだ。毛の色はサルト&ペッペー、つまり胡麻塩色。おとうさんはずっとシュナウザー犬を飼っていて、最初が、アンナ、そして二番目が、べー、そして次が僕だったからABC順に、三番目のCから始まるチェルトってつけたんだって。イタリア語で、「たしかに」とか「もちろん」とか「あったりまえ」っていう意味なんだって。アンナは長生きして、19歳近くまで生きたらしい。おとうさんは、それでシュナウザーにはまってシュナウザーだけを飼い続けたんだって。
僕の犬のお父さんは、アメリカ生まれで、アメリカン・ケンネル・クラブのチャンピオンにもなったんだ。お母さん犬もアメリカ生まれ。チャンピオンではなかったけれど、お母さんの両親とも、やはりアメリカのチャンピオン犬だったから立派な血統なんだって。
6匹もの子犬を育てるのに、犬のお母さんは大変だったみたい。でも僕は割を食ってた。お母さんのおっぱいを他の大きな兄弟・姉妹に先に吸われて、僕は入り込めなかった。六匹の中では、やっぱり一番チビで、体が小さく、体力負けしていた。
なかなか、おっぱいにありつけなくて、猫のような声で泣いていたんだ。そしたら、お母さんが、時々大きな仔をどけて、僕の入り込む隙間を作ってくれて、何とかおっぱいにしゃぶりつくことができたんだ。そんなこともあって、僕は気の弱い、ちょっと引っ込み思案な感じの子犬だったようだ、ちっちゃい頃は。
僕は、2ヶ月ほどは母さん犬と一緒に暮らしていたんだけれど、お父さんのいる犬屋さんに移された。
環8の瀬田交差点の近くのシュナウザー専門の「ケンネル・エイト」って犬屋さんで、一日中、真夜中だって前の大きな道をひっきりなしに車が走って、音と揺れが来た。初めの頃はおっかなかったけど、兄弟とか、僕のお父さん犬とか、おばさん犬とか、他のお姉さん犬なんかもいて、ちっとも淋しくはなかった。
店にはバリケンという犬小屋が積みあげられて、まるでアパート見たいになったハウスのほかは、店の床、全てに新聞紙が敷きつめられていて、その上を僕たちは自由に動き回っていた。
何か悪いことをすると、おばさん犬に叱られた。駄目だよ、そんなことしちゃってピシッと言われた。兄弟姉妹で取っ組み合いの仕方を学んだ。ガウ、ガウとかみ合って遊んでいた。僕はちっちゃいから、組み伏せられて、悲鳴を上げたこともあった。お父さん犬に、頑張れウォンって言われた。悔しいけど、でもやっぱり一番チビだった。
そんな楽しい日々が続いたのだけれど、僕の兄弟姉妹は、いつの間にか少なくなっていって、結果として僕一匹だけが子犬としてその店にいた。
2月のある寒い日、店に二人連れのお客さんがやってきた。お父さん犬が、ウォン、ウォンってかすれた声で吼えた。僕は、いつものように新聞紙の上をごそごそと何か面白いもの無いかなぁと這い回っていた。
お店のご主人が、お客さんに、両手を組んでくださいと言った。その瞬間、僕はお店の人にすっとすくい上げられて、お客さんの組んだ手のひらに置かれた。僕はびっくりした。
「かわいいな、でもまだまだチビなんですね」って、そのお客さんが笑った。お客さんの奥さんらしい人も優しくなでてくれた。温かくて、びっくりしたのが収まった。僕はその組まれた両手の中にすっぽりはまり込んで、少し安心した。その人は、僕んちには今まで2頭のシュナウザーがいたんですよといっていた。
ウォン、ウォンって吼えてた父さん犬のバリケンにはカーテンが下ろされ、お店の人とお客さんが話していた。僕は下ろされて、新聞紙の床の上を這って自分のハウスに近づいていった。僕の鼻の周りには、放射状に丸く毛が生えていて、自分の足元がいつも良く見えないで歩いていた。お腹が空いたなー、ご飯まだかなー、イヌやさんの小学生のKちゃん、まだ学校から帰ってこないのかなーなんて考えていた。
それが、僕の新しい生活のきっかけだったのを僕は知らなかった。あとで、僕のおとうさんになるそのお客さんも、僕みたいなチビが自分の所に来るとは考えていなかったようだ。良くこんなにちっちゃかったんだぞと、手のひらを組んで見せていた。
お店の人が、ミニチュア・シュナウザーは絶対、ダンジをやんなくちゃといっていた。
それにキョセイするほうが、犬にも飼い主にもストレスが少ないと勧めていたようだけれど、僕にはなんのことかわからないでいた。
これから、いろんなエピソードをひとりごとで話していきます。
これはチェルト君のふるさと、ケンネルエイトの小5~6年生の男の子がくれたワニさん
1.prologue プロローグ
僕はミニチュア・シュナウザーのチェルト。
1996年12月9日に東京に生まれたオス。一緒に生まれた6匹のなかの一番末っ子。
だから、ABC順に名前がつけられて6番目、Fから始まるフォルスタッフっていうんだ、正式にはね。
でも僕は、おとうさんに、チェルトと名づけられたんだ。毛の色はサルト&ペッペー、つまり胡麻塩色。おとうさんはずっとシュナウザー犬を飼っていて、最初が、アンナ、そして二番目が、べー、そして次が僕だったからABC順に、三番目のCから始まるチェルトってつけたんだって。イタリア語で、「たしかに」とか「もちろん」とか「あったりまえ」っていう意味なんだって。アンナは長生きして、19歳近くまで生きたらしい。おとうさんは、それでシュナウザーにはまってシュナウザーだけを飼い続けたんだって。
僕の犬のお父さんは、アメリカ生まれで、アメリカン・ケンネル・クラブのチャンピオンにもなったんだ。お母さん犬もアメリカ生まれ。チャンピオンではなかったけれど、お母さんの両親とも、やはりアメリカのチャンピオン犬だったから立派な血統なんだって。
6匹もの子犬を育てるのに、犬のお母さんは大変だったみたい。でも僕は割を食ってた。お母さんのおっぱいを他の大きな兄弟・姉妹に先に吸われて、僕は入り込めなかった。六匹の中では、やっぱり一番チビで、体が小さく、体力負けしていた。
なかなか、おっぱいにありつけなくて、猫のような声で泣いていたんだ。そしたら、お母さんが、時々大きな仔をどけて、僕の入り込む隙間を作ってくれて、何とかおっぱいにしゃぶりつくことができたんだ。そんなこともあって、僕は気の弱い、ちょっと引っ込み思案な感じの子犬だったようだ、ちっちゃい頃は。
僕は、2ヶ月ほどは母さん犬と一緒に暮らしていたんだけれど、お父さんのいる犬屋さんに移された。
環8の瀬田交差点の近くのシュナウザー専門の「ケンネル・エイト」って犬屋さんで、一日中、真夜中だって前の大きな道をひっきりなしに車が走って、音と揺れが来た。初めの頃はおっかなかったけど、兄弟とか、僕のお父さん犬とか、おばさん犬とか、他のお姉さん犬なんかもいて、ちっとも淋しくはなかった。
店にはバリケンという犬小屋が積みあげられて、まるでアパート見たいになったハウスのほかは、店の床、全てに新聞紙が敷きつめられていて、その上を僕たちは自由に動き回っていた。
何か悪いことをすると、おばさん犬に叱られた。駄目だよ、そんなことしちゃってピシッと言われた。兄弟姉妹で取っ組み合いの仕方を学んだ。ガウ、ガウとかみ合って遊んでいた。僕はちっちゃいから、組み伏せられて、悲鳴を上げたこともあった。お父さん犬に、頑張れウォンって言われた。悔しいけど、でもやっぱり一番チビだった。
そんな楽しい日々が続いたのだけれど、僕の兄弟姉妹は、いつの間にか少なくなっていって、結果として僕一匹だけが子犬としてその店にいた。
2月のある寒い日、店に二人連れのお客さんがやってきた。お父さん犬が、ウォン、ウォンってかすれた声で吼えた。僕は、いつものように新聞紙の上をごそごそと何か面白いもの無いかなぁと這い回っていた。
お店のご主人が、お客さんに、両手を組んでくださいと言った。その瞬間、僕はお店の人にすっとすくい上げられて、お客さんの組んだ手のひらに置かれた。僕はびっくりした。
「かわいいな、でもまだまだチビなんですね」って、そのお客さんが笑った。お客さんの奥さんらしい人も優しくなでてくれた。温かくて、びっくりしたのが収まった。僕はその組まれた両手の中にすっぽりはまり込んで、少し安心した。その人は、僕んちには今まで2頭のシュナウザーがいたんですよといっていた。
ウォン、ウォンって吼えてた父さん犬のバリケンにはカーテンが下ろされ、お店の人とお客さんが話していた。僕は下ろされて、新聞紙の床の上を這って自分のハウスに近づいていった。僕の鼻の周りには、放射状に丸く毛が生えていて、自分の足元がいつも良く見えないで歩いていた。お腹が空いたなー、ご飯まだかなー、イヌやさんの小学生のKちゃん、まだ学校から帰ってこないのかなーなんて考えていた。
それが、僕の新しい生活のきっかけだったのを僕は知らなかった。あとで、僕のおとうさんになるそのお客さんも、僕みたいなチビが自分の所に来るとは考えていなかったようだ。良くこんなにちっちゃかったんだぞと、手のひらを組んで見せていた。
お店の人が、ミニチュア・シュナウザーは絶対、ダンジをやんなくちゃといっていた。
それにキョセイするほうが、犬にも飼い主にもストレスが少ないと勧めていたようだけれど、僕にはなんのことかわからないでいた。